独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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一粒のダイヤの言葉   —令和を前にした平成末の書簡—  上野霄里

2019-05-15 09:52:22 | 日記
名久井先生!
 色々な心の暖まる大小の贈物、大箱いっぱい、とても、とても嬉しく頂きました! 一つ一つ、私の心と体と精神を熱くし、強め、涙を流させ、人生そのものとなり、動きを深く、大きく、そこに歌がいっぱいに大自然のメロディを高め、深々とあらゆるものに色をつけてくれています! 色の無い人生は、幾ら金銭があっても、名誉や肩書きが有っても、何かが、どこか死んでいます! 氷っています。そこに、命そのものの呼吸が無いのです! こんなに沢山の贈り物を前にして、私と私の妻が、心の中に、外に、はっきりと大合唱の歌声のような熱さや光、パワーを受けました! これが生きているという力そのものです! 燃えているという熱さそのものです。果てしなく、どこまでも、力一杯動く力(生命)そのものを実感します! 妻は一日、一粒ずつ美味しいおいしいとチョコレートを頂いています! 失禁など常にしていますが、実にニコニコと人生時間を嬉しそうに見ている妻は、とても幸せそうです。それを見ている私も、涙を流しながら、大いに喜び、笑っています! 人生時間というものは、何歳になっても、生き生きとしていますね! 一つ一つ、頂いた物は、大自然の大きな燃え盛る熱い火の様なもので、私は、その前でゾロアスターの様に、深くふかく頭を下げ続けています! 
 荘子は、その著書の「外篇」の中編で云っています。Aという人物が道について尋ねられると、答えられず、Bという人間は、返事をしてしまう。変事出来ないAの方が、実は物が判っていたと荘子は書いている。このところを正しく書くと、
  「无始日、道不可聞、聞而非也、見而非也、道不可言、言而非也」
 荘子という人物が、一人本当に居たかどうか、これも疑問です。恐らく当時の長い長い時代の中で、十人、百人、千人の心ある一人、一句でも何かとてつもなく大きく、本当の言葉を遺していたのかもしれません! それが、積もり積もって、一人の荘子という架空の人間の名言として中国の山の中に遺されたのかも知れません! 西洋、東洋、あらゆる処の心豊かな、ときたま名言を遺す人間が、一生に一度の一言(ひとこと)名言を遺したのかも知れません! その中にシャカもキリストもマホメットやゾロアスターも、人間の集団に上った魔女達の一言一言が入っていたかも知れません! 老子も荘子も天照大神も、あちこちに沢山いたかも知れません! 気ちがいとして、馬鹿な人間として、エジソンやアインシュタインのような人物として、若くて自殺してしまった何人かの詩人、作家、俳優、乞食なども、その中に入っています。人間、生きて百年近く動いているということは、何かの、一つ二つ名言を何処かにヘドのように、糞のように、涙のように、鼻クソのように、何処かに遺している筈です。本になり、銭になり、社会の名誉になる言葉など、何の意味もありません! 一人の人間を生かし、力強くし、自然全体の前で輝かせられるのは、その人の一生の間に一つ、又は二つ、小粒のダイヤモンドのように輝く、その人間のドロダラケの、また傷だらけの人生そのものの力にみちた手の平の上にポツリと置かれた小粒のダイヤの言葉、これこそ、その人間を、その周りに集まる人間を輝かせ、生かす、力一杯の光の光そのもののような存在です。一つの命を生み、泥の中から命を育て、一つ一つの力に満ちた言葉を生み出し、その命の中に、一つ、二つ、卓越する設問、又は天来の雷鳴のように轟く、どの人にとっても、一生の間、一度位は聴くことが必要です! 残念なことに、世界のあらゆる時代の人間は、そういったダイヤの小粒一粒のような言葉にぶつかっていません! 人生の大興奮の中に本当の言葉又は本当の神霊の宝くじに当たった人は、まず皆無です。悲しいことです! 人間は、一人、一人、何時の時代にも、悲しいことに不的確で、不適当な言葉と愛と光の時代に生まれています。どんな大地に生まれ、住んでいようとも、そこで自分の生命を力一杯燃やし、自分の命を燃やし、荒れた大地を耕していかなければならなかった筈です。私達は、何とか一粒、二粒のダイヤのような言葉をみつけ、それによって大自然の荒れ地を耕し、愛と夢を