最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●はやし浩司 目で見る漢方診断

2010-11-14 15:45:00 | 日記
●心のゆがみ

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老後を迎えるようになると、
たしかに心がゆがんでくる。
それを私は、現実の問題として、
経験しつつある。

目標の喪失。
生きがいの喪失。
おまけに体調不良、
将来への不安、などなど。
「正常」(?)を支えるだけで、精一杯。

昔、私の住んでいる近所に、隣家に牛乳瓶を
投げつけていた老人がいた。
当時70歳くらいではなかったか。
何が気にくわなかったのかは、わからない。
理由もわからない。

当時の私たちはそういう老人を知り、
「何て、愚かな人間なんだ」と思った。
しかし今、そういう気持ちは薄れた。
「そういう気持ち」というのは、「愚かと
非難する気持ち」をいう。

私だって、そのうち隣家に牛乳瓶を
投げつけるようになるかもしれない。
若い人たちから見れば、とんでもないことを
するようになるかもしれない。
今の今でさえ、自分の人格を支えるだけで、
精一杯。
この先、それを支える気力が弱ったら……。
それを考えると、恐ろしい。
恐ろしいというより、不安でならない。

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●小さな希望

 こうした老後を救うのは、小さな希望。
それに夢。
たいしたものでなくてもよい。
それにしがみつく。
しがみついて生きていく。

たとえば今朝も、こんなことがあった。

 ネットであちこちを見ていたら、私の書いた本がオークションにかけられているのを
知った。
『目で見る漢方診断』(飛鳥新社)という本である。

 即決価格は、3500円。
あと1週間も残っているというのに、3500円で買いを出してくれている人がいる
のを知った。

見ると、カバーはなく、ボロボロ。
ふつうなら、200円とか、300円で売買されるような本である。
それが3500円!

 当時の定価は、2300円。
1988年刊行とある。
それを見たとき、胸の中がポーッと温まるのを知った。
ここでいう小さな希望というのは、それをいう。
またそれがあるから、私は明日に向かって生きていくことができる。

 書き忘れたが、私はあの本を最後に、漢方(東洋医学)の世界から、足を洗った。
それまで書庫を埋めていた参考書や資料を、すべて処分した。
1988年というから、22年前のことである。

 が、その本は当初1~2週間をのぞき、まったく売れなくなってしまった。
で、そのまま絶版。
今は、私のHPのほうで、無料で紹介しているのみ。
手元にも、数冊しか残っていない。
それが3500円!

うれしかった。
オークションで買いを入れてくれた方へ、
本当にありがとうございます。

 ……ついでに、AMAZON CO.JPで調べてみたら、6965円(送料別)前後で売買
されているのを知った。

どうして……?
どうして、今になって……?

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 少し前、ある大学の教授(鍼灸学)がこう言った。
「あの本は、東洋医学の世界では、3大名著のひとつになっています」と。
そのときは、「?」と思ったまま、終わってしまった。
たぶん私が死んでも、あの本は、もう少し長生きするかもしれない。
小さな小さな希望だが、それがあるから生きていかれる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 目で見る漢方診断 飛鳥新社 東洋医学)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

1/2 他人の同情を買いながら、自分の立場をつくる(卑屈な心のゆがみと老人心理)

2010-11-14 12:28:43 | 日記
●11月14日(日曜日)

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昨夜は、深夜劇場に足を運んだ。
観た映画は、『マチェーテ』。
マカロニ・ギャング映画。
悪人役を、ロバート・デニーロが演じ、
善人役を、ロバート・ロドリゲスが演じた。
悪人役と善人役が反転したような映画。

星は1つか2つの、★。
有名スターが2人も並んでいた。
(ロバート・デニーロ、スティーブン・セガールほか。)
かなり期待していたが、星はやはり1つか2つ。
2つは無理。
映画から帰ってから、幼児教室の様子をYOUTUBEにアップ。
床についたときには、深夜0時を過ぎていた。

残酷、残忍な殺人シーンがつぎつぎとつづいた。
そのせいか、今朝は、何となく気分が重い。

なお「マチェーテ」というのは、主人公の
名前だそうだ。

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●経済がおかしい?

