「おかえりなさい、あ・な・た」 犬のおまわりさんのアップリケのついたエプロン――雇い主の老夫婦の上の孫娘が家庭科の実習で作ったものをプレゼントされて、無碍にするわけにもいかないので使っているものだ――をつけたエレオノーラが、玄関先で体をくねくねさせながら甘ったるい声をあげる。
「ご飯にする? お風呂にする?」
「おい」 氷点下の眼差しを向けるアルカードに向かって、心底楽しそうにエレオノーラは続けて . . . 本文を読む
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「アルカード……アルカード? ねえ、聞いてる?」 耳元で何度か呼びかけられ、アルカードはようやく我に返った。
我を取り戻せば、そこはもはや星々と満月を戴くカルカッタの夜空の下でもなく、魔術で引き起こされた爆発によって活火山の火口のごとき様相を呈する寺院の跡でもない――眼前にかつては兄であった仇敵の姿は無く、まだ若かったのちの友の姿も無い。
気づけばそこは警察署の署内で、視界に . . . 本文を読む
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グリゴラシュは数十歩ほど離れたところで、固形部分の完全に消失した床から拳ひとつぶんほどの高さに浮いている。
グリゴラシュが小さく舌打ちを漏らし、右腕を伝って床の上に滴り落ちる鮮血を見下ろした――滴り落ちた血の雫は熔岩化した地面から放出される高熱で瞬時に蒸発し、あとに残った血の塊も瞬時に焼失していく。
短剣《スティレット》で突かれたアルカードの右腕がすぐには完治しない様に、魔 . . . 本文を読む
始まったときと同様に、その爆発は唐突に終わりを告げた。あれほどの閃光も轟音も衝撃波も、まるで夢幻のごとくに消滅し――轟音の残響すらも残ってはいない。
魔術の『式《プログラム》』というのは通常なんらかの障害が原因で機能不全を起こしたときに備えて、『式』に瑕疵が生じると自動もしくは手動で修復を行う仕様になっている――対してアルカードの塵灰滅の剣《Asher Dust》は、攻撃対象の霊体に傷をつける . . . 本文を読む
唇をゆがめてかすかな笑みを作り――グリゴラシュが床を蹴る。踏み込み様に繰り出されてきた刺突を、アルカードはみずからの霊体武装を真直に振り下ろして叩き落とした。その反動で鋒を跳ね上げ、がら空きになったグリゴラシュの顎先に曲刀の帽子を引っ掛ける様にして彼の咽喉《のど》に手にした塵灰滅の剣《Asher Dust》の鋒を突き立てようと――
するより早く、グリゴラシュの姿が視界から消えた。こちらがグリゴ . . . 本文を読む
「――なあ、グリゴラシュ?」
「それを俺に言われても困るがな」 返事を期待していたわけでもないその独白に――欧州を離れてから久しく聞かなかった故国の言葉で返答を返され、彼は右足を引いて体ごと背後を振り返った。
どこにひそんでいたのか、視線の先には癖の強い黒髪を背中まで伸ばした若い男が立っていた。ところどころに設置された篝火の光で、薔薇をあしらった装飾を施された疵だらけの甲冑がオレンジ色に染まって . . . 本文を読む
2
「いやぁ、すみませんねぇ長々と」 本当に申し訳無さそうな風祭の言葉に、アルカードは適当にかぶりを振った。一応警察官の友人は何人かいるものの警察にあまりいい印象は無いアルカードではあるが、彼の腰の低さにはまあ好感が持てる。
事情聴取が一応終了したところで、彼は風祭に伴われて取調室から出た。
割と圧迫感のある印象の取調室から解放されると、なんだか空気の味まで変わった様な気がしない . . . 本文を読む
†
「おい、涼ちゃん。頼むから手伝ってくれよ」
「ああ、すまない」
同僚の言葉に中村はあわててうなずくと、
「すみません、スカラーさん。もうしばらく娘のことをお願い出来ませんか?」
「はい」 アンがうなずくと、中村は安心した様な笑みを見せてカウンターの奥に入っていった。
「ねえ、アルカード。わたしたちはどうしようか?」
「さあ? 君は帰ってもいいと思うがね――小雪ちゃんは俺が警察署 . . . 本文を読む
†
「おやすみ、おっさん」
その言葉とともに――ライフルを手にした男が口から泡を吹きながら床の上に崩れ落ちる。その手の中から銃を抜き取って、アルカードは立ち上がった。
手にしたライフルを銀玉鉄砲かなにかみたいに片手で据銃し、発砲――ぱあんという銃声が鼓膜を震わせ、小気味いい反動が肩を突き抜けた。耳を聾する轟音に驚いて、小雪の抱いていた犬がびくりと体を震わせる。カウンター越しに飛翔 . . . 本文を読む
考えるまでもない――たった四人で出入り口を塞いでも、まがりなりにもひとつの市の郵便局の本局なのだ。百人近い職員は無論いるだろうし、建物の規模だってそれなりのものだ。四人で出入口を鎖《とざ》したところで裏口から出ることも出来るし、目の届かない者だっているだろう――仮にほかに仲間がいたとして、何人いたとしてもそれで建物の内部すべてをカバー出来るとは考えにくい。
郵便局は銀行とは違う――金融課だけで . . . 本文を読む
†
玄関の扉を閉めて共用廊下に出ると、折からの突風に煽られて前髪が揺れた――自動でスイッチの入った共用廊下の照明のひとつが、ちらちらと瞬いている。
蛍光燈が切れかけているのだ。あとで交換しなければならないだろう――胸中でつぶやいて共用廊下の下から出ると、ちらほらと視界に白いものが舞った。
頭上を見上げると、空から綿毛の様な雪が降ってきている――寒いわけだ。
息が白く凍るのに苦 . . . 本文を読む
1
およそ女性の部屋とは思えない、飾り気の無い部屋の中で――彼女はそれまで閉じていた瞼を開いた。
ベッド代わりに横になっているソファは、かなり大きい――ソファが複数しつらえられているのは、この部屋の主が近隣の住人を集めてよく飲み会とかをするからだ。
天井にシーリングファンなど設置されているのは、部屋の主の趣味だろう――どうも新し物好きの割に懐古趣味的なところもあり、どうにも嗜好 . . . 本文を読む