ちーむ☆ものくろ

黒色ダップー犬と飼い主の日々のつぶやき。
ときどき白黒ネコと茶色の犬の話も、ね。

色を再び の願い

2022-05-11 | 戦争と平和

先日 ロシアの侵攻前の ウクライナ・マリウポリの映像を見ました。

とてもきれいな街並みだったのですね。

大人も子供もみんな 笑顔で通りを行きかっていました。

平和そのもの でした。

それが今は・・

 

ゼレンスキーさんが「ウクライナは色を失った」と世界に向けて

白黒の動画を流していましたけれど。

それは映画の1シーンのような動画でしたけれど。

 

現実なんですね。

 

遠い国の出来事のように感じるけれど。

ロシアって日本の隣国。

遠い国が起こしている出来事 ではないのですね。

 

なんで人間て 地位や権力や富を欲しがるのかな。

一部の人間の思惑のために大切な尊い命や日々の暮らしが破壊される。

いつになったら終わるのでしょう。

色を失った場所には何が残るの?

悲しみしかないよね。

「戦争はひとつもよいものがない」と言ってた祖父が

今生きてたらなんて言うかな?

あの世界大戦で みんな学んだはずなのにって 嘆くでしょう。

また繰り返すのか・・人間て愚かだなって つぶやくかな。

「言葉」というものを人間は持っているのだから。

同じテーブルに着いて話すことだってできるのに ってね。

 

いちにちでも早く。

ウクライナの街に 人々の心に「色」がもどりますように。

いちにちでも早く あの人が 自分の行いの愚かさに気がつきますように。

願っています。

 

        今この歌がいろいろなミュージシャンに歌われています。

            最後に最初の歌詞に戻るのですが。

             そこに反戦の意味が含まれています。


75回目の終戦の日です

2020-08-15 | 戦争と平和

原爆の日の式典等 今年はコロナのことで縮小されて行われましたね。

終戦の日の式典も同様でしょう。

終戦75年。

戦争のことも原爆のことも 語れる方がとても少なくなりました。

私の親族の戦争体験者も 実母くらいしかいなくなりました。

もうひとり叔母がいますが 母とは異母姉妹 年が離れていて 戦後生まれの戦争知らず です。

ただ 今年 この叔母から聞いて初めて知ったことがありました。

祖父の一番下の弟。軍で 無線傍受 の仕事をしていたそうな。

とてもたくさん「成績」をあげたそうで 戦後はその英語力を買われてなのか。

横浜港の税関Gメンとやらに抜擢されたそうです。

とてもやさしいおじさん のイメージしかないのですが。

英語が堪能だったのねぇ。

あのやさしい笑顔で 麻薬やら密輸品やら ばしばし取り締まってたのでした。

 

唯一といってもいい 戦争を語れる母は 小学校の低学年だったので 語れるのは戦中の暮し くらいですね。 

よく戦時中を描いたドラマで 都会で暮らす人が田舎に買いだしに来る というようなシーンがありますが。

本当にそういうことは あったそうです。

祖父や母が暮らしていたのは 湘南の平塚市ですが 市の中心地ではなく かなり離れた地域。

今も駅からバスに乗って 30分から40分くらいかかる場所です。

そこに野菜やお米を求めて 横浜や東京から人々がやってきたそうです。

当時 列車は走っていたらしいですが 今のように本数はなかったでしょう。さらにバスは・・・

走っていなかったかもしれませんから 駅から祖父の家まで きっと徒歩。大変だったでしょうね。

着物をいくつか持ってこられて

「お金じゃなくて申し訳ないですが この着物と食べ物と交換していただけませんか」と

都会からきた奥様たちにお願いされたそうです。

祖父は「それはとっておいて もっと困ったときにお金に換えたらいい」と 受け取らずに

野菜やお米を たくさん持たせてあげたらしいです。

厳格ではありましたが 人にやさしい祖父らしいな と思います。

祖父の家は とても古い時代から続いている家で その頃は土地もたくさん持っていたし 

軍でも役職についていたので あの頃では裕福な家庭であったと思います。

だからそういうこともできたのかもしれません。

数年後 野菜を分けてあげた方が わざわざお礼にみえた と言う話も聞いた記憶があります。

無事でよかったねって 祖父は思ったことでしょうし うれしかったんじゃないかな。

苦しく辛い時を互いに助け合って そののち あのときは大変だったねぇって。

笑顔で話せるのって とても幸せなことだと思います。

 