 またまたEU発の暗雲が世界を覆い始めている。
経済不安という暗雲。
アイスランドがあぶない。
ギリシャ、スペインがそれにつづく。

またおとといは、アメリカ経済の後退が報じられたとたん、金(ゴールド)などの
貴金属が暴落した。
来週あたりから、じわじわと、その影響が日本にも及んでくるはず。
(あるいは突然?)
2010/11/14朝記

Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●弱い自分vs強い自分(心の卑屈なゆがみについて)2010/11/14

 よい人間関係を結べない人は、攻撃的になったり、依存的になったり、服従的に
なったりする。
もうひとつ同情的になったりするというのもある。
これは心理学の世界では、常識。

「同情的」というのは、「同情を買う」という意味。
わざと弱々しい自分を演じ、他人の同情を買いながら、自分の立場を作る。
老人に多いが、早い人で、50代からそれを演ずる人がいる。
電話などで、今にも死にそうな声で話したりする。

「オバチャンも年をとりましたア~」と。

 するとその周辺に、(それに同情するグループ)が形成される。
たいていは家族ということになる。
近隣の人や親類の人も含まれることがある。
その関係は、保護と依存の関係に似ている。
しかし意図的にその関係を築くという点で、保護と依存の関係とは、一線を引く。
つまりその人は、同情するグループに囲まれて、自分にとって居心地のよい世界を作る。

 たいした病気でもないのに、大げさに騒いでみたり、「命は長くない」と、周囲の人
たちに思わせたりする。

●駅の構内をスタスタ

 ここまで書いて、以前発表した原稿を思い出した。
それをそのまま収録する。
日付は2006年の4月(マガジン版)となっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもや孫とのつきあい

+++++++++++++++++

孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

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 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●わざところぶ

 こうした心理を、どう表現したらよいのか。
演技性人格障害とまでは言えない。
自分を弱者(多くは病人)に仕立て、同情を買うという点では、「代理ミュンヒハウゼン
症候群」にも似ている。
が、もちろんそれともちがう。

 たとえば私の実兄のばあいには、わざと人前でころんでみせるという習癖があった。
みなが心配して、「どうしたの?」と声をかけてもらうのが、目的だった。
だからころんでも、それなりに安全なところを選んでいた。
たとえば走っている車の前では、ころばなかった。
また人の気配のないところでは、ころばなかった。
瞬間的に人の気配を感ずると、けがをしない程度にころんでみせた。

 自虐的依存性人格障害。
あるいはその反対の、依存的自虐性人格障害でもよい。
しかしこうした傾向は、高齢になればなるほど、より顕著に現れてくる。
つまり多かれ少なかれ、高齢者共通の現象と考えてよい。
わかりやすく言えば、「甘え」。

 2006年に書いた原稿(前述)の女性のばあいは、娘にわざと心配させることに
よって、自分の立場をつくっていた。
……というか、正直に告白するが、これは私の実母の話である。
それを他人の母親のようにして、書いた。
私の実母と実兄は、同居していた。
そのため実兄は、実母の影響をそのまま受けていた。

●老齢期を迎えて

 老齢期をそこに迎えて、いろいろ心理的な変化が自分の中で始まっているのを
感ずる。
この「同情を買う」というのも、そのひとつ。
ふと油断すると、私自身も同じようなことをしているのを知る。
そういう点では、私はあの実母の息子。

 たとえば風邪をひいたとする。
たいした風邪でもないのに、ひどく熱が出ているようなフリをする。
それを見て、ワイフが「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と。
が、その瞬間、人の前でころんでみせた、実兄を思い出す。
正気に返る。

 この「同情」のこわいところは、一度、そういう関係、つまり「保護と依存の
関係」ができると、それを打ち破るのが容易ではないということ。
たいていはそのまま、人間関係として定着してしまう。
保護される側は、いつも保護されるべきと考える。
それに応じて、保護する側は、いつもその義務感に追い立てられる。

 が、こうした関係は、実は子どもの世界でもときどき、見られる。
以前書いた原稿を、さらにさがしてみる。
つぎの原稿は、「反抗期の子ども」について書いた原稿である。
少し内容が脱線するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【反抗期の子ども】

●思春期前夜

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目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○ プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○ 機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○ 何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○ おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

2/2

2010-11-14 12:28:14 | 日記

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%~80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

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(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

