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ぶら~り相模の国

信州生まれの勘太郎、のんびり人生

過激派組織によるマラウィ占拠の今は・・・・

2017年10月23日 | Luzon島
先日、ドゥテルテ大統領は10月17日にマラウィ解放を宣言して、
国軍は20日から部隊の一部をマラウィから撤退を始めた・・・

マラウィ占拠で現地は何が起こっていたのでしょうか???
日本の新聞ではあまり報道されていないが、10月17日の
新聞に小さく書かれていた。




マラウィはフィリピンのどこにあって今何が起こっているのでしょうか!!!

フィリピンに滞在していた頃は「チョコレートヒル」や「メガネザル」で有名な
ボホール島には行ったが、隣の大きなミンダナオ島には行っていなかった~~~

ミンダナオ島のマラウィとはどんなところでしょうか???

マラウィ市、正式名称マラウィ・イスラム市(The Islamic City of Marawi)は、
フィリピン・ミンダナオ島の西部に位置する南ラナオ州の州都。
農業と農産物の出荷が主な産業で、ムスリムのマラナオ人が多く、
マラナオ語が通用している。

ミンダナオ島最大の湖ラナオ湖の北岸に位置し、アグス川がここから流れ出ており、
市街地は川の西岸にある。
面積は22.60平方km、人口は131,090人で世帯数は20,375(2000年国勢調査)。








マラウィからISに忠誠を誓う過激派組織が去った後の街は壊滅状態になっている!!!
これはシリアやイラク内でISが占拠した街と同じ状況である・・・

マラウィ市民(約15万人)のほとんどは隣のLANAO DER NORTE(北ラナオ州)の
州都であるILIGAN(イリガン)市などに避難していて、マラウィ市内には
人質としてまだ数十人が捕えられている!!!


(破壊された廃墟となった市街地)





首謀者のマウテ兄弟が殺害された今の現地はどうなっているんでしょうか???

現地からの報道は

『ドゥテルテ大統領は17日にマラウィ解放を宣言、国軍は20日から部隊の一部を
 マラウィから撤退させ始めた。

 しかし「湖畔の避暑地」で住民が生活を再開するためには、過激派が残した地雷や
 爆弾の処理だけでも1カ月以上かかるとされている。

 国軍はイスラム過激派マウテ・グループら400人以上が5月23日に市を
 占拠して以来、陸軍を総動員し、地上戦で過激派を殺害するとともに、
 空軍の爆撃と砲撃で建物を徹底的に破壊してきた。

 スナイパー(狙撃手)が潜むビルなどを一つ一つつぶし、制圧するためだった。
 写真を見る限り、破壊のありさまは、中東で「イスラム国」(IS)が占拠、
 後に奪還されたイラクのモスル、シリアのラッカにも比肩する激しさだ。
 
 マラウィ復興には、日本を含む各国が支援に名乗りを上げている。しかし、
 復興費は、フィリピン政府の見積もりでも少なくとも60億ペソ以上の巨額に
 なるとみられている。
 
 マラウィから逃走した過激派が新たな組織を作りつつあるとの情報も気になる。
 避難民の帰還と生活の立て直しには年単位の時間が必要になりそうだ。』
 (まにら新聞から)







(画像は現地の報道機関から)

ご当地ナンバープレート???

2017年10月15日 | Luzon島
この車はどこで走っているのでしょうか。皆さんご存知でしょうか???

日本でも近い将来にナンバープレートが変更になると聞いたが
それなんでしょうか???

よく見るとそうでもなさそうだ!!!!

この車両はフィリピンで走っているもので、現地からの画像を
見つけました。

フィリピンでも日本と同じように希望するナンバーが入手できます。
フィリピンでは自動車を購入すると、陸運局(LTO)からナンバーが
発行されます。

ただし、番号が書かれたシール(黄色)がフロントとリアの窓に貼られたもので
その後に前後に取り付けるプレートが発行されます。

ただしこのナンバープレートは半年くらいしないと入手できない。

その間はナンバープレートなしでも走ることができる。

また、希望の文字や番号を発行してもらうこともできる(有料)
このため画像のようなナンバープレートを発行してもらえる!!!

