シャーデンフロイデ=人の不幸は蜜の味
古の時代から、地域問わず言われる秘密の喜び。
なんて言われていますが、
いまいちその感覚がわかんねぇな
ってなってるsachiakiです。
どんだけ悪人だったりしても
その人の立場がひっくり返って
あまりに惨めになっている時は
それに対して喜びの感覚よりは
同情心の方が勝ってしまうし、
ザマァ!みたいな状況も
一瞬だけスカッとしても
そこに対して嫌な気持ちが浮かんでしまう。
それこそ自分が未成熟であった
(まぁ今も未熟なところはたくさんあるけれど)
十代とかは多少なりとも
自分に酷いことをした人だったり
気に入らないものがいい思いをしないことを
喜ぶようなところはありました。
喜ぶというよりは文字通りスカッとする
かな。
だけど年を取ってきて、
この世界は色んな配分はあるけれど、
椅子取りゲームであることには違いなく
自分の椅子を取った人が別の人に取られる
なんてことが常態化していて
そこになんの感慨もないというか
そういうもんだって思ったら
椅子を奪った人に対しても
酷い目にあって脱落しちまえ!とは思えなくなったし
うまくやりおおせなよ、
って気持ちの方が勝つようになったし
自分よりも辛い思いをしている人がいたら
その人のために身を粉にして
なにかしてあげたいって思うようになった。
こういう感情を上から目線だとか
偉そうだって言われても
そうなんだから仕方ないって思うだけなんですよね。
私は家庭をほとんど顧みることがなかった父に対して
今こそ多少の反発はあるけれど、
それでも自分よりも恵まれない人たちに
全力を尽くす父が誇りだし
愚痴をこぼさない父のようになりたい
って思ってるところがあるんですよね。
母の忍耐力もすごいと思っているけれど
うちは両親とも人様を悪く言うってことは
良くないことだって教育されてたし
「人に迷惑をかけない」これを家訓にされていたので
まぁ迷惑をよくかける自分としては
人間ができてないなぁって思うことが多く
今も割と「努力信奉」なところがあると思います。
努力が必ず報われるとは限らないけれど
努力をしている時に人の調子の悪さとかを
望む隙なんて入ってこないんですよね。
努力は自分を強くしてくれる。
それは報われなくても
自分が昨日よりも今日良い状態になって
明日はもっと良くなる。
だから永遠に努力し続けていれば
納得がいく自分になれる。
みたいなところがあるんですわね。
「誰か」なんて割とどうでもいいと言うか
Goodな自分を目指しているみたいなところがあるんです。
だからこそ「人の不幸が蜜の味」になる
そんな余裕がないといえば近いのかな。
今自分がGoodでないのは
自分の努力が足りないから。
でも努力でどうにもならないものもあるから
そんな時はタイミングが悪いのだ
そう考えています。
そうすれば「あいつのせいで」とか
思わないで済むのかな〜と。
まぁ愚痴を共有したりするのは
心がシンドイ時には必要だし
暗い感情を全て否定するわけじゃないけどね。
暗い喜びを中心に置いていると
なんにも動かないよってだけです。
そんなこと本人が一番わかっていること
なんだと思いますけどね。
さて作業に戻りますかね。
そんじゃまた。モイモイ。