 児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

 勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

 自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

 たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

 こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正された
りということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 平たく言えば、こうした同情を買うという一連の行為は、精神的未熟性による
ものと考えてよい。
情緒的欠陥が原因になることもある。
どうであれ、けっして好ましいパーソナリティではないことだけは、確か。
自分の中にそういう「卑屈なゆがみ」を感じたら、それと闘う。
これもまた老後を心豊かに生きるためのコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立) (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 反抗期の子ども 反抗期の子供) 同情を買う)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司 


●60歳以後の生き様

2010-11-14 10:35:02 | 日記
【世代性】(2010-11-07加筆)

●低俗性と低劣性

 低俗性であることは、必ずしも悪いことではない。
俗世間とかかわりをもつ。
その中で豊かな人間関係を築いていく。
それがその人の人間的な幅を広くする。
たとえば回転寿司屋で寿司を食べたからといって、その人の人間性がさがるという
ことではない。
破れたジーパンで、山の中を歩いたからといって、その人の人間性がさがるということ
ではない。

 が、低劣性は、別。
人の不幸話に聞き耳を立て、聞いた話をおもしろおかしく、別の人に伝えていく。
それだけではない。
この世界には「もまし」という言葉がある。
AさんとBさんを離反させるために、それぞれに告げ口を繰り返す。
若い人たちの話ではない。
50歳とか60歳、さらには70歳とかを過ぎた人が、それをする。
つまり他人のもめごとを作って、それを外から聞いて、楽しむ。
もめごとを作るから、「もまし」という。

●加齢とともに

 とても残念なことだが、加齢イコール、人格の完成期というわけではない。
加齢とともに、むしろ低劣になっていく人は多い。
あるいは化けの皮がはがれていく?
若いころは、それなりの仮面をかぶる。
気力がそれを支える。

 しかし加齢とともに、気力が弱くなり、ついで仮面がはがれていく。
言い替えると、若い人でも低劣な人は、いくらでもいる。
……というか、幼児でも低劣な幼児と、そうでない幼児がいる。
「そんな?」と驚く人もいると思う。
しかし事実は、事実。

 ものの道理をしっかりとわきまえ、善悪を正しく判断できる幼児もいれば、
そうでない幼児もいる。
私が「理」からはずれたことをすると、すかさず、「先生、おかしい!」と言ったり
する。
そのちがいはといえば、自律性と自立性ということになる。

●世代性

 今朝は、数年前に書いた「世代性」についての原稿を読みなおしてみた。
私たちはある年齢を超えたら、私たちが得た知識や経験、知恵をつぎの世代に伝えていく。
それを「世代性」という。
言い替えると、世代性の追求こそが、老後のあるべき姿ということになる。
知人のI氏(藤沢市在住)は、「還元」という言葉を使って、それを主張する。
「今まで生きてきた命を、若い人たちに還元していく」と。
「世代性」と同じ意味と考えてよい。

++++++++++++++++++

世代性について書いた原稿を、
加筆、訂正してみます。

++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)

(Do we have what we should do?  If you have something that you should do, your life

after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable

age.)



+++++++++++++++++



乳児期における信頼関係の構築を、人生の

入り口とするなら、老年期の自我の

統合性は、その出口ということになる。



人は、この入り口から、人生に入り、

そしてやがて、人生の出口にたどりつく。



が、誤解してはいけない。

出口イコール、「死」ではない。

出口から出て、今度は、自分の(命)を、

つぎの世代に還元しようとする。



こうした一連の心理作用を、エリクソンという

学者は、「世代性」と呼んだ。



+++++++++++++++++



我々は何をなすべきか。

「何をしたいか」ではない。

「何をなすべきか」。



その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。

我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。

が、その「生」には、限界がある。

その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。



その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、

倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。

つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。



それが世代性ということになる。



その条件として、私は、つぎの5つを考える。



(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)

(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)

(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)

(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)

(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)



この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。

エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。



何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。

言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。

「無間地獄」。



つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。

来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。

健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。



大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。



が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。

それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。



「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ

けにはいかない。

またそうした行動には、意味はない。



さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。



我々は、何のために生きているのか。

どう生きるべきなのか。

その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。



(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 

Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統

合性の確立)



(追記)



(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。



その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。



この問題だけは、そのときになってあわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ

ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。



……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という

問題ではない。

もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。



孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。

中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。

来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。

利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。



しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。

忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。



もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ

と。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。

もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。

しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老後の姿と考えるだろうか。



(付記)