「コロナ」という 見えない敵と戦わなくてはいけない今。

アメリカと中国はけん制しあっていたりするけれど。

そんな場合ではありませんね。

全世界が手を携えて 協力しあって 戦わないと 今までのような日常はもどりません。

「戦争は悪いことはあっても よいことはひとつもない」

祖父の言葉を忘れないように。

そんな状況のなかでも 少しでも 人っていいね って思えるように。

ひとりひとりができることを惜しみなくして。

相手を思いやっていきたいですね。

 

いろいろな意味で。

世界に平和が戻りますように。

平和が長く ながく つづきますように 祈ります。

 

 


74回目の終戦記念日 祖父の戦争体験

2019-08-15 | 戦争と平和

母方の祖父兄弟。南方の戦いに出征したものふたり。

ひとりは飛行機とともに南の海に消え。ひとりは戦場で病気になり

日本に戻されたけれど その病気が原因で亡くなりました。

祖父ともうひとりの兄弟は内地勤務。 命は無事で 終戦を迎えました。

このふたりも長寿を全うして 何年か前に亡りました。

子供の頃 お盆に祖父の家に行くたびに この生き残った祖父とその弟に

戦争の話を聞かされたものです。

誰もいなくなってしまったけれど 祖父たちがどんな思いで孫たちに

戦争のことを話し続けたのか その気持ちを忘れてはいけないと思って。

終戦記念日には 祖父やその兄弟のこと 教えてもらったことをブログに書いてきました。

今まで いちばん悲しい亡くなり方をした 海軍の飛行機隊の一員だった祖父の

弟のことを書いてきましたが 今回は祖父の体験話です。

 

祖父は湘南平塚生まれです。

市の中心から離れたところに住んでいました。

同じく平塚にあった日本軍の「火薬廠」に勤めていたそうです。

平塚市は激しい空襲を受けました。

それは この祖父の勤務地や 重要な軍事工場が多くあったから のようです。

(子供の頃聞いて覚えてる内容なので 平塚の空襲について

事実と違っているところがあったら ごめんなさい)

空襲を受けたのは夏の夜。 

祖父は帰宅していて そろそろ床に着こうとしたころ。

空襲警報が鳴り 外に出て見ると 市の中心地あたりの空が燃えるように赤い。

飛行機の爆音と 焼夷弾が落ちる音も聞こえる。

祖父は急いで 自転車にまたがり勤務地に走ったそうです。

なんでわざわざ空襲されてるところに行ったのか? 

祖父だって焼夷弾が降る中だから 死んでしまうかもしれないのに。

勤務地に住み込みで働いているシングルマザーと小さい娘さんがいて。

とっさに「助けにいかなくては」と思ったそうです。

自転車で40分はかかる距離。

途中の川は 熱い火から逃れてきた市民が大勢。そこにも焼夷弾が落ちてきたらしい。

やっと勤務地に着き 防空壕に親子を探す(職場かその近辺にあった様子)と

防空壕のなかで抱き合きっている姿を見つけ ああ無事だったと思った瞬間。

防空壕の近くに焼夷弾が落ちた。いずれ防空壕もつぶれてしまうかもしれないと

思った祖父は 娘さんを抱きかかえて お母さんの手を引いて 燃えるまちの中を

逃げ回ったそうです。

どこをどう逃げたのか はっきり覚えていないと言っていました。

火の熱さに負けて 祖父たちも 最後は川に逃げたそうでした。

人の多さに呆然とし 地獄みたいだ と思ったそうです。

平塚の空襲では 多くの方が亡くなったようです。

市内の一角に慰霊碑もあります。

火薬廠があった とされる場所に近いところに建っていますから 

やはり祖父の勤務地が標的とされたのでは と思います。

 

助けた親子のその後は・・・・・聞いたのかもしれないけれど 覚えていません。

亡くなったと聞いた記憶もないので きっと無事でその後を生きたのではないか

と思います。

 