(以前のブログを参照



マニラで日本の紹介が

2017年10月10日 | Luzon島
マニラからのニュースによると日本の魅力を紹介する
「トラベルフェステバル」が開催されたと報じていました。

以下マニラからの新聞ニュースです・・・・

日本の旅の魅力を紹介、ツアー販売も行う旅行博
「第3回日本トラベルフェスティバル」が10月7日、首都圏パサイ市の
商業施設モール・オブ・アジア(MOA)で開かれ、
観光協会や旅行代理店、航空会社が設けた12のブースに
多く人が集まり、訪日観光の話に耳を傾けた。

 旅行博を主催した日本政府観光局のマニラ事務所設置準備室、
藤内大輔室長はあいさつで、旅行博のコンセプトを「冬の日本で
最高を見つける」と紹介。

比が訪日観光客で10番目に人数が多い国であることを挙げながら、
来場者には文化体験などを楽しんでもらい、
ぜひ日本を訪れてほしいと訴えた。





また先月(9月)には同じくマニラ首都圏マカティ市で
長野県観光部が、フィリピン人の間で日本観光熱が高まって
いることから、観光セミナーと商談会を開催した。

近年、日本を訪れることが多くなったフィリピンで
長野県をアピールしていた。


(画像は現地の新聞から)

マニラの「たこ焼き」店???

2017年10月06日 | Luzon島
ちょっと古い話題ですが、今年の初めにマニラの新聞に
「たこ焼き」店らしき写真掲載されていました!!!!

店に掲げられた横文字はTAKOYASAIともTAKUYAKI
とも想像できるが、果たして何だろう~~~

日本語で書かれた文字は「たこ焼き」とも僅かに読み取れるのですが・・・

確認したい方は首都圏マニラのマカティを訪れて探してください!!!





マグサイサイ賞の受賞者が発表された

2017年08月02日 | Luzon島
先月7月28日にフィリピンマニラ首都圏タギク市で
「アジアのノーベル賞」と呼ばれる『マグサイサイ賞』の
受賞者が マグサイサイ財団からアジアで社会的貢献を果たした人物を
たたえる「マグサイサイ賞」の受賞者を発表した。

その中にカンボジアで遺跡の修復に取り組む上智大の石澤教授が
受賞しました!!!


発表するデルロサリオ会長=27日午前11時頃、首都圏タギッグ市で




日本での新聞記事



H23年にアンコールワットを訪れた時の画像



マグサイサイ賞とは
Ramon Magsaysay Award

アジアの地域社会に貢献した個人や団体を表彰する賞。
フィリピンの第7代大統領ラモン・マグサイサイの功績をたたえて設立された。

正式名称はラモン・マグサイサイ賞。アジアの「ノーベル賞」ともいわれている。

1957年3月に突然の事故によって、49歳で死去したマグサイサイの清廉で正義感に富んだ
政治姿勢や多くの功績を後世に伝えるため、ロックフェラー・ブラザーズ基金(本部・アメリカ)の
出資で1957年4月に設立されたラモン・マグサイサイ賞財団によって運営されている。

マグサイサイ賞はアジア地域が抱える社会的課題の解決や平和と連帯などの公共における
業績や成果を重視し、6部門の賞を設けている。

記憶がよみがえるピナツボ山大噴火!!!

