【犬山にて】(名鉄犬山ホテル)
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昨日は、母の三回忌の供養のため、
郷里のG県のM町に向かった。
日帰りは無理と判断したので、
犬山で一泊することにした。
愛知県犬山市の犬山である。
泊まったのは、名鉄犬山ホテル。
木曽川沿いに立つ、立派なホテル。
そのすぐ横に、あの犬山城が見えた。
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●扁桃腺炎
朝、友人を駅に見送る。
京都から、山陰の町へと旅立った。
そのあと私たちは、G県へ。
TOYOTAのプリウスに乗り換えてから、最初の遠出。
やや不安だったが、ハッチバックをバタンと閉めたとき、覚悟が決まった。
体の調子は、あまりよくない。
昨日から、軽いめまいがある。
子どものころは、慢性中耳炎に苦しんだ。
そのせいか、風邪の引きはじめに、よく同じような症状が出る。
三半規管のどこかに問題があるらしい。
素人療法だが、そういうときは、ビタミンC(アスコルビン酸)を、大さじに
2、3杯、水に溶かして飲む。
(読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
扁桃腺にしみることもある。
が、そのあとしばらくすると、症状は消える。
●G県M町へ
台風の影響で、厚い雲が空を覆っていた。
自宅に一度もどったあと、荷物を車に積む。
それに飲み物。
昨日までの暑さが、気になっていた。
こういうときは水分の補給が何よりも大切。
ミネラルウォーターに、ジュース。
それに頭痛薬を溶かしたウーロン茶。
私は夏場には、昼だけでも、2~3リットルの水を飲む。
飲まないと、頭がボーッとしてしまう。
「低血圧のせい」と、自分ではそう思っている。
つまり水分を補給して、血圧を調整している。
(これも素人療法なので、読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
●台風
東名高速道路に入る前に、ガソリンを満タンにする。
寺へのみやげはギョーザ。
住職の好物。
店で買う。
そのころから、大粒のはげしい雨が降り始めた。
時刻は午前9時半。
「一度M町へ行き、それから犬山に戻ろう」と私。
「もし途中で疲れたら、犬山で休憩し、明日M町へ行けばいい」とも。
が、東名に入ると、意外と車が楽に走り始めた。
「さすがプリウス!」と、私は思った。
加速性がよい。
乗り心地もよい。
そのときワイフが言った。
「まっすぐM町へ行きましょうよ。
早く片づけたほうが、気が楽よ」と。
●三回忌
2年前、実兄と実母が相次いで他界した。
今年は三回忌にあたる。
その三回忌をどうしようか、このところずっと悩んでいた。
だからといって誤解しないでほしい。
三回忌が無駄とか、そういうことを言っているのではない。
「したくない」と言っているのでもない。
人、それぞれ。
事情は家庭によって、みな、ちがう。
あなたにはあなたの家庭がある。
私には私の家庭がある。
つまりあなたにはあなたの考え方がある。
私には私の考え方がる。
ただ私は60歳を過ぎるころから、急速に柔軟性を失ってしまった。
がんこになったというよりは、「私」が強く表に出てくるようになった。
いやなことは、いや。
納得できないことは、いや。
もう少しわかりやすく言えば、自分を捻じ曲げることができなくなった。
●妥協?
ワイフは、いつもこう言う。
「あまり深く考えないで、気楽に妥協したら」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
その「妥協」ができなくなった。
ほかのことならともかくも、自分の哲学に関することについては、とくにそうだ。
宗教観は、まさにその哲学の一部。
宗教観というより、死生観。
ときに自分のもつ哲学は、死生観に集約される。
●拒否反応
もちろんお金の問題ではない。
今まで、私は実兄の葬儀にせよ、実母の葬儀にせよ、その費用は言われるまま、
全額負担してきた。
葬儀費用だけで、軽く計400万円を超えた。
それに僧侶への葬儀料や戒名料などなど。
仏壇も新調した。
葬儀のあとは、七七の法要や百か日の法要と、つづいた。
その間に、祖父の三三回忌の法要も入った。
(33年目の三三回忌だぞ!)
