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ぶら~り相模の国

信州生まれの勘太郎、のんびり人生

フィリピン大統領選、ドゥテルテ候補が当確

2016年05月11日 | Luzon島
昨日(10日)朝、フィリピンの新聞では選挙速報を
伝えて、ドゥテルテ候補が優勢であると報じています。


The Manila Times(マニラタイムス)ではドゥテル候補が他の
候補をリードしていると報道している。



またphilstar(フィリピンスター)では各候補の得票数を伝えている。
この数字でもドゥテルテ候補がリードしている。




日本の昨日(10日)の夕刊では、開票率約90%で、ドゥテルテ子穂が
約1521万票、ロハス候補が約916万票、女性のポー候補が
約852万票と伝えている。

大統領就任は6月30日である・・・・

昨日はフィリピン大統領等の選挙だった!!!

2016年05月10日 | Luzon島

今朝のマニラからの速報!!!

マニラからのマニラ新聞速報ニュースによれば

<大統領選>中央選管によると、投票率は81%。前回大統領選(2010年)の74.8%、
前回統一選(13年)の77%を上回った。今選挙の登録有権者数は5436万人。
ドゥテルテ氏の最終的な得票数は1600〜1700万票に達し、
2位ポー氏以下に大差を付けての地滑り的勝利となりそうだ。




昨日(9日)はフィリピンの大統領等の選挙日でした。

統一選は3年ごとに実施される。6年に1度の正・副大統領
選は、大統領選が4候補、副大統領選が6候補で争われる。
改選数が12議席の上院選には、50候補が出馬している。

そのほか下院選小選挙区制(238議席)、下院選政党
リスト制(59議席)、正・副知事選(定数各81)、州議選
(定数776)、正・副市長選(定数各145)、
市議選(1624議席)、正・副町長選(定数各1489)、
町議選(1万1916議席)が同時に行われる。


大統領候補はドゥテルテ・ダバオ市長(地元ダバオ市)、
ポー上院議員(地元首都圏サンフアン市)、ロハス前内務自治長官(地元
ビサヤ地方カピス州)、ビナイ副大統領(地元首都圏マカティ市)の4候補。



投票は9日午前6時から午後5時まで、全国の投票所で一斉に行われる。
中央選管のバウティスタ委員長は投票終了から24時間後には
大勢が判明するとしている。

票集計は、中央選管に加えて、民間選挙監視団体「責任ある投票の
ための教区司祭評議会」(PPCRV)も同時進行で行う。

選挙結果を公式に集計・発表するのは、正・副大統領選が
上下両院集計委員会、上院選と下院選政党リスト制が中央選管。

下院選小選挙区制や首長選などは地方選管。正・副大統領選の
公式集計は今月中に下院議事堂で始まる予定で確定発表はいつに
なることかわからない!!!

予想ではドゥテルテ・ダバオ市長に人気が集まっているが、
これは今のアメリカ大統領候補選びの共和党トランプ候補と同じで
過激な発言で人気を得ている・・・・

兎に角フィリッピンの選挙はお金が動く。
票をお金で買収する・・・・
また、物騒な殺人事件も多発していて、以前は候補者自身が
銃撃されて死亡したこともある。

そのため8日と9日は全国一斉に禁酒令が出ている。

現地の情報ではカラオケや飲み屋では清涼飲料水で
店を開いているそうです。

日本人の旅行客が多いセブの日本人経営居酒屋店やカラオケ店では
旅行で訪れた日本人客もお酒なしでカラオケを楽しんで
いたようです・・・・



東日本大震災にフィリピンからの祈り

2016年03月19日 | Luzon島
マニラからの情報(マニラ新聞)によると、発生から5年の
東日本大震災の犠牲者に対する黙祷がフィリピンの首都マニラの
日系ホテルでささげられました。

震災発生の3月11日午後2時46分に首都圏マカティ市の
国際協力機構(JICA)フィリピン事務所、首都圏パサイ市の
日本大使館そして同じくパサイ市の日系ネットワールドホテルで
祈りがささげられました。

ネットワールドホテルでは、ホテルの社長やフィリピン人、
邦人従業員そして宿泊客の皆さんが黙祷を行った。


             


黙祷するフィリピン人ホテル従業員

(画像はマニラ新聞から)

フィリピンで紙幣の切替えが進行中

2016年03月18日 | Luzon島
フィリピンでは新紙幣への切り替えが行われていて、
旧紙幣は2016年01月からは使用できなくなっている・・・
旧紙幣は紙くずになる???!!!!


