物語というものは共感や親しみを覚えるからこそ好きになるし、
もっと読みたい見たいと思わせるものだと
わかって入るけれど、それが前面に出過ぎているものは
あまり好きじゃないなぁと感じているsachiakiです。
先日FBの方にある層の女性と自分が合わない
という旨の投稿をしたんですけれど、
そのレスポンスの中に「共感を求める人は醜悪」という
ワードがあったので、それはそれで違うなと思った次第。
そちらに対してのレスもしたんですけれど、
その話題から発展させて考えてみようかなと。
共感:他人の考え、主張、感情を、自分もその通りだと感じること
コトバンクより
私たちは日々多かれ少なかれ誰かの言葉や行動に感化され
言動や行動をしているものだと思います。
なぜそう思うのかという問いに改めて立たされない限り
割とシンプルに I see ってなって
誰かの意見や気持ちと同調しているものです。
なので自分の身近にいる人たちが変われば
自分の考え方や行動もスルッと変わったりするものなのですね。
よく自分を変えたければ
まずは持ち物や洋服など容姿を変えてみるって聞きますよね。
次にしている言動を変えてみる。
そして最後に環境を変える。(引っ越しとか、転職とか)
私たちは思っている以上に
日常の積み重ねで出来上がっているので
積み重ねるものを変えるのは小さなことでも
後々に大きな変化を呼び寄せたりするものです。
というわけなので、その日々の積み重ねをする時に
無意識に取り込んでくる意識の集合体として
煽ってくる「共感」の種類によっては
NOを言っていかなくちゃならないし、
同調しないというのも大切だけど、
あまりに自分と合わない意識ばかりと会うなら
自分の方から変わる方向に動いた方がいいよと。
所属している集団の中にいる違和感の塊として存在するのも
大切な役割だと思います。
炭鉱のカナリアみたいね。
違和感を訴え続けている人まで
同調した時に危うさを感じるような
リトマス試験紙的な役割よ。
誰かと同調している方が考えることが少なくて楽だけど
そうじゃないよねって言えることの方が貴重だと思う。
もちろんいらぬ波風は立てなくて良いと思うけれど。
いじめとかもさ、
本当にターゲットに対して加害したい人なんて一握りで
ほとんどの場合つまはじきにされるのが怖いから
なんとなく空気に従っているって人が多いよね。
率先して誰かに対して加害したいなんていうのは稀だろうし、
なんなら加害をしている側も
それが加害だということに気づいてないことだってあるだろうし。
誰かが「これ変じゃない?」と言えたなら
もしかしたら止まることができたことって
けっこうあると思う。
まぁ最悪なのは自分の思い通りにものごとを進めたい輩で
そういった人たちは人々の持つ「共感したい」の
スイッチを押すのがうまいってことかな。
そういう人は自分が悪者に見えないように
周到に人員を配置し違和感を持つものを排除していく。
「怖いトモダチ」というエッセイ漫画にも
いわゆるフレネミーと言われるような人が登場しています。
まぁ正直描いている人の目線しかないので
事実はまた違うものだと思うけれど、
たくみに人々を取り込んで相手を追い詰める人の典型で
弱者のフリをするのがうまいという点が突出しているので
ちょっと気にかけてみると良いかもしれません。
「共感」をうまく操る人はだいたいこのパティーンなので。
自我をしっかり持っている人は「共感」をフル活用せず違いを楽しみ、
その多様性を余裕を持って迎え入れていることが多いと思うので。
宗教とかもそうですね。
違いを認めてしまうことが組織瓦解のきっかけになりかねないので
異端は排除する方向なんですよ。
ただ心が弱っている時とかって
やっぱり考える力が落ちていたりするので
自分と近しい人たちと側にいて
同調することで回復するっていう時間が必要だと思います。
回復しきれば自我が戻ってきて違和感を感じて
その集団からの卒業もできるでしょう。
余裕がある人は所属する集団をいくつか持っておくのをオススメします。
一つのところに寄って立っていると違和感にも気づきにくいし。
というわけで、今日はフレネミーに気をつけろ!って話でした。
あれ?そうだったっけ?
まぁいいや。それではまた!モイモイ
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