心の敷石

Candyの 思いつくまま気の向くまま

脳死を人の死と認めることには反対です…⑦

2009年07月01日 | 脳死・臓器移植

脳死による臓器移植に関する人々の考え方で多いと思われるものに「自分が脳死に
なったら臓器を提供しても良いが、家族が脳死になった場合は臓器提供には抵抗が
ある」というものがあります。

この「自分の臓器を人助けの為に役立てて欲しい」という考えは、TVなどで放映
される「臓器に疾患を持つ幼い子供」の映像記憶などによって(もしかしたら意図
的に)形成させられてしまったものかも知れません。

何故ならマスコミは「80歳の莫大な資産家が若者の健康な臓器の移植を希望して
います」などとは決して報道するわけがありません。臓器移植は、なにも先天的な
臓器機能不全を持った可愛そうな子供や、将来のある若者達にだけに施す手術では
ないのです。

自分が提供する臓器が「どこの誰に」移植されるかドナーには分からないのです。
もし相手が金持ちの強欲なお年寄りだと想像(仮定)しても、ドナーになる事に
同意する気持ちに変わりはないでしょうか。

まあ臓器を必要とする相手が資産家なら臓器提供に対する謝礼も高額かもしれま
せんが…?

それにしても臓器に所有権があるから売買という発想になるのか…私にはよく分か
りません。そして脳死になった子供の臓器は親のものなんですか?多分おおかたの
人達は、自分自身の臓器だって本当に自分のものかどうかなど突き詰めて考えた
ことはないでしょう。

だからもし自分の臓器は自分のものか問われれば反射的に「当然」という答えが
浮かんでくるのではないかと思うのですが。

しかし身体は単なる個人の所有物ではないでしょう。身体の働き(生命の営み)に
関して私達は自分の意志でそれを変えることは出来ない、つまり心臓の鼓動や消化
器の働きを意のままに変えることなど出来ないという意味です。

言葉では上手く表現出来ませんが、本人でさえ自由に出来ない臓器を、他人に提供
するという発想自体、極端に言えば人間の「思い上がり」のように思います。

何に対しての「思い上がり」かというと、それは「神」に対して。神様でもいいし
命を命たらしめている「大生命」でもいい…

そういう感性が希薄になってしまっている現代だから、今の世界の混迷が生まれて
いるのではないかと思うのです。

「神無き教育は知恵ある悪魔を作る」・・一説にはガリレオ・ガリレイの言葉とも
伝えられるこの教訓が、今こそ必要な時はないのでは?と思う今日この頃です。


最新の画像もっと見る