最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●親意識論

2010-11-11 13:04:25 | 日記
●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書いた。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識という。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。が、大きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出したのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがっているとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え方の型)をもっている。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはいけない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受けた経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新しい家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみたいだ」と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろうと思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたいにおいて、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そういうことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼らにしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこもちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしてはだめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうしの結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始める。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族ということになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人もいれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべきだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていない。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定してしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものである。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化をはばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ちできない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さらにはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってくる。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいていの人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろいろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書いた、「鮮明なちがい」ということになる。

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●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5~7か月くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 不登園 赤ちゃん返り)

●場面かん黙児

2010-11-11 12:46:57 | 日記
●恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間は、車の速度が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症に対処する。

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●子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それについて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないのか」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならない。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようになるのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子どもが、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子どもを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よかれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身している。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようになった。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさんの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まったく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」とか、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子どもは、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあい、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめて、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものごとは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育として、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコンの切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

● かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提として、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張していただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断することくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじめてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクターは、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分がキズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじれ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点については、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(5) ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙ってしまう。

(6) 気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(7) かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくなる。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(8) かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみることにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかった。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そして自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であることが多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あとは「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どうにもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれしいです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になったり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決しているのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉からも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあげてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪いことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいるわけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、ありえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許して、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろつらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このことは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、もっておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここにも書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いかがでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善するとは、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじらせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたですよ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みながら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のない子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしそのようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行けばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれません。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてください。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答えてあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるのが、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少しずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそれを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえています。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だということです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無料です。
(031017)


●不登園問題

2010-11-11 12:39:07 | 日記
【幼児の不登園】(Children who refuse to go to kindargartens)

●赤ちゃん返り

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下の子が生まれたあと、
上の子が、おかしくなってしまうという
ケースは、たいへん、多い。

本能的な部分で嫉妬するため、上の子は、
そのまま、心をゆがめてしまう。

症状は、私は攻撃性をともなう(プラス型)と、
退行性が見られる(マイナス型)に分けて
考えている。

その双方が、交互に出ることもある。

赤ちゃん返りを、けっして甘く考えてはいけない。
軽く考えてはいけない。
ばあいによっては、それが情緒障害の引き金を
引いてしまうことになりかねない。

大阪府にお住まいの、UNさん(母親、35歳)から、
こんな相談が届いている。

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初めて相談させて頂きます。
先生のHPを見て、もっとはやく読んでいたらよかったのに・・・と思ってしまいます。

相談させて頂きたいのは長男(5歳)のことです。現在年長児で、2週間前から不登校になりました。原因は多々あるかと思います。

長男の性格は臆病で神経質です。生後8か月目から保育園に通っていましたが、友達とのかかわりも少なく、自分の世界に入って遊ぶことが多かったです。友達とのトラブルも少なかったです。先を読むことが得意なのか、公園の遊具でさえも怖がって遊ぶことはなかったです。

現在は電車オタクのようにものすごい知識を持っていて、そのせいか漢字もよく読んでいます。幼稚園ではそのような話についていける友達もなく、元気な男の子の輪には入っていけていないようです。むしろ「優等生」のように注意したりしているようです。

私はもっと男の子なら泥だらけになるくらい遊んで、たくましくなって欲しかったです。食べるのが好きで年長と思えないくらいの体重があり(28キロ)、運動が苦手です。幼稚園では、子どもたちに逆上がりさせたり、組体操させたりと体育活動が活発なので、息子は劣等感を抱いているようです。

休み始めた頃は、「赤ちゃん返り」ともいう行動がありました。「おもらししていいか」とおもらししたり、オムツ履いたりおまるで排泄してみたり・・・。以前からよく「抱っこして~おっぱい飲ませて」と言っていました。私はできるだけ受け止めていたので、心は大丈夫かと思っていました。

今週に入り、顔色もよくなってきたのですが、まだ幼稚園のことは口にしません。どのタイミングで言ったらいいかよくわかりません。

また、周囲からは「子供をそのまま受け止めてあげて」といいますが、私はできるだけそうしているつもりです。でも今回のことで自分の育児が否定され、子供のどこをみていいのか、どう受け止めればいいのか、また、どうしたら「愛しているんだよ」と伝えられるのかわかりません。

長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音です。

主人の両親からは生まれる前から、「男の子を生め」といわれ、生んだ後は子育てをチェックされ、主人と息子を比べられ、私は必死になっていたのかもしれません。自分の子供というより、主人の実家のために生んだような感じです。