統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問

してみるという方法がある。



「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。

「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。



ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる

ものを感ずるときがある。

真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。



それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。



なおこの使命というのは、みな、ちがう。

人それぞれ。

その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。



大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。

50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。

持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。



60歳をすぎれば、さらにそうである。



我々に残された時間は、あまりにも少ない。

私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。

早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高邁(こうまい)性

 私はこの中で、つぎの5つの項目を並べた。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

 今、ここで問題になるのは、(4)の高邁性ということになる。
いかに高邁性を追求するか。
またそのためには、どうすればよいか。

 それを決めるのが、思考力ということになる。
ものを考える力。
もう少し言葉の定義を狭くするなら、「思索力」ということになる。
思索力のある人を、思慮深い人という。
その思慮深さが、その人の高邁性を決める。
長い時間をかけて、高邁性を決める。

●低劣さvs高邁性

 私はよくこう言う。
「バカな人からは、利口な人がわからない。
しかし利口な人からは、バカな人がよくわかる」と。

 低劣さと高邁性を対比させるなら、低劣な人からは高邁な人がわからない。
高邁な人からは、低劣な人がよくわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見ると低い山に見える山で、登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
たとえば浜名湖(浜松市の西)の北端に、大草山という山がある。
標高150メートルくらいか?
山の下は湾になっていて、舘山寺温泉街が並んでいる。
そんな山でも、登れば、遠く、浜松市が一望できるから不思議である。

 が、もちろん上には上がある。
つまり低劣さにせよ、高邁性にせよ、相対的なものに過ぎない。
いくら自分が高邁と思っていても、より高邁な人から見れば、低劣ということになる。
言うなれば、「上」には、際限がない。
(もちろん「下」にも、際限がないが……。)

●では、どうするか?

 老後は、脳みその下に開いた穴との闘いである。
その穴から、知識や経験、さらに知恵までもが、容赦なく、こぼれ落ちていく。
そうでなくても、こぼれ落ちていく。
さらに加齢とともに、加速度的にこぼれ落ちていく。

 ……となると、私たちはそれ以上の知識や経験、さらには知恵を補充していかねば
ならない。
「若いときだけで、勉強は終わった」などというのは、とんでもない話。
中には70歳を超えても、一流大学卒という学歴をぶらさげて歩いている人もいる。
もちろん中身はゼロ。
冒頭に書いた、(もまし)を生きがいにして、生きている?
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と。

 ……ということで、私たちは常に「上」をめざす。
あくことのない探求心と努力。
その2つを武器に、「上」をめざす。
それでも高邁性は得られないかもしれない。
しかしあきらめたとたん、低劣の世界へと、落ちていく。
つまらない世間話やゴシップで、時間を無駄にする。
人生を無駄にする。
命を無駄にする。

 さあ、今日も始まった。
がんばろう!
2010年11月7日朝記。
(はやし浩司 2010-11-07)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 低劣性と低俗性 世代性と還元 老後の統合性の確立 自我の統合性)

(補記)

 1か月ほど前、ある知人(62歳)と電話で話した。
知人には、1人の妹(55歳くらい)がいる。
その妹が、ときどき介護するフリをして実家へ行き、母親の隠し持っている現金を
盗んでくるという。
現在、母親は独り暮らし。
やや認知症(?)。
「どうしたらいいのかねえ?」という相談である。

 こういうケースのばあい、回答はただひとつ。
「相手にしてはいけない」である。

 そういう低劣な人間(妹)を相手にしていると、自分までその低劣な人間になって
しまう。
つきあえばつきあうほど、深みにはまってしまう。
「あきらめて縁を切ることですよ」と、私はアドバイスした。

 私も親族の間で、似たような経験をしている。
低劣な人には、恐ろしいほどの魔力がある。
あの夏目漱石も、同じような問題をかかえ、悩んだ(『心』)。
高邁な精神世界と、低劣な親族間の問題で、自分の魂がバラバラになっていくのを
感じた、と。

 人間も、60歳を過ぎたら、自分に正直に生きたらよい。
無理をして、つまりつまり自分の理性や知性をねじまげてまでも、つきあいたくない
人間とつきあうことはない。
したくもない(つきあい)をする必要もない。
どこまでも自分に正直に生きる。
それが重要。