が、今度は、三回忌。
率直に一言。
介護もたいへんだが、葬儀もたいへん。
息子たちへの学費がやっと終わったと思っていたところへ、その追い討ち。
さらに出費が重なった。
今までのことを思うなら、なんでもない法要ということになる。
が、ここにきて突然、拒否反応が起きるようになった。
●母の介護
拒否反応といえば、こんなことがあった。
晩年、母は死ぬまでの2年間、浜松にいた。
うち1年間は、私の家にいた。
その間、母の世話は私がした。
とくに便の始末は私がした。
ワイフにはさせなかった。
といっても、それが苦痛だったというわけではない。
「赤ん坊の世話よりも楽」と、いつも私はそう思っていた。
朝起きるとまず、おむつの取り替え。
それが終わると、便器の清掃、部屋の掃除。
朝食の用意。
デイサービスがある日は、服を着替えさえ、迎えのバスを待つ。
母はおとなしく、何一つ、不平不満を言わなかった。
が、だからといって、気が休まる日はなかった。
家をあけるときも、まず母の様態をうかがってから出かけた。
「ショートスティ」というサービスもよく利用させてもらった。
しかしだからといって、一泊旅行ができたわけではない。
いつ何どき、何があるかわからない。
それが老人介護。
●特別養護老人ホーム
その母が、たいへん運よく(?)、特別養護老人ホームへ入居できた。
「150番待ち」とか、「2年待ち」とか言われていた。
が、たまたまある日、順番を申し込むためにホームを訪れると、「明日から
どうですか?」と。
あとでわかったことだが、応対してくれた女性が、そのホームの園長だった。
こうしてちょうど2年目の冬、母は、ホームへ入居した。
とたん、私の家から緊張感が消えた。
抑うつ感?
それまではそういう負担感があるとは思ってもいなかった。
が、消えたとたん、それまでそれがあったことがわかった。
私の体を取り巻いていた無数のクサリが、パラパラとはずれた。
●拒否反応
が、ちょうど1か月目のこと。
母が脳梗塞で倒れた。
それまでは冗談もわかるほど、頭の回転はよかった。
が、その日を境に、極端に反応が鈍くなった。
そのときのこと。
入院先の医師が、こう言った。
「入院しますか?」と。
入院といっても、最長1か月間という。
「1か月はいられますが、それ以後は、再び自宅へ連れ戻ってもらいます」と。
(ホームではなく、自宅。)
特別養護老人ホームといっても、医師が常駐しているホームはほとんどない。
看護師はいるが、医療は受けられない。
また1~2週間ならともかくも、1か月ともなると、ホームから籍を
消されてしまう。
それこそ今度は、「150番待ち」「2年待ち」ということになってしまう。
そのときのこと。
私は、はげしい拒絶反応を覚えた。
あれほど何でもなかった母の介護だったのだが、「再び自宅で介護」という話に
なったとき、体中が固まってしまった。
だから医師に、私は強く言った。
「2、3日で、病院から出してください」
「ホームへ母を戻してください」と。
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昨日は、母の三回忌の供養のため、
郷里のG県のM町に向かった。
日帰りは無理と判断したので、
犬山で一泊することにした。
愛知県犬山市の犬山である。
泊まったのは、名鉄犬山ホテル。
木曽川沿いに立つ、立派なホテル。
そのすぐ横に、あの犬山城が見えた。
++++++++++++++++++
●扁桃腺炎
朝、友人を駅に見送る。
京都から、山陰の町へと旅立った。
そのあと私たちは、G県へ。
TOYOTAのプリウスに乗り換えてから、最初の遠出。
やや不安だったが、ハッチバックをバタンと閉めたとき、覚悟が決まった。
体の調子は、あまりよくない。
昨日から、軽いめまいがある。
子どものころは、慢性中耳炎に苦しんだ。
そのせいか、風邪の引きはじめに、よく同じような症状が出る。
三半規管のどこかに問題があるらしい。
素人療法だが、そういうときは、ビタミンC(アスコルビン酸)を、大さじに
2、3杯、水に溶かして飲む。
(読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
扁桃腺にしみることもある。
が、そのあとしばらくすると、症状は消える。
●G県M町へ
台風の影響で、厚い雲が空を覆っていた。
自宅に一度もどったあと、荷物を車に積む。
それに飲み物。
昨日までの暑さが、気になっていた。
こういうときは水分の補給が何よりも大切。
ミネラルウォーターに、ジュース。
それに頭痛薬を溶かしたウーロン茶。
私は夏場には、昼だけでも、2~3リットルの水を飲む。
飲まないと、頭がボーッとしてしまう。
「低血圧のせい」と、自分ではそう思っている。
つまり水分を補給して、血圧を調整している。
(これも素人療法なので、読者のみなさんは、まねをしないでほしい。)
●台風
東名高速道路に入る前に、ガソリンを満タンにする。
寺へのみやげはギョーザ。
住職の好物。
店で買う。
そのころから、大粒のはげしい雨が降り始めた。
時刻は午前9時半。
「一度M町へ行き、それから犬山に戻ろう」と私。
「もし途中で疲れたら、犬山で休憩し、明日M町へ行けばいい」とも。
が、東名に入ると、意外と車が楽に走り始めた。
「さすがプリウス!」と、私は思った。
加速性がよい。
乗り心地もよい。
そのときワイフが言った。
「まっすぐM町へ行きましょうよ。
早く片づけたほうが、気が楽よ」と。
●三回忌
2年前、実兄と実母が相次いで他界した。
今年は三回忌にあたる。
その三回忌をどうしようか、このところずっと悩んでいた。
だからといって誤解しないでほしい。
三回忌が無駄とか、そういうことを言っているのではない。
「したくない」と言っているのでもない。
人、それぞれ。
事情は家庭によって、みな、ちがう。
あなたにはあなたの家庭がある。
私には私の家庭がある。
つまりあなたにはあなたの考え方がある。
私には私の考え方がる。
ただ私は60歳を過ぎるころから、急速に柔軟性を失ってしまった。
がんこになったというよりは、「私」が強く表に出てくるようになった。
いやなことは、いや。
納得できないことは、いや。
もう少しわかりやすく言えば、自分を捻じ曲げることができなくなった。
●妥協?