自分もそんな体験をし 弟を南方特有の病気で亡くし。

南の海に散っただろう弟の「遺骨」とされる「石」が入った箱を受け取った祖父。

辛く悲しい気持ちを忘れずに生きて逝った祖父が言い続けたことば。

「戦争 悪いことはたくさんあっても いいことは ひとつもない」

ほんとうにそうだと思います。

なにもかわらない。昨日と変わり映えしない そんな毎日。

退屈とおもうような そんな毎日が続くのが 本当の幸せ 平和なんだということ。

祖父が孫たちに教えてくれたこと。これからも伝えてほしいこと。

平穏無事に生きる。

忘れないように。

今年もまた改めて 心に刻みたいと思います。

 

飛行機とともに亡くなった 祖父の弟とその仲間? 同僚?の 若いみなさん。

訓練の合間の 記念写真みたいですね。

よく見ると後ろの看板に「十国峠湯河原温泉」という文字が書かれていますから

みんなで 箱根あたりにでかけたのでしょうか。

暗い日々のつかの間の たのしい日 だったのかもしれません。

映っているほとんどの方が 今も南方の海の中で眠っています。

 

 

 

 

 


73回目の終戦記念日

2018-08-15 | 戦争と平和

今日は 終戦記念日です。

先日 長崎の原爆記念式典をテレビで見ました。

被爆者で その体験と 平和の大切さを伝え続けてきた

長崎にとって大切な おふたりの方が 相次いで亡くなったと言っていました。

戦争の悲惨さを伝えてくださる方が どんどん減っていっています。

私がこどもの頃から ずっと「戦争はよくない。平和を守らないといけない」と

話してくれていた祖父は もうとうに亡くなっています。

数年前に 戦争体験のある 祖父の兄弟もみんな 亡くなってしまったので。

戦争体験や平和の大切さを話してくれるひとは 我が家にもいなくなりました。

終戦のころ 小学生だった私の母が 少しだけ戦争中の生活の話ができるだけと

なりました。

戦争の記憶は 忘れ去られていくのでしようか。

忘れるくらい 平和な世の中なのでしょうか。

核兵器禁止条約 という条約が成立したけれど。

核兵器はなくなっていません。

だいたい 「お前の国は核兵器持つなよ。捨てなよ」といっている大国は 

自分の国は棚に上げて ちゃっかり持っているし。

被ばく経験があるのに 日本はこの条約にサインしていません。

(これには いろいろ理由があるらしいですが。)

核兵器を手放さない国があるかぎり。

今も 平和と戦争は背中合わせだなぁ と思います。

 

終戦記念日なので 今年も嘉助さんの目覚まし時計を動かしています。

この時計 意外と秒針の音が大きくて ふだん時計を生かしておくと

オットさんが耳について眠れない というので。

年に一度 動くかどうかの確認も兼ねて お盆の頃から動かしています。

これは 祖父のいちばん下の弟が持ってい紙。

 

自分の兄弟がいつどこで亡くなったか ちゃんと知りたくて

ずっと調べていたらしいです。

そして 何かの本でか 資料館のようなところで見つけたのか わかりませんが。

嘉助さんが戦死したときの 航空隊編成表のコピーです。

「瑞鶴」という艦船から飛び立っていったようです。

飛び立ったその後は・・・・「行方不明」

今も南の海で 眠っているのでしょう。

嘉助さん以外にも たくさんの若い命が その深くきれいな海のなかで

眠ったままなのでしょう。

生きていたら きっと輝いた人生が続いていたはず。

いろいろ苦労や悩みがあったりしても まずまずな平和な暮らしができている

私たちは感謝しなくてはいけませんよね。

そして おろかな戦いはもう二度とないように。

互いに努力しなくてはなりません。

 

嘉助さんが飛び立つその日の朝まで 毎日聴いていたと思う 目覚まし音です。

世界が平和でありますように...