 私はそう考えて、その知人にはこう言った。

「頭とシッポ(=つまらない部分)は、妹さんにくれてやればいい。
私たちは中身(=大切な部分)を取ればいいのです」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 頭とシッポ 頭と尻尾 はやし浩司 2010-11-07)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司


●世代性と統合性

2010-11-14 10:31:31 | 日記
【世代性】(2010-11-07加筆)

●低俗性と低劣性

 低俗性であることは、必ずしも悪いことではない。
俗世間とかかわりをもつ。
その中で豊かな人間関係を築いていく。
それがその人の人間的な幅を広くする。
たとえば回転寿司屋で寿司を食べたからといって、その人の人間性がさがるという
ことではない。
破れたジーパンで、山の中を歩いたからといって、その人の人間性がさがるということ
ではない。

 が、低劣性は、別。
人の不幸話に聞き耳を立て、聞いた話をおもしろおかしく、別の人に伝えていく。
それだけではない。
この世界には「もまし」という言葉がある。
AさんとBさんを離反させるために、それぞれに告げ口を繰り返す。
若い人たちの話ではない。
50歳とか60歳、さらには70歳とかを過ぎた人が、それをする。
つまり他人のもめごとを作って、それを外から聞いて、楽しむ。
もめごとを作るから、「もまし」という。

●加齢とともに

 とても残念なことだが、加齢イコール、人格の完成期というわけではない。
加齢とともに、むしろ低劣になっていく人は多い。
あるいは化けの皮がはがれていく?
若いころは、それなりの仮面をかぶる。
気力がそれを支える。

 しかし加齢とともに、気力が弱くなり、ついで仮面がはがれていく。
言い替えると、若い人でも低劣な人は、いくらでもいる。
……というか、幼児でも低劣な幼児と、そうでない幼児がいる。
「そんな?」と驚く人もいると思う。
しかし事実は、事実。

 ものの道理をしっかりとわきまえ、善悪を正しく判断できる幼児もいれば、
そうでない幼児もいる。
私が「理」からはずれたことをすると、すかさず、「先生、おかしい!」と言ったり
する。
そのちがいはといえば、自律性と自立性ということになる。

●世代性

 今朝は、数年前に書いた「世代性」についての原稿を読みなおしてみた。
私たちはある年齢を超えたら、私たちが得た知識や経験、知恵をつぎの世代に伝えていく。
それを「世代性」という。
言い替えると、世代性の追求こそが、老後のあるべき姿ということになる。
知人のI氏(藤沢市在住)は、「還元」という言葉を使って、それを主張する。
「今まで生きてきた命を、若い人たちに還元していく」と。
「世代性」と同じ意味と考えてよい。

++++++++++++++++++

世代性について書いた原稿を、
加筆、訂正してみます。

++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)

(Do we have what we should do?  If you have something that you should do, your life

after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable

age.)



+++++++++++++++++



乳児期における信頼関係の構築を、人生の

入り口とするなら、老年期の自我の

統合性は、その出口ということになる。



人は、この入り口から、人生に入り、

そしてやがて、人生の出口にたどりつく。



が、誤解してはいけない。

出口イコール、「死」ではない。

出口から出て、今度は、自分の(命)を、

つぎの世代に還元しようとする。



こうした一連の心理作用を、エリクソンという

学者は、「世代性」と呼んだ。



+++++++++++++++++



我々は何をなすべきか。

「何をしたいか」ではない。

「何をなすべきか」。



その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。

我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。

が、その「生」には、限界がある。

その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。



その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、

倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。

つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。



それが世代性ということになる。



その条件として、私は、つぎの5つを考える。



(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)

(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)

(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)

(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)

(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)



この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。

エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。



何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。

言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。

「無間地獄」。



つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。

来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。

健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。



大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。



が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。

それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。



「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ

けにはいかない。

またそうした行動には、意味はない。



さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。



我々は、何のために生きているのか。

どう生きるべきなのか。

その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。



(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 

Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統

合性の確立)



(追記)



(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。



その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。



この問題だけは、そのときになってあわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ

ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。



……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という

問題ではない。

もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。



孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。

中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。

来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。

利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。



しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。

忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。



もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ

と。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。

もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。

しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老後の姿と考えるだろうか。



(付記)