きっと私がそう思っている以上は、どんなに息子に「愛しいてる」と言っても通じないのかもしれません。でも、言わないといけないと思うのです。他に方法がわからないからです。どうか教えてください。

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【はやし浩司からUNさんへ】

気負いや、心配、不安が先行すると、子育ては、どうしてもどこかぎくしゃくしたものになりがちです。
とくに最初の子どもについては、そうです。
またそうであるからといって、自分を責めてはいけません。
みな、そうだから、です。

子どもに何か問題(?)が起きると、たいていの親は、「どうして、うちの子が?」とか、「そんなはずはない!」とか、思ったりします。
しかしやがて、他人の子どもの問題を知るにつけ、「ああ、みんな、がんばっているんだな」と知ります。

さらに言えば、子どもの問題は、より深刻な状態になって、「以前のほうが軽かった」ということがわかります。
あるいは、自分の子どもより、さらに深刻な問題をかかえている子どもをみて、自分の子どもの問題が何でもなかったことに気づきます。

UNさんのケースでは、

(1) 赤ちゃん返りがこじれ、
(2) それが情緒不安の引き金を引いてしまったケースと考えられます。

UNさんは、『休み始めた頃は、「赤ちゃん返り」ともいう行動がありました』と、一時的に終わったようなことを書いていますが、この問題は、一時的で、終わるはずはありません。
現在も、つづいています。

『長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音です』という部分が、それです。
あなたのお子さん(長男)は、あなたの心を、敏感に読み取っています。
そしてそれがあなたのお子さんを、自閉傾向(自閉症ではありません)へと、導いています。
『現在は電車オタクのようにものすごい知識を持っていて、そのせいか漢字もよく読んでいます』という部分が、それです。

また不登園、つまり対人恐怖症、さらには回避性障害的な部分も、そのあたりに起因しているものと考えられます。
心を開いて、周囲の人たちと溶けこむことができない……、それがUNさんの目から見ると、『友達とのかかわりも少なく、自分の世界に入って遊ぶことが多かったです。友達とのトラブルも少なかったです』という部分につながっていると、お考えください。

で、こうした問題に直面すると、ほとんどの親は、「子どもに問題がある」と考え、「子どもを直そう」とか、「子どもを治そう」と考えます。
しかしこれは、まちがった考え方です。

現在では、「子どもは、家族の代表者にすぎない」と考えるのが、ふつうです。つまり子ども自身に問題があるのではなく、家族全体のもろもろの問題が、子どもに集約されていると考えます。
とくに子どもが、乳幼児~幼児のときは、そうです。

が、親は身勝手なもので、(失礼!)、自分の問題や家族の問題を棚にあげ、「どうしたらいいでしょう?」と相談してきます。
しかし、問題は、UNさん、あなた、もしくはあなたの家族にあるのです。
まず、謙虚にそれを認めてください。

では、どうするか?
もっとも重要なポイントは、

(1)どこまで、あなた自身が、子ども(長男)に心を開けるか、です。

あなた自身が、子どもに心を閉じた状態で、どうして子どもに向かって、「心を開きなさい」と言うことができるでしょうか。

『長女(3歳)はとても無邪気でかわいく思えるのですが、長男は可愛いとは思えないのが本音です』という部分ですが、それはそれとして、納得しなさい。
それでよいのです。
現に、10%の母親は、UNさんと、同じ問題をかかえて、人知れず(?)、悩んでいます。

そこで大切なことは、『許して、忘れる』です。
つまり「愛」ほど、実感しにくい感情もありません。
だから「愛を感ずる」とか、「感じない」とか、おおげさに考える必要はありません。
ただひたすら『許して、忘れる』のです。
それだけを念じながら、子どもと接してみてください。

(2)不登園など、何でもない、問題!

私が幼稚園の世界に入ったときには、1年保育が当たり前。
2年保育が、そろそろ、ふつうになりかけてきたなという状況でした。
約5%前後の子どもは、幼稚園へは通わず、そのまま小学校へと入園していきました。
それが今では、3年保育?
4年保育?
さらには、0歳から保育園?