現在、マニラ市内では新紙幣が流通しているが、旧紙幣は使用できない!!!
食堂やコンビニエンスストアなどでは100ペソ、50ペソ、20ペソなどの少額紙幣が
必要になる。
旧紙幣は2016年中は銀行などで新紙幣と取り替えることが出来る。
従って旧紙幣を銀行で取り替えてから新紙幣で買い物をする必要がある~~

しかし、2017年からは銀行では交換できなくなるので
旧紙幣は紙くずになってしまう!!!


現地からの情報によると、自宅にある旧紙幣は銀行に行って新紙幣に
交換してもらわないと、お店などでは旧紙幣の受け取りを拒否するところもあると云う・・・・

そのため銀行の窓口はどこも混雑していると云う!!!


コンビニや銀行では旧紙幣を新紙幣に取り替えを呼びかけるポスターが貼られている・・・


新紙幣は6種類です・・・


(1000ペソ)


(500ペソ)


(200ペソ)


(100ペソ)


(50ペソ)


(20ペソ)



現在は1995年発行の紙幣と2010年発行の紙幣が流通している・・・







フィリピンに滞在していた頃の紙幣や最近(5年前)に訪れた時の紙幣が手元にたくさんあるが、
この次にフィリピンを訪れた時には紙くずとなっていて使えない!!!!

前回フィリピンに行った2010年には以前の旧紙幣を持っていたので、市内で使用したところ店側は
変な顔をして、これは受け取れないと云われた事を思い出した・・・・









フィリピン地域開発に日本の自治体が協力

2016年03月09日 | Luzon島
一昨日(3月7日)の現地で発行する『まにら新聞』に、
日本のNPO法人と地方自治体が協力して、現地での
地域開発事業で成果を上げている記事が掲載されていた・・・




地域開発事業が行われているのはルソン島南部のアルバイ州の州都レガスピ市である。
ここで日本のNPO法人と長野県飯田市が協力して、地域開発を勧め成功している!!!





右端がレガスピ市タイサンの事業地で飯田市の経験を
伝える飯田市公民館の木下巨一副館長



以下まにら新聞の記事の一部を転載します・・・

レガスピ市で、日本人研究者開発の新手法による地域開発。日本の自治体も協力

 ルソン地方アルバイ州レガスピ市で実施されている日本の非営利法人(NPO)による
地域開発事業が、かつてないほどの成功を収めている。
事業成功の鍵は、日本人研究者が開発した新しい開発手法と、先進的な住民自治を
実現している日本の自治体の協力にあった。
 
 事業が実施されているレガスピ市タイサンには、2006年のマヨン火山噴火と台風レミンで
被災した避難民が定住している。

日本のNPO法人「ふるさと南信州緑の基金」は、国際協力機構(JICA)の草の根
技術協力事業を利用して2013年からこの区域で事業を開始。

タイサンを構成する六つの再定住地の住民を集めて住民組織を立ち上げ、地域の課題を
話し合った。
会員は次第に増え、16年1月現在で159人。今や組織の運営は住民自身で行われている。
15年3月ごろに完成した地域の公民館も住民がすべて管理運営し、講師を呼んで
マッサージやダンス教室などのレクリエーション活動が行われている。

