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【京都/働く音】労働音とフェルデンクライス•アプローチ

2015-12-05 | Performance Info

どうしたら、働くモチベーションを維持できるのだろうか?

誰でも考えたこと、きっとあるはず。

今日は、働く音にそのヒントを得ようと思い、最近実感していることを書いてみた。

 

働く人の奏でる音の美しさに最近、ココロを奪われ採集しています。

最近のお気に入りは、西陣織の機織りの音。

こきみ良く、優雅で、厳しさもある。そして、どことなく悲しさも含まれ。なんとも愛おしい。

機会の機織り機の音しか採集できておらず、是非手織りの音を今後探して行きたいところ。

 

次のお気に入りは、京都市内に巡回するお坊さんの朝のお勤めの音。

3人一組で町の中を歩き回り、ある一定のサイクルに伴って「オーイ」と発声しつづける。3人の発声がカノンのように早朝響き渡る。

遠くから迫ってくる度にゾクゾクと得体の知れない恐怖感と緊迫感、恐いもの見たさで見てはいけない、聞いてはいけないような心持ちで今か今かと我が家の前にやって来るのを待つ時間が何とも言えない。

 

働く時の音に興味を持ち始めたのはいつからか。

思い返すと、フェルデンクライス•レッスンに足を運んでくれた人達の仕事環境に興味を持ち始めたことがきっかけだろう。働く糧は、人それぞれライフスタイルや人生のステージによって変容することがわかった。時には、働くことに対して何をモチベーションに動いてよいか見失うこともある。が、一緒にどうにか機嫌良くからだをつくるにはどうしたらよいかと生徒さん達のために考え始めた。

働くために必要な身体の機能や動きは、そう複雑ではないことが分かって来た。提案可能な基礎は、たったの6つで後はそのバリエーションである。ただ、後は繰り返しが多く事務的に、機械的になりがちな作業をどうカラダとシコウが飽きずにやり続ける発想力をとりいれるかが、ポイントになってきた。

そこには、身体性や体力づくりに目を向けるよりも音楽性を作業に追加することが最良の術ではないかと、考えている。効率性をあげるためにそろって来た単調なリズムを転調したり、調べを変えてみる。そうすることで、意識もカラダの使いに変化が自ずと生まれてくる。こういったことを自覚的にできないだろうか。

効率性を強いられた作業には、効率性を求めたからこそできあがる特徴的な調べがあるように思える。それぞれの調べを自覚した上で、序破急のように作業の音を変えてみてはどうか。そんなことを実験して見ている。すべては、遊びモードで働く(人が動く)環境を創造し、提供するため。

そんな境地(モード)で働き方を提案できれば嬉しいなー。

当たり前のことかもしれないが、身体性と音楽性の相互関係の興味深さを実感している。みなさんも京都の働く音でダンスしてみませんかー?

 

働く音

/稽古フェロー募集

  

場所:左京西部市民いきいき活動センター(会議室1、2、3いずれか)

〒606-8201 京都市左京区田中玄京町149

日程:12月7、9,10、11日 10−13時

 

•見学自由(入退場自由/予約不要)

•稽古参加(予約不要/遅刻遠慮願います)

10:15ー12:45/途中入退場ご遠慮頂けると助かります。

メモ1)大量の汗をかきます。着替えの稽古着と飲み物をお持ち下さい。

メモ2)採集した音源で構成したダンス作品「How we aware...what we know.」 ~気づきの系譜~12月20日(静岡)、23日(京都)の作品発表予定に向けて音源をつくりました。後半にこれにて、即興で躍ってみたい方大歓迎です。

メモ3)働く音が響くカラダの部位を丁寧に探索し、どのような動きや心持ちになるかを探索、実験する時間になれば嬉しいです。

 ●稽古風景/参考(一部)

https://www.youtube.com/watch?v=jqr2lz7fZoU

 

□___/ダンス以前企画

 

 

 

 

 


ダンスってそもそも。。。

2015-12-01 | this AND that

 近年作品を発表することに趣をおくことより、またダンスを踊ることよりもどうして躍りたくなるかを丁寧に探る作業をしてみたいと考えていた。それは、プロダンサーとして躍ってきた背景が大きく関わるように思える。職業ダンサーとして働いていると、決まった公演時間、イベント時間、出演回数が当然のように定められている。出演する時間になり、決められた演目で継続的に長期間躍り続けているとそもそも自分がどうして躍りたかったのかが不確かになることがあったし、躍りってそもそも毎日するものでなくない?といった考えすらも浮かんできた。

 

 

 職業ダンサーでいた当時は、躍る事に意味や役割があるようには余り思えず自分にとって躍る事が自然な成り行きであったから躍っていた。そして、それを見てくれる人達がおり、喜んでくれているのだから良いのではないかと考えていた程度であった。思うと意味づけ、価値、役割等を意識せずに躍っていた頃の方が躍りとの付き合いが楽であり、ルールに縛られず、機嫌良く躍れていたように思える。

 今でさえ「ダンスは、遊戯的でリズミカルな動きの連続によって豊かなコミュニケーションと表現を楽しむ文化である。」という定義は、理解し得るが当時の私は、躍りでコミュニケーションをとっていたつもりも表現をしていたつもりもなかった。(少し、へそ曲がりだろうか。)昨今の社会的課題解決の為のダンス、コミュニケーションを向上する為のダンス、自己肯定を向上するダンス、自己開発や自己実現のためのダンス。。。などど意義づけをされると返って躍るのに居心地が悪くなってしまうわたしがいる。(やっぱり、へそ曲がりなのだろう)

 ダンスは、なにかの道具として使われる事を喜ばしく感じているのだろうか。人をエンターテイメントする為のメディアとされたり、神様に祈りを捧げる為の行為とされたり、自己表現の媒体としてや求愛の行為やら決戦に出る前の儀礼的作法とも見られることもあるけれど。。。それは、副作用みたいなもんで本当は別に価値、意義、役割、効果なんてどうでもよいのではなかろうか。

本当のところは、ダンスにきいてみなけりゃわかりませんけどね。

 

 

 

 

ダンス以前より

 

 

 

★1)日本ボールルームダンス連盟HPより