統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問

してみるという方法がある。



「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。

「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。



ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる

ものを感ずるときがある。

真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。



それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。



なおこの使命というのは、みな、ちがう。

人それぞれ。

その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。



大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。

50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。

持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。



60歳をすぎれば、さらにそうである。



我々に残された時間は、あまりにも少ない。

私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。

早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高邁(こうまい)性

 私はこの中で、つぎの5つの項目を並べた。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

 今、ここで問題になるのは、(4)の高邁性ということになる。
いかに高邁性を追求するか。
またそのためには、どうすればよいか。

 それを決めるのが、思考力ということになる。
ものを考える力。
もう少し言葉の定義を狭くするなら、「思索力」ということになる。
思索力のある人を、思慮深い人という。
その思慮深さが、その人の高邁性を決める。
長い時間をかけて、高邁性を決める。

●低劣さvs高邁性

 私はよくこう言う。
「バカな人からは、利口な人がわからない。
しかし利口な人からは、バカな人がよくわかる」と。

 低劣さと高邁性を対比させるなら、低劣な人からは高邁な人がわからない。
高邁な人からは、低劣な人がよくわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見ると低い山に見える山で、登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
たとえば浜名湖(浜松市の西)の北端に、大草山という山がある。
標高150メートルくらいか?
山の下は湾になっていて、舘山寺温泉街が並んでいる。
そんな山でも、登れば、遠く、浜松市が一望できるから不思議である。

 が、もちろん上には上がある。
つまり低劣さにせよ、高邁性にせよ、相対的なものに過ぎない。
いくら自分が高邁と思っていても、より高邁な人から見れば、低劣ということになる。
言うなれば、「上」には、際限がない。
(もちろん「下」にも、際限がないが……。)

●では、どうするか?

 老後は、脳みその下に開いた穴との闘いである。
その穴から、知識や経験、さらに知恵までもが、容赦なく、こぼれ落ちていく。
そうでなくても、こぼれ落ちていく。
さらに加齢とともに、加速度的にこぼれ落ちていく。

 ……となると、私たちはそれ以上の知識や経験、さらには知恵を補充していかねば
ならない。
「若いときだけで、勉強は終わった」などというのは、とんでもない話。
中には70歳を超えても、一流大学卒という学歴をぶらさげて歩いている人もいる。
もちろん中身はゼロ。
冒頭に書いた、(もまし)を生きがいにして、生きている?
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と。

 ……ということで、私たちは常に「上」をめざす。
あくことのない探求心と努力。
その2つを武器に、「上」をめざす。
それでも高邁性は得られないかもしれない。
しかしあきらめたとたん、低劣の世界へと、落ちていく。
つまらない世間話やゴシップで、時間を無駄にする。
人生を無駄にする。
命を無駄にする。

 さあ、今日も始まった。
がんばろう!
2010年11月7日朝記。
(はやし浩司 2010-11-07)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 低劣性と低俗性 世代性と還元 老後の統合性の確立 自我の統合性)

(補記)

 1か月ほど前、ある知人(62歳)と電話で話した。
知人には、1人の妹(55歳くらい)がいる。
その妹が、ときどき介護するフリをして実家へ行き、母親の隠し持っている現金を
盗んでくるという。
現在、母親は独り暮らし。
やや認知症(?)。
「どうしたらいいのかねえ?」という相談である。

 こういうケースのばあい、回答はただひとつ。
「相手にしてはいけない」である。

 そういう低劣な人間(妹)を相手にしていると、自分までその低劣な人間になって
しまう。
つきあえばつきあうほど、深みにはまってしまう。
「あきらめて縁を切ることですよ」と、私はアドバイスした。

 私も親族の間で、似たような経験をしている。
低劣な人には、恐ろしいほどの魔力がある。
あの夏目漱石も、同じような問題をかかえ、悩んだ(『心』)。
高邁な精神世界と、低劣な親族間の問題で、自分の魂がバラバラになっていくのを
感じた、と。

 人間も、60歳を過ぎたら、自分に正直に生きたらよい。
無理をして、つまりつまり自分の理性や知性をねじまげてまでも、つきあいたくない
人間とつきあうことはない。
したくもない(つきあい)をする必要もない。
どこまでも自分に正直に生きる。
それが重要。

 私はそう考えて、その知人にはこう言った。

「頭とシッポ(=つまらない部分)は、妹さんにくれてやればいい。
私たちは中身(=大切な部分)を取ればいいのです」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 頭とシッポ 頭と尻尾 はやし浩司 2010-11-07)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司