当初、この区域に存在しなかった各世帯への水道供給も市と住民組織の連携で少しずつ
行われ、組織による水道料金徴収も始まった。
 
組織立ち上げ時に掲げられた11の課題のほとんどが、事業開始からわずか2年半で
すでに解決済み。
これまで、日本の政府開発援助(ODA)など地域開発事業の多くが住民の組織化に
失敗したり、事業終了後に長続きせず自然消滅していた中、タイサン事業の成功は驚きだ。
緑の基金のプロジェクトマネジャー、織部資永さんも「想定を超える」と驚きを隠せない。

 ここまで事業が活発に進んでいる理由は、緑の基金が導入した「参加型地域社会開発」
(PLSD)という開発手法にある。日本福祉大の大濱裕、余語トシヒロ両教授によって
1980年代後半に開発されたこの手法は、支援地域に入り込み住民主導の組織作りを
目指すという従来の方法に加え、「地域固有の社会システムの分析」と「行政を巻き込む」と
いう点に力点を置いている。

 実際に、タイサンでは半年間、緑の基金のスタッフが住み込み、事前調査を行った。
その結果、違う地域から来た避難民同士では関係が希薄だったが、六つの再定住地ごとに
住民団体が構成されていることが分かり、これを土台として組織作りが行われた。

 一方で、レガスピ市職員や地元のビコール大、関係バランガイ(最小行政区)役員らで
構成されるワーキンググループを作り、住民だけでは解決できない課題に対し、行政が
資源や技術提供という形で側面から支援できる仕組みを作った。
これにより、地域開発に対する住民、行政双方の意識が高まり、持続的な事業運営が
可能になったという。
 
 タイサンの事業を後押しするもう一つの要因として、長野県飯田市による全面的な
協力がある。
同市は、地区ごとにある20の公民館を拠点にして住民が率先して地域の課題を話し合い、
解決する土壌ができあがっていた。
これに対し、市側は各公民館に教育委員会から「公民館主事」を置き、住民自治を
側面から支援している。
飯田市はPLSD手法を体現しているという。タイサンの事業では、毎年レガスピ市の
職員や住民リーダーを飯田市に招いている。また、同市からもタイサンに人を派遣し、
視察を行っている。
 
 飯田市公民館の木下巨一副館長によると、これまでは飯田市がタイサン地区の事業を
支援する形だったが、最近、そこに変化が生じ始めた。
「飯田も見習わにゃいかんな、という声が視察した市民から上がっている」と木下副館長。
今では、目的意識をはっきりと持ち、プロセスが見えるタイサン住民の活動を飯田市側が
参考にしているという。支援側と受益側の立場を超えて互いに刺激し合う関係が生まれ
つつある。
(以上マニラ新聞から抜粋)










天皇皇后両陛下のフィリピン訪問

2016年01月30日 | Luzon島
26日~30日まで両陛下はフィリピンを
訪問され、29日はラグナ州カリラヤの
日本人戦没者慰霊碑に行かれて、
戦没者を慰霊されました。
フィリピンでは51万人を越える日本人が
命を落としました。
慰霊碑はフィリピン各地にたくさん
あります。それぞれ地元の人が管理
してくれているところもありますが、
多くは荒れ果てています。

両陛下は今日帰国となります・・・

(画像はマニラの報道より)



街の中は歓迎ムードです・・・・





街の大通りのロハス・ブルーバードもきれいになっています。







そしてロハス・ブルーバードから海岸沿いに
ある「ソフィテル・フィリピン・プラザ・ホテル」が
両陛下の宿泊先です。



市民も歓迎ムードです~~~



マニラのテレビ局の放送映像です・・・





以下はマニラの邦字新聞社「まにら新聞」記事の一部を転載します。

大統領府晩さん会で天皇、比の戦争被害に触れ「決して忘れてはならない」と言及

リサール公園でホセ・リサール像に献花される天皇・皇后両陛下=27日午後0時半ごろ、首都圏マニラ市で写す


 フィリピンを訪問している天皇、皇后両陛下は27日夜、首都圏マニラ市のマラカニアン宮殿で晩さん会に出席し、天皇陛下が約5分間、乾杯のあいさつをされた。この中で太平洋戦争の比における被害について触れ、「日本人が決して忘れてはならないこと」と強調された。

