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グリゴラシュは数十歩ほど離れたところで、固形部分の完全に消失した床から拳ひとつぶんほどの高さに浮いている。
グリゴラシュが小さく舌打ちを漏らし、右腕を伝って床の上に滴り落ちる鮮血を見下ろした――滴り落ちた血の雫は熔岩化した地面から放出される高熱で瞬時に蒸発し、あとに残った血の塊も瞬時に焼失していく。
グリゴラシュがいったんこちらに視線を向ける――戦闘を継続すべきか否かで迷っているのだろう。
だが、彼はすぐに戦闘の続行をあきらめた様だった――ある意味当然と言えば当然だ。こちらは右腕が使えないだけだが、グリゴラシュは
今追撃をかければ――
一歩足を踏み出しかけたところで、アルカードは即座にその選択肢を放棄した。
魔力の動揺が激しすぎる――グリゴラシュは防御が間に合わなかったために肉体的に相当の損傷を受けている。魔術には霊体に対する殺傷能力もあるから、霊体にも幾許かの損傷は負っているだろう、が――
それでなお、グリゴラシュは床から拳ひとつぶんの高さにきちんと垂直を保ったまま浮いている――あの状態でなお、魔術制御を正確に行っているということだ。
グリゴラシュの魔術の技量を鑑みれば、今ここで潰し合うのは得策ではない――もう一度同じ攻撃を仕掛けられれば、今度は『楯』では防げない。なにより、足元の地面がほとんど熔岩化してしまったためにグリゴラシュの周囲に足場が無い――戦士としての技術が主体のアルカードでは、この状況で接近戦を挑むのは難しい。
状態が万全であれば儀典魔術で構築した防御結界を
右手はまだ握力を取り戻していない――補助武装の大半は失ってしまったし、そもそもグリゴラシュがここにいることを想定してやってきたわけではなかったので、準備も十分ではなかった。それに、先ほどの爆発を凌ぐのにそれなりに消耗してしまった。
だが――
「どうした、グリゴラシュよ。決着がまだだぞ――怖気づいて逃げるつもりか?」
投げつけた挑発の言葉に、グリゴラシュが唇をゆがめる。
「よく言う――今のその襤褸雑巾の
「少なくとも貴様よりはな――黒焦げの様でよくほざく」 そう答えながら、左手を翳す。
体内の魔力が大きく動揺しているために、今は霊体武装を起動することは出来ない。格闘攻撃も、普段ほどの対霊体殺傷能力は見込めないだろう。
だが、
革のバンドが弾け飛ぶ音とともにはずれた手甲が足元の無事に残った床の上に落下して、耳障りな音を立てた――甲冑の下の帷子と鎧下を引き裂きながら左腕の肘から先が膨張し、指先に鎌状の鈎爪を備えた金属質の装甲に覆われた腕に変形していく。
ぎちぎちと音を立てて変形していく左腕が、内部に充実していた魔力を放出し始めた――この左腕は、無論彼本来のものではない。昔高名な錬金術師から譲り受けた、錬金術により生み出された『
「またずいぶんな代物をくっつけたものだな」
感心した様なグリゴラシュの言葉に、アルカードは小さく顔を顰めた。
「あいにくあのときの損傷は、十年やそこらで治らないくらい深かったもんでね――左腕に寄生していたこれを引き剥がして、腕に接合するくらいしか手が無かった」
「二百七十年前のあの戦闘か――それを言ったらこっちも八つ裂きにされて、動ける様になるまでに四十七年かかったんだがな」
「その間にとどめを刺せなかったのが心底残念だよ、
「苦労が偲ばれるな」 爆発の衝撃波で甲冑が吹き飛び、ところどころ炭化して、端正な容姿もぼろぼろになった無残な姿のまま、グリゴラシュが適当に肩をすくめ――その足元から広がった肉眼では視えない虹色の極光が、彼の全身を包み込む。
展開された『式』の内容を即座に読み取って――アルカードは小さなうめきを漏らした。
「今夜の夜宴はこれで終わりだ、ヴィルトールよ――俺も少しばかり無茶をしすぎた。おまえも早いところ、ここから離れたほうがいい。なかなか面倒な客が近づいてきている――おたがいそいつに出会うと、今の体調ではなかなか面倒そうだ」
「待て――」
「焦るなよ――俺たちにはいくらでも時間があるんだ。つまらん横槍を入れられるのは本意じゃない」 転移魔術の効果が発動し始めているのだろう、グリゴラシュの姿が霧の様にかすみ始め――しかしかすれることなく明瞭に、グリゴラシュの声が鼓膜を震わせる。
「どのみち、俺はこの土地には用は無い――決着は持ち越しだ。どのみち今回の損傷を抜きにしても、俺も前におまえにやられた損傷が完全に回復していない――もう少し食事をしないとな。どうしてもと云うのなら、この土地の人間すべての屍の上で、いずれまた――」
そこでグリゴラシュの姿が完全に消滅し――その声もまた途中で途切れる。
小さく舌打ちを漏らし――左腕が人間のものと同じ形態に戻っていくのを見下ろして、アルカードは溜め息をついた。
周囲を見回して地面を蹴り――足元の熔岩の池を飛び越え、まともな地面に飛び移る。
「さて、と――」
周囲には爆発の際に生じた衝撃波で破壊され吹き飛ばされた瓦礫が散乱し、溶岩化した地面が放射する光でオレンジ色に染まっている。暑苦しかったので熔岩の池から十数歩離れたところで、彼は足を止めた。
「速いな」 つぶやいたとき、物蔭から黒い影が飛び出してきた。
――ギャァァァァァッ!
悲鳴をあげながら
身長は自分よりもいくらか上か――長旅で薄汚れた金髪に、熱波に細めた眼は緑。若々しい端正な顔立ちを今は緊張に引き締めて、こちらを静かに見据えている。
その視線を捉え、ふっと笑う。
膂力に任せて
すさまじい聖性を発しているのは、青年ではなくその手に構えた大身槍だった――使用者ではなく器物自体が、ここまでの強烈な魔力を帯びているというのは並ではない。
青年がカトリックの僧侶が身に纏う法衣を身に着けていることを考え合わせると、これはおそらく――
ヴァチカンが保有する
「本物、というわけか。はじめて見た」
「ドラキュラの『剣』――吸血鬼グリゴラシュだな? 俺はヴァチカン聖堂騎士団第一位、セイル・エルウッド――おまえの首、狩らせてもらうぞ」
そんな名乗りを上げて、青年が一歩前に出る。だが――
「グリゴラシュ? 俺が?」 思わず噴き出したアルカードに、エルウッドが眉をひそめるのが見えた。
「なにがおかしい」
「そりゃあおかしいさ――笑うなってのが無理というもんだ」 アルカードはそう返事をしてから、行動を起こすために少しだけ重心を下げた。
「残念だな、坊や――人違いだよ」
そう告げて――アルカードは地面を蹴った。地を這うかのごとくに体を沈めて、エルウッドに肉薄する。エルウッドが迎撃の一撃を繰り出してくるより早く、アルカードは突き出されようとしていた槍の穂先を
「なっ――」 狼狽した声をあげてエルウッドが背後を振り返るより早く、アルカードは跳躍した。熔岩の池を跳び越えて、対岸に着地する――魔力のバランスが回復していない今の状態では、あれをあしらうのは少々厳しい。
振り向いたエルウッドに向かって、アルカードは適当に手を振った。
「じゃあな、槍の坊や――また会う機会があったら、そのときは遊んでやるよ」
「待て、おい――」 そんな声を無視して、アルカードはそのままその場を走り去った。
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