コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 11月

2008-11-20 02:58:07 | 真宗カウンセリング

今日は真カ研の月例会でした。
先月は欠席したので2ヶ月ぶりですか。
内容は引き続きロジャース氏の論文の輪読会です。

カウンセラーが「人間に関しての哲学」を持っていないと、「一致・共感・肯定的配慮」といった態度を経験することは難しい…という内容なんですが、「哲学」という言葉で示されると、哲学をかじったことのない私にはどうも遠い話になってしまう。
で、先生や他の方々の話を聞いていると、それは「人間観」と置き換えてもいいような感じでしたね。
それならば、少しはニュアンスが見えてきます。

そのあと、ロジャース氏の自説を立証するための研究の話に進むのですが、その実証手順の記述は専門的でわかりにくいものの、そういう細かい手順を経ていくロジャース氏の”思い”というところを味わった感じがします。
その中のひとつに、クライエントにカウンセラーの態度を記述させるものがあるのですが、その項目の選択肢にドキッとするものがありました。

「彼は、われわれの関係において、まったくあるがままに振舞っている。」
「彼は、実際に思っている以上に、私を好いているように、また理解しているように見せかけている」

これは”一致”に対してのものですが、カウンセラーは一致した態度で臨んでいるようでも、クライエントには「あるがままに振舞っている」のか「見せかけている」のか、その態度が伝わってしまうんですね。

先の哲学の話題のときに、先生から「人間観-態度-技法」という言葉があり、「人間の可能性を尊重」し、「個人を尊重」し、「相手を理解する欲求」という人間観があれば、それが態度に表れ、技法につながるということが「ひっかかり」としてありました。
しかし、私はまず「技法」の模倣から入り、いかに「態度」が身につくかを模索している感じがするんですね。
頭では、先に「人間観」だとわかってはいても、その「人間観」を磨くために技法や態度から入っている。
しかし、根本の「人間観」がゆらゆらしていれば、「見せかけている」状態に留まってしまうのじゃないだろうかと。


じゃあ、どうやってこの「人間観」を磨くか…
矛盾するけれど、やっぱり「技法」「態度」を意識して「経験」していくしかないのか。

仏法といっしょで、頭の理解じゃなくて体感なんでしょうねぇ。

次回は私がレジュメ担当になったので、この実証手順を踏んでおこなった検証の答えの部分を考えます。
もしかしたらそこに指針があるかもしれませんね。