2017年06月29日 | Luzon島
少し前にフィリピン現地の新聞にピナツボ山大噴火の記事が載っていて、
当時はマニラに駐在していたので思い出しました。

今から26年前の平成3年(1991年)6月7日、フイリピンのルソン島Pampanga州、
Tarlac州、Zambales州の境界に位置するMt.Pinatubo(ピナツボ)山が400年ぶりに大噴火した。

20世紀最大の火山噴火で、放出された大量の火山灰が成層圏にまで達し、
世界中の日射量を長期間にわたり減少させた。
そして噴火前は標高1745mだったピナツボ山は噴火後膨大な噴出物により低くなり、
1486mの山になってしまった。









早いものであれからもう26年になるんですねぇ!!!
当時マニラに駐在していた時で、DOTC(運輸通信省)のTelofビル内にいたのですが
すぐに噴火したとわかった・・・・
その後数日間は小噴火を繰り返していた。









当時のメモをみると、6月16日は前日の噴火の影響でマニラ市内でも火山灰が
積もっていたと書かれている。






今では何もなかったようにフィリピンの人々は忘れかけているのでしょうか?
噴火直後にパンガシナン州の通信プロジェクトを行っている町に検査に出かけたが、
大量の火山灰が道路を埋めて通行に困難であったことを記憶している。

道路だけではなく畑や家屋そして教会も半分程埋まってしまったところもあった。
最大の噴火は、この年の6月15日の噴火で、この時は台風5号が接近して大雨と
なっており、火山災害を拡大させた。

噴火による死者は約300人ですが、多くは屋根に堆積してた火山灰が雨を吸収して
重くなって家が潰れたことによる。

南西に75キロメートルにあるスービック海軍基地、東に40キロメートルにある
クラーク海軍基地という、アメリカ軍の重要な基地は、噴火によって放棄となり撤退した。








このピナツボ山大噴火の前に周辺では異変が起きていた。

最初の異変が起きたのは、主噴火の約11カ月前の1990年(平成2年)7月16日。
この日、ピナツボ火山の北東約100キロメートルを震源とするM7.8のルソン島部地震が発生した。
その後この地震は「バギオ大震災」と名前がつけられた。

この直後、ピナツボ火山で土砂崩れや地震が発生し、一時的に噴気が活発化した。

さらに1991年3月、ピナツボ火山周辺で小規模な地震が群発するようになり、
4月には山頂近くの北西斜面で水蒸気爆発が起こりました。

6月初めまでの地震発生回数は数千回に上り、二酸化硫黄ガスが大量に放出されました。
そして最初の地震から11か月後の1991年6月7日に大噴火をした。







このバギオ大震災の時もマニラにいて大きな揺れを感じたのをはっきり記憶している。




そして直後1990年7月26日~8月1日かけてパンガシナン州から南イロコス州、北イロコス州の
現地に行ったが、橋が崩落していたり家屋やビルなどが倒壊していた。
建設した通信設備(局舎、鉄塔等)には大きな被害は出ていなかった。















フィリピン独立記念日を祝う式典がが行われた・・・

2017年06月17日 | Luzon島

独立記念日(6月12日)を祝う政府の式典が12日、首都圏マニラ市の
リサール公園で開かれた。
例年、式典には歴代大統領が出席しているが、今年はドゥテルテ大統領が
異例の欠席でした。

では大統領はどうしていたのか???

今、大統領の出身地ダバオ市のあるミンダナオ島マラウィ市をIS系の
反政府ゲリラが占拠して銃撃戦が行われている・・・

このため大統領は地元を離れられず陣頭指揮を執っている!!!
式典には大統領に代わってロブレド副大統領(中央の女性)が出席しました。






以下は現地からの情報!!!


フィリピンの独立記念日にあたる6月12日、南部ミンダナオ(Mindanao)島のマラウィ(Marawi)で、
イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」系武装勢力と政府軍との間で激しい戦闘があった。







イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」系武装勢力と国軍との間で戦闘が続く
フィリピン南部ミンダナオ(Mindanao)島のマラウィ(Marawi)で12日、戦闘の
犠牲となった兵士や市民らを追悼する式が行われた。

この日は同国の独立記念日に当たり、国旗が掲揚された市庁舎の周りでは多くの兵士や
市職員が犠牲者に祈りを捧げた。
 
前日には戦闘で死亡した兵士らの遺体が首都マニラに搬送され、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領が
空港でフィリピン国旗で覆われたひつぎに敬礼を行う姿も見られた。
 