「現代社会」の兵隊さんと その上官さんへ

2017-08-24 | 戦争と平和

今回は長いですし きっと支離滅裂になりますこと はじめに言っておきます。

面倒だなと思った方はスルーしてください。

 

毎年8月の終戦記念日あたりに 「戦争」のことについて書いています。

今年はゆうらさんの入院でばたばたしていたため 今日まで書けずにいました。

 

私の祖父兄弟はみんな兵隊として戦争に駆り出されました。

祖父は終始内地勤務で終戦を迎え、弟のひとりは戦地で病気となり 内地に戻されその後亡くなりました。

もうひとりの弟は 遠く南の海の中に飛行機とともに眠っています。

子供の頃 夏休みで祖父の家に遊びに行くたび 孫の私たちは祖父から戦争の話を繰り返し聞かされました。

きっと祖父は 自分が無くなっても孫たちに戦争のことを忘れるな。語り継いでほしい。

平和がいちばんだから 平和を守りなさい。そういう気持ちを込めていたんだと思います。

なので。ゆうらさんとは関係ないけれど。

このブログで少しでも発信できたらな と思って書き続けることにしています。

 

今回は祖父から聞いた話ではありません。

先日 確か終戦記念日の日だったと思うのですが。

テレビで「インパールの戦い」のドキュメントを見ました。

インパール。ものすごい激戦地で有名なようです。

もう戦うのは無理とわかっていながら なかなか中止することをせず。

やっと中止したときには それぞれ勝手に逃げろ 状態だったようです。

何万人の兵士が亡くなりましたが 戦いの最中より逃げる最中に亡くなった兵士がほとんどのようです。

生き延びて日本にもどった兵隊がいますが。

そのほとんどが「上層部」。将校などの指揮を執る者たちです。

戦いが無理だと早くに気づき 食べ物も部下よりも食べていて体力があって。

逃げる算段ができていたのかもしれませんね きっと。

将校の秘書的な役割をしていたという 生き残りの 90歳を超えた老人のインだビューが流れました。

今は老人ホームで暮らすこの老人。

最後は上司から何も告げられず 野原におきざりにされたそうです。

逃げるあいだ ずっと現地の様子や自分の気持ち 特に国や上司に対する疑念を

書き綴っていました。

「よく見つけて訪ねてきましたねぇ」と最初は穏やかに笑って

インタビューを受けていましたが。

「上司は何万人の兵士の命のことなんか 

これっぽっちも思っていませんよ。なんとも思っていない。

それだけのものです。」と号泣していました。見ていて切なかった。

この老人を置き去りにした元上司は 国に帰って70歳半ばまで生きました。

その間 わざわざ肉声をテープに残しています。

あるとき アメリカの元兵士が書いたインパールの戦いの本を見つけ 読んだらしい。

その中に「日本の上官の {指揮がすばらしかった} ために戦いが長引いた」 

みたいなことが描かれていたらしい。

国に帰ったその将校は「役立たず 馬鹿野郎」とかいろいろ言われて悔しかったようだ。

そんなとき「指揮がすばらしい」と書かれた。

「私は十分仕事をした。相手国も認めてくれているではないか。自分は間違っていない」

みたいなこと。テープに向かってしゃべり残している。

戦後の人生 彼もいろいろあったんだろうけど。

私には自分を正当化する ただの言い訳にしか響かない声でした。

あなたが本当にすばらしい指揮をしたならば 何万人の兵士の命は

亡くならずにすんだのではなかったのではないかしら と思ってしまいましたよ。

みんなだって 国に帰りたかったんだよね。

あなたの家族はあなたが帰ってきてうれしかったと思うけど。

亡くなった兵士の家族だってみんな無事に帰ってきてほしかったんだよ。

 

私がよくお邪魔するブログの管理人さんは 「メレヨン島」の戦いについて書いてました。

この島でも何万人の兵士が無くなっています。

死因はほぼ「餓死」アメリカの攻撃で日本からの食糧が届かなくなったらしいのです。

でも本当の理由は。

将校の絶対的権力を背景にした食料の不平等配分だったらしいとのこと。

配下の兵隊より食べていたお偉いさんたち。部下より体力ありますよね。

だから。メレヨン島から帰還できた兵隊の69%が将校だったそうです。

ブログの管理人さんは

「安倍政権の高級官僚が 疑惑を残したままうまく逃げのびたことにダブルね」

と書いています。

 

私は 戦時下のお偉いさんとその部下の兵士のこと。

現代社会の「会社」とダブルなぁ と感じます。

電通や 国立競技場建設関係会社の社員の自殺。

朝から夜中まで働いた。

会社のために 上司の命令に 部下は頑張って働いていたのです。

休みも奪われ 自分の時間を失っても 責任感から離れることなく働いたのです。

死んでも黙殺され 公にされたら あわてて謝る。

これからはこういうことのないように改善します と決まった文句。

でも亡くなった命は帰らないよ。やり直すことはできないのです。

 

上司とはなんだ? リーダーとはなんだ? 人の上にたって指揮するって?