 天皇陛下は、「昨年、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。貴国の国内において、日米両国間のし烈な戦闘が行われ、比国の多くの人が命を失い、傷つきました」と話され、「このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、このたびの訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」と今回の訪比に対する深い思いを語られた。

 また、比日の交流について、江戸時代の鎖国政策によって一時国交が断絶したが、19世紀半ばの鎖国終了で国交が復活したと両国間の歴史に触れられた。さらに19世紀のスペイン統治時代に独立運動を先導した比の英雄、ホセ・リサールについて、リサールが一時期日本に身を寄せていたエピソードを挙げて「リサールは比の国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました」と話された。

 続いて「比国は今、閣下(アキノ大統領)の英邁(えいまい)なご指導の下、アジアの重要な核をなす国として、堅実な発展を続けています」と比の経済発展を評価された。

 最後に「このたびの私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆をいっそう強めることに資することを強く願います」と比日の友好関係強化への希望を述べ締めくくられた。

 晩さん会は、貴賓席の中央に天皇陛下とアキノ大統領が並んで座り、陛下の右隣に大統領の姉、アウロラ・アキノさんが着席、大統領の左隣に皇后陛下が着席された。また、石川駐比日本大使のほか、在留邦人も出席した。

 晩さん会に先立ち、天皇、皇后両陛下は同日午前もマラカニアン宮殿を訪れ、アキノ大統領とお会いになった。天皇は大統領と約30分間、比日の経済や観光などについて会談されたが、この時は太平洋戦争については言及されなかった。

 外務省の高島肇久参与によると、会談では大統領が「比に日本の小売業や自動車企業が多く進出しており、比国民の日本車需用が急激に増加しています」と比の経済の現況を説明。天皇陛下は「両国の交流がますます盛んになっていることを喜ばしく思います」と話された。

 大統領はまた、交通インフラの近代化や改善が比の最重要の課題とも説明、比のインフラ整備事業における日本政府の協力に感謝の意を表明した。

 一方、天皇陛下は皇太子時代の1962年に比を訪れたときの思い出についても話された。天皇陛下は当時、タガイタイを訪れたが霧で火山湖が隠れていた思い出を話され、「食事の最後に霧が少し薄れわずかに見えたことを今でもよく覚えています」と語られたという。

 天皇、皇后両陛下は同日、首都圏マニラ市のリサール公園や、首都圏タギッグ市の英雄墓地も訪問され、花を手向けられた。



同じナンバープレートのバスが!!!

2015年12月24日 | Luzon島
フィリピンニュースサイト(6月に)を見て
いたら日本ではありえないニュースが出ていた!!!


それは同じナンバープレートをつけたバスが同じ
道路上で同じ方向に向かっている!!!
それも同じバス会社である・・・・
以前、ナンバープレートについてはこのブログ
書きましたが、兎に角フィリピンでは偽造プレートが多い!!!
(画像はフィリピンニュースから)





これを目撃した人はすごくびっくりしたでしょうが、
日本人としては想像出来ないことである・・・・

よく見ると目撃されたバスは、ルソン島北部方面に
向かうRABBIT社のバスで「CXW-151」の
ナンバープレートをつけていて、バスの車体番号は
違うのである(9555と9509)・・・・



フィリピンでは違法に複製されたナンバープレートが
出回っていて、盗難車に取り付けられることが多い~~

鉄道が発達していないフィリピンでは、船と並んで
バスが移動交通機関で、全国を隅々までを網羅している。
マニラにはバス会社毎に各地にターミナルがあって、
遠くはミンダナオ島までフェリーを乗り継いで行く
路線もある・・・

フィリピンに滞在中路線バスを利用したことはないが、
ルソン島の北部の田舎の町から手紙(書類)をバスの
運転手に頼んでマニラに着いたら郵便局で投函する
ように依頼したことがある・・・

(パサイのLRTの駅の下にあるRABBIT社のターミナル)


APECが開かれているマニラはどうなっている!!!