ワイフは、いつもこう言う。
「あまり深く考えないで、気楽に妥協したら」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
その「妥協」ができなくなった。
ほかのことならともかくも、自分の哲学に関することについては、とくにそうだ。
宗教観は、まさにその哲学の一部。
宗教観というより、死生観。
ときに自分のもつ哲学は、死生観に集約される。
●拒否反応
もちろんお金の問題ではない。
今まで、私は実兄の葬儀にせよ、実母の葬儀にせよ、その費用は言われるまま、
全額負担してきた。
葬儀費用だけで、軽く計400万円を超えた。
それに僧侶への葬儀料や戒名料などなど。
仏壇も新調した。
葬儀のあとは、七七の法要や百か日の法要と、つづいた。
その間に、祖父の三三回忌の法要も入った。
(33年目の三三回忌だぞ!)
が、今度は、三回忌。
率直に一言。
介護もたいへんだが、葬儀もたいへん。
息子たちへの学費がやっと終わったと思っていたところへ、その追い討ち。
さらに出費が重なった。
今までのことを思うなら、なんでもない法要ということになる。
が、ここにきて突然、拒否反応が起きるようになった。
●母の介護
拒否反応といえば、こんなことがあった。
晩年、母は死ぬまでの2年間、浜松にいた。
うち1年間は、私の家にいた。
その間、母の世話は私がした。
とくに便の始末は私がした。
ワイフにはさせなかった。
といっても、それが苦痛だったというわけではない。
「赤ん坊の世話よりも楽」と、いつも私はそう思っていた。
朝起きるとまず、おむつの取り替え。
それが終わると、便器の清掃、部屋の掃除。
朝食の用意。
デイサービスがある日は、服を着替えさえ、迎えのバスを待つ。
母はおとなしく、何一つ、不平不満を言わなかった。
が、だからといって、気が休まる日はなかった。
家をあけるときも、まず母の様態をうかがってから出かけた。
「ショートスティ」というサービスもよく利用させてもらった。
しかしだからといって、一泊旅行ができたわけではない。
いつ何どき、何があるかわからない。
それが老人介護。
●特別養護老人ホーム
その母が、たいへん運よく(?)、特別養護老人ホームへ入居できた。
「150番待ち」とか、「2年待ち」とか言われていた。
が、たまたまある日、順番を申し込むためにホームを訪れると、「明日から
どうですか?」と。
あとでわかったことだが、応対してくれた女性が、そのホームの園長だった。
こうしてちょうど2年目の冬、母は、ホームへ入居した。
とたん、私の家から緊張感が消えた。
抑うつ感?
それまではそういう負担感があるとは思ってもいなかった。
が、消えたとたん、それまでそれがあったことがわかった。
私の体を取り巻いていた無数のクサリが、パラパラとはずれた。
●拒否反応
が、ちょうど1か月目のこと。
母が脳梗塞で倒れた。
それまでは冗談もわかるほど、頭の回転はよかった。
が、その日を境に、極端に反応が鈍くなった。
そのときのこと。
入院先の医師が、こう言った。
「入院しますか?」と。
入院といっても、最長1か月間という。
「1か月はいられますが、それ以後は、再び自宅へ連れ戻ってもらいます」と。
(ホームではなく、自宅。)
特別養護老人ホームといっても、医師が常駐しているホームはほとんどない。
看護師はいるが、医療は受けられない。
また1~2週間ならともかくも、1か月ともなると、ホームから籍を
消されてしまう。
それこそ今度は、「150番待ち」「2年待ち」ということになってしまう。
そのときのこと。
私は、はげしい拒絶反応を覚えた。
あれほど何でもなかった母の介護だったのだが、「再び自宅で介護」という話に
なったとき、体中が固まってしまった。
だから医師に、私は強く言った。
「2、3日で、病院から出してください」
「ホームへ母を戻してください」と。