 

私の元上司も とんでもないひとでした。

自分のミスは部下のせい。部下のお手柄は 自分がいつも指揮しているからです。

と自分のお手柄。自分より上にはへーへーと頭を下げ。 

そのストレスを部下にやつあたりするひとでした。

新人が入ると公私混同でネチネチといじめ。何人も退職させました。

「あんたらの代わりはいくらだっている」が口癖でした。

今だったら パワハラで とーーーーーっくに訴えられてるね あれは。

あのころ パワハラなんて言葉がなくてよかったね あいつ(苦笑)

私はかなりながい間我慢してましたけど ある日どうしても我慢でくなくなり。

上司にむかって吠えました。今日でやめますから という言葉とともに。

「私の代わりもいくらでもいると思いますけどね。

あなたの代わりもいくらでもいること 忘れるな!!」と。

上司あぜん。そりゃそうよね 今まで誰もたてつかず やりたい放題だったし。

みんな泣いて去っていったのに 反逆されて心にナイフ突き立てられたんだもんね。

積もり積もったもの 泣いて去っていった職員が言いたくてもいえなかったこと

全部言いましたよ。

上司は改心すると言った。なので1か月様子見させてもらいますと返事した。

その後 私には100%態度が変わったけど まー ほかの人にはぼちぼちだったね。

その後何年か仕事は続けました。何かあったとき 私が え? と眉毛を持ちあげると

彼女(あ 上司は おばさん でしたのよ 笑)はびびってましたね。

 

話はそれました。

現代のサラリーマンも兵隊みたいなものです。

でもね。

あの戦争時の兵隊と違うところは 言いたいことを言えるところです。

あの頃は「お国のために」が絶対でした。ちょっとでも戦争についての不満を言ったら

非国民っていわれたのでしょう?

国に逆らうのかっていわれてしまうから。

みんな心のなかでは疑問があっても それは違うと思ってもいえなかったのでしょう。

でも今は言論は自由です。言いたいことは言ってもいいのです。

上司の顔色ばかり窺わなくてもいいんだと思うです。

上司の言うことが絶対正しいとは限らない。もっと声をあげていいと思います。

自分の命 大切にしましょう。

 

上司のみなさんも。

あなたの仕事がうまく進んでいるのは あなたの力量だけではありません。

部下が一生懸命働いているから 成り立っているのです。

あなたひとりでは仕事は進みません。

仕事がうまく回らない時。「まったくどうしようもない部下ばっかりだ」と嘆きますか?

それはあなたの指揮力も足りないからだと思います。

「どうしようもない部下」を「使える部下」に育て上げるのも上司のあなたの役割です。

あなただって「部下」だったときがあるはずです。

そのときのことも 忘れないでくださいね。

 

いつも先頭にたって部下を引っ張っていくあなた。

でも引っ張るだけではだめなんです。

時には後ろを振り返って ちゃんと付いてきてくれているかと 部下の様子を見なくては。

時には後ろに回って 困って止まりそうになっている部下を助けなくては だめなんですよ。

部下の 仕事上の命を 人としての命を守ること それも上司の大切な役目だと思います。

自分だけ逃げたり 自分だけ正当化したりするのはいけません。

 

どうか 日本中の社会の兵隊さんたちの命や心が 悲しいなくなりかたをしませんように。

日本のリーダーさんたち よろしくお願いしますね。

あ 「上司だって命はあるんだよ オレたちはどうでもいいのか?」っていいたそうなあなた。

ちゃんとしたリーダーシップ発揮できていたら。

あなたがころびそうになったとき。

後ろを歩く部下が全員力を合わせて きっと助けてくれることでしょう。

 

 

やっぱり支離滅裂になりました。

人の命はひとりひとつで。それはそのひとにとっても その家族にとっても大切なもの。

それはみな同じ。

社会でも 会社でも 家庭でも。お互い思いやりを忘れてはいけません。

思いやりは平和につながるって祖父は言っていました。

戦争やいがみ合いからは よいものは生まれないと 祖父は言っていました。

これからも心に刻んで 忘れないようにしたいと思います。