まず、こうした状況が、子どもの世界では、異常であることを知るべきです。
もっともみなさん、家庭の状況もあり、やむをえず、そうせざるをえないわけですが、そういう状況を一方的に子どもに押しつけておきながら、「どうしたらいいでしょう?」は、ないと思います。

つまり今の状況で、UNさんが、あせればあせるほど、子どもは、悪循環の中で、ますます現在の症状を、悪化させるだろうということです。

一見、あなたから見ると、あなたの子どもは、わがままを言っているかのように見えるかもしれませんが、(わがままな子どもにしたのも、結局は環境ということになりますが……)、
それ以上に、心に、おおきなわだかまりというか、キズをもっています。
「今日、何かをしたから、明日、なおる」という問題では、けっして、ありません。
こうした問題の解決には、1年単位、ひょっとしたら、自己管理能力がじゅうぶん育ってくる、小3前後(満10歳)くらいまでつづきます。

幼稚園へ行かないなら行かないで、こういう機会を利用して、親子で、遊びまくればよいのです。
どうしてUNさん、あなた自身が、先生になってはいけないのですか?

この先のことですが、(心を開けない)分だけ、あなたの子どもは、(集団)が苦手になるでしょう。
集団の中に入ったとたん、神経疲れを起こしてしまいます。
しかしひょっとしたら、UNさん、あなた自身も、そうであるかもしれません。
だったら、なおさら、あなたは子どもの心が、よく理解できるはずです。
つまり、だれにも欠点のひとつやふたつは、あるもの。
今、そういう欠点(?)が、顔を出したからといって、あわてないこと。

また今どき、『私はもっと男の子なら泥だらけになるくらい遊んで、たくましくなって欲しかったです』式の『ダカラ論』は、おかしいですよ。
いったい、どういう子ども観をもっておられるのですか?
どこか、権威主義的、封建主義的、古典的?(失礼!)
「男のだから……」という言い方は、こと幼児~小学1、2年生では、通用しません。

UNさん、あなた自身が、かなり権威主義的な家庭に育っている。
それをあなたは無意識のうちに、子どもに押しつけている……。
私には、そんな感じがしてなりません。
いかがですか?

幼稚園についても、そうです。
「幼稚園(学校)とは、行かねばならないところ」という固定観念から、一歩も抜け出せないでいる(?)。
それでは子どもが、かわいそうです。

オタクならオタクでよいではないですか。
大切なことは、そういう子どもであることを認めてあげた上で、(というのも、今、子どもの世界から、たとえば電車を取りあげたら、たいへんなことになりますよ)、あなたが、子どもといっしょに、電車を見に出かけたりすればよいのです。

「~~電車博物館へいっしょに、行ってみない?」とか、何とか言って……。

「オタクはだめだ」
「男のらしくない」
「みなの輪に入れないからダメだ」では、子どもが、かわいそうです。
つまりこうした親の否定的育児姿勢は、子どもの心をゆがめてしまう危険性すら、あるということです。

つまりあなたは、(従来の、自分自身の中の常識)と、(子どもの様子)との間で、葛藤を繰りかえしていることになります。
しかし、この問題とて、みな、そうなのですから、あまり深刻に考えないように。

みな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、どこの家庭も、同じような問題をかかえて、四苦八苦しています。
だからこう思うのです。

「ようし、十字架のひとつや、ふたつ、背負ってやる!」と。
(十字架というほど、おおげさなものでは、ありませんが……。)

不登園に関しては、「あきらめなさい!」。
子どもには、「行きたいときに行けばいい」「小学校は、楽しいところだから」というような言い方で、接します。
あとは、『暖かい無視』です。

あなたはあなたで、好きなことをして、その中に、子どもを巻きこんでいきます。
2度目の人生を楽しむつもりで……。
あなたが子どものとき、したこと。
したかったこと。
できなかったこと。
それをします。
童心に返って!、ね。

なお、神経質という部分については、「敏感児」と理解してよいのでしょうか?
あるいは、神経症による症状がでているということなのでしょうか。

一度、私の「子どもチェックテスト」を受けてみてください。
すべて無料できるようになっています。

「はやし浩司のHP」→「ここが子育て最前線」から、入っていただけます。

なお、赤ちゃん返りの部分については、最大限、もう一度、スキンシップを、子どもに戻します。
添い寝、だっこ、手つなぎなど。
『求めてきたときが与えどき』と考えて、子どもが求めてきたら、すかさず、与えます。
「待ってね」「あとでね」は、禁句です。
その瞬間、子どもは、あなたの心を読んでしまいます。

またそれでも情緒が不安定(=心の緊張感が取れない)というのであれば、海産物中心の献立に切り替えてみてください。
カルシウム、マグネシウム、カリウムの多い、食生活です。
この時期、錠剤も、効果的です。
薬剤師によく相談して、服用してみてください。
(甘い、白砂糖食品は、遠ざけます。)

体重も、それで改善できるはずです。

いくつか、参考になりそうな原稿を添付しておきます。

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●砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇~一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。