マラウィでは米特殊部隊の支援を受けるフィリピン軍が、武装勢力の戦闘員数百人と
激しい戦闘を続けている。
武装勢力は先月23日にISの黒い旗を掲げながら同市内を襲撃して以来、最大2000人の
民間人を人間の盾にするなどして激しく抵抗している。
 
マラウィで戦闘中の陸軍部隊を率いるホセ・マリア・クエルポ大佐は「この式はマラウィ市内の
作戦に命を捧げた兵士たちに捧げられる」と語った。
フィリピンの独立記念日には通常、スペインの植民地支配に対する武装蜂起を記念した式典が行われる。
 
軍当局の発表によると、マラウィ市内の戦闘でこれまでに軍兵士と警察官合わせて58人、
さらに民間人20人以上が死亡し、武装勢力の戦闘員およそ200人が殺害されたという。

そして住民のほとんどは町を離れて近くのイリガン市(Iligan)に避難している。
しかしマラウィでは約2000人が反政府軍に人質としてとらえられていると云う・・・






フィリピンの独立記念日について

フィリピンが当時、植民地支配をしていたスペインからの独立を宣言したのは、
今から100年以上前の1898年6月12日のこと。

 そんなフィリピンの独立を語る上で外せない人物となっているのが、フィリピン共和国の
初代大統領であり、フィリピンの独立運動における最も重要な指導者だったといわれている、
エミリオ・アギナルド氏(1869年~1964年)です。

アギナルド氏は、もともとマニラ郊外にあるカウイトという町の町長だったのですが、
1896年にスペインからの独立を目的に結成された秘密組織である「カティプナン」の
メンバーに加わり、それ以降はフィリピン革命に向けて奔走します。

その後1898年に勃発した「米西戦争」において、アメリカ軍に協力する形でスペイン軍への
攻撃に加わり、ついにフィリピンの独立を実現させて大統領へと就任したのです。

このような出来事があったことから、現在のフィリピンでは毎年6月12日を独立記念日とし、
国民の祝日の1つに制定しているのです。

フィリピンの国旗にはどんな意味がある?

フィリピン国内では、毎年独立記念日になると街の至るところに大小のフィリピンの国旗が
掲げられるようになるのですが、その理由はただ単に「国の旗だから」というだけではありません。

実は何を隠そう、この国旗のデザインを考案したのは、ほかでもないアギナルド氏なのです。
この国旗には青、赤、白、黄色の4色が使われているのですが、それぞれの色にはちゃんとした意味があります。

・青-「平和」「真実」「正義」
・赤-「勇気」「愛国心」
・白-「平等」「友愛」
・黄-「自由」

また、黄色い太陽の周りにある3つの星は、フィリピンにおける代表的な島であるルソン島、
ミンダナオ島、ヴィサヤ諸島を象徴しています。

そして黄色い太陽から伸びている計8本の光条は、フィリピン独立革命の際に最初に立ち上がった、
ルソン島の8つの州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カビテ州、バタンガス州、
ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表しているそうです。

つまりこの国旗は、フィリピンの信条と歴史そのものを形にしたものであると言えるのです。
フィリピンの国民達は独立のために闘った祖先やアギナルド氏に敬意を表して、
独立記念日に国旗を掲げているのかもしれませんね。




ボホール(Bohol)島のターシャ

2017年04月02日 | Luzon島
先日、テレビでフィリピンのボホール(Bohol)島観光の特集を放映していた。
以前フィリピンに駐在していた頃にボホール島を訪れたことがある・・・

7000を越す島国フィリピンのセブ島の南隣に位置するのがボホール島です。
フィリピンの国内では10番目の大きな島です~~~
ビーチはパウダーサンドでダイビングスポットも多く点在する。
セブ島のセブ市から高速フェリーで約90分で行くことができる~~~






そして何と言っても世界最小のメガネザル「ターシャ」や幻想的な景観を
誇る「チョコレートヒル」など見どころもたくさんあります!!!






