今月から生活の足しにするために
ダブルワークで介護の仕事に入りましたが
介護先が障がい者支援施設になるので
色々と学びがあるなぁと感じているsachiakiです。
とくに”当たり前”のボーダーに関して
様々な困難を目の当たりにし、
健常者と言われている人たちが想定している
”当たり前”の基準というものにも
疑問符がつく日々を過ごすようになりました。
例えば食事。
器を持つこと、器具を使うこと、
口に思い通り運べること
口に入ったものを咀嚼すること
咀嚼したものを飲み込むこと、
飲み込んだ後で戻さないこと……
これらが一様にできることを前提にして
食事という概念になっていたりするけれど、
この動作のいずれかができないということには
あまり考えが及んでいないのが”常識”の世界です。
私はよく腱鞘炎になるので
器を持つ、器具を持つっていうのが
かなり難しい時があるので
けっこう簡単に”当たり前”が崩れるのを体験しています。
そういった時に、どんな道具があれば便利なんだろう?
といった考えになり、さらに作り出せるかが
頭の良さの違いなのかなぁと思うけれど、
残念な頭なので、どういうものがあれば便利なのかが
ちょっと思いつきません💦
と、前置きが長くなりましたが、
”当たり前””常識”といったものが
どれだけ脆いものなのかを書いておきたかったのです。
そんでまぁ、サポート範囲が増えたという日記を
昨晩上げているのですが、
その増えたものというものに
別のルームの利用者さんの面倒を見るというのがあり、
彼女たちがさっそくトラブルを起こしてくれたので
なるほどなぁと感心してしまったのと同時に
心身ともに疲弊してしまったので
母という存在は偉大だなぁと改めて感じたということです。
で、トラブルの内容は書けませんが
協調性というものは、もしかすると難易度が高いものなのでは?
と考えるようになったのです。
人間は社会的生き物であり、協力しあうことで
より高度なことをこなせるようになってきたけれど、
この協力するという行為の中で大きな存在を放つのが
協調性というもので、
協調性というのは
自分のやるべきこと、できることを知っていて
周りを観察し、自分のできることを行い
足りない人のところへは力を貸し、
足りてないものは力を貸してもらう、
そういう能力だと思うのです。
ギクシャクした関係を作らずに
円滑なグループを保つための能力とでも言いましょうか。
これが割と高度なことなのかもしれない
ってはじめて気づいたって感じなのです。
いやさ、協調性の薄い人っていうのもいて
我の思う通りに動け!みたいな人もいるけれど、
そういった人でさえ、思い通りに動いてもらうための
知恵(良い/悪いに関わらず)みたいなものがあるけれど、
周りに人がいることは認識しているけれど、
その人たちが自分の世界に干渉することーー
例えば手が触れてしまうとかーーについて
まったく思いが及んでいないということはないと思うんです。
稀に集中しすぎていて他の人のことを忘れる
ってことはあるけれど、
それでも認識できているのに忘れるってことは
なかなかないことかなぁと思うのです。(ちょっと曖昧)
そんなわけなので、他の人をよく観てなにが必要なのか
そういったことを考えるのって
けっこう難しいことなのかもなぁってなったのでした。
困難を持ち合わせる人と過ごすことで
いかに自分がカチコチの世界にいるのか
そういうことに気づくので
世界を旅するのと同じくらい
自分の世界が広がるのを感じている今日この頃です。
さて、滞ってしまっている作業に戻ります。モイモイ