2015年11月19日 | Luzon島
APEC首脳会議が昨日(18日)から今日19日までの二日間
マニラのPICCで開かれています・・・・

(画像はマニラからのものを転載します)

     


安倍総理大臣は、APEC=アジア太平洋経済協力会議などに出席するため、フィリピンの
首都マニラに向けて羽田空港を出発しました。

太平洋を囲む21の国と地域の首脳が出席するAPECは、日本時間の18日夜、マニラで開幕しました。

安倍総理は17日、G20会議が行われたトルコから、いったん帰国したばかりですが、APEC首脳会議では、
パリで発生した同時多発テロを受けて、「テロとの戦い」で国際社会の「連帯」を確認する見通しです。
また、TPP=環太平洋パートナーシップ協定をめぐる協議も行われるとみられます。

首脳会議の前の16日~17日は閣僚会議が同じくPICC(Philippine Internatinal Convention Center)で開かれました。
         


この会議のためにマニラ市内は厳重な警備で日常生活にも影響が及んでいるようです。
日本と同じようにフィリピンにも勿論、休日・祝日があります。
でも驚くことに、日本と違って突然決まることがあるんです!

その一つが大統領府(マラカニアン宮殿)の公布により、11月18日(水)、19日(木)が
マニラ首都圏の休日となりました!
理由はAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議が行われるためですが、地域を限定して休日にして
しまうという大胆な発想はフィリピンならでは!?

画像はPICCのあるロハスブルーバード大通り周辺の交通規制です。
          


いつものロハス大通りはすごい交通量があって渋滞が一日中続くところです・・・



交通規制になってからは一台の車輛も走っていない!!!
     


厳重な警備は道路だけでなく、マニラ湾からも警備艇によって警備されている・・・・
そして、当然会場のPICCも厳重な警備体制です。
          


マニラのマラテ地区からパサイ市に向かうところにPICCがあって、以前マニラに滞在して
いたころは、マカティのコンドミニアムやマラテの「トロピカーナ」アパートメントホテルに
宿泊していたのでこの付近を時々歩きました~~~



このロハスブルバード大通り沿いにあるAristocratレストランは人気のある店で、時々行きましたが
このAPEC期間中はお客がいないようです!!!
              


今マニラではクリスマスモードに突入しています・・・・・
街中がイルミネーションで飾り付けられて、人々は盛り上がっています。
                              



リカルテ将軍の記念碑(山下公園)

2015年07月03日 | Luzon島
先日山下公園内を散策していると、木の陰に隠れるように
建っている記念碑が目に飛び込んだ!!!




記念碑には次のように刻まれていた・・・・

リカルテ将軍記念碑
アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。

(日本語版)


(タガログ語版)



リカルテ将軍は北イロコス地方のイロコスノルテ州バタック(Batac)町で生まれた。

イロコス ノルテ(Ilocos Norte)州


Batacは州都Laoag(ラオアグ)のすぐ南に位置する町である。



Batac町は後の大統領マルコスの生まれた町でもある・・・
(マルコス元大統領の生家の前で)



リカルテ将軍はフィリピンの独立を目指した米比戦争(1899~1902)でアメリカ軍にとらえられ、
グアムや香港に追放された。
その後日本に亡命して横浜に移った・・・
第二次世界大戦が始まると日本政府はリカルテ将軍をフィリピンに帰国させて、抗日ゲリラを
根絶させるために活動する組織を創設したと云われる。
その後米国の反撃が始まると、山下将軍は日本への再亡命を勧めたが、断って日本軍とともに
退避行軍をした。
そして最後は終戦少し前の1945年7月31日にマウンテン プロビンス州の山奥の町カリンガで一生を終えた。



そして1971年には横浜山下公園に将軍の記念碑が建立されたのでした・・・