見どころの一つである「ターシャ」は体長10~12cm位、体重は100gちょっとである。
特徴は目が大きくて夜行性に適していて、暗いところも良く見ることができるようです。
この世界一小さいサルを見ようとボホール島を訪れる人は多い!!!

しかし、この「ターシャ」は絶滅の危機にさらされていると云う。



フィリピンの果物(10)カラマンシー(その2)

2017年03月20日 | Luzon島
フィリピンではこれから本格的に暑く(乾季)なり学校も長い休みに入る。
そして暑くなれば思い出すのがカラマンシー(Calamansi)です!!!
以前のブログで書きましたが再びカラマンシーです~~~






カラマンシーは柑橘類の一種で直径2〜3cmくらいで、
味、形とも日本の「酢橘」に似ている小さな果物です。
飲料や食べ物料理に香りをつけるために使う・・・

フィリピン全土で採れるカラマンシー~~~
安く買うことができるので重宝します。




皮ごと砕いて絞ったジュースはレモンジュースと同じである~
二日酔いなどの時にはこのカラマンシージュースをよく飲みましたぁ・・・
冷温両方のジュースで飲むことができる。美味しいですよぉ!!!
レモン替わりに焼酎や洋酒に絞って数滴落とす・・・





街で見かける果物市場です。
以前マニラ市のマラテ地区に住んでいた頃、近くにある
大きなサンアンドレスフルーツマーケットに度々出掛けました・・・






マニラ日本人学校で恒例の盆踊り大会

2017年03月07日 | Luzon島
マニラ新聞3月5日付の記事に日本人学校で開催された
盆踊り大会の記事が載っていた・・・・・
フィリピンはこれから夏休みになり、恒例となっている
盆踊り大会は絶好の催しとなります!!!

(画像はマニラ新聞他から)



マニラ日本人学校は正式には 「在フィリピン日本国大使館付属マニラ日本人学校」 と云う。
歴史は古く大正6年にサンパロックで 「馬尼粒(まにら)日本人学校」 として開設された・・・
昭和19年に太平洋戦争で閉鎖。
その後、昭和43年に「日本語補習学級」として開設された~~~
平成13年に校舎をパラニヤケ市からタギク市へ移転して現在に至っている。

タギク市はマニラ首都圏を構成する一つの町ですが、以前マニラに滞在していたころは
まだ田舎町でした。現在はベットタウンとして大きな商業施設も出来て大きな町になっている。






以下マニラ新聞の記事の一部を紹介します。

” 毎年恒例の盆踊り大会が4日夕、首都圏タギッグ市のマニラ日本人学校グラウンドで行われ、
首都圏や周辺州在住の日本人家族連れや、開催を知って駆け付けたフィリピン人たちが
一足早い日本の夏の風物詩を満喫した。

 マニラ日本人会主催で、来場者数は述べ3200人(主催者発表)に上った。
グラウンドを囲むようにしてずらりと並んだ26店舗の出店では、焼きそば、たこ焼き、かき氷、
綿菓子といった日本の祭りならではの屋台の味や、金魚すくい、型抜き、輪投げなど子どもが
喜ぶ懐かしい遊戯屋台、タロット占いなどの変わり種、日系非営利団体(NPO)などによる
雑貨屋台も彩りを添えた。

 クレープやお弁当などの屋台を出した洋菓子店、パティスリー京(首都圏タギッグ市
フォートボニファシオ)のオーナー、木村雅子さんは「お祭りの雰囲気はすごく良い。
3日前から準備して、店員も楽しんでいる」と話した。

 中央では、やぐらを組んで太鼓を演奏。東京音頭、河内音頭、炭坑節の3曲を交互に流し、
比日の来場者がやぐらの周りに輪を作って盆踊りを楽しんだ。”




昨年の1月には天皇皇后両陛下がフィリピンを訪問されたときにも、
マニラ日本人学校を訪問されました。





常夏の国の花は色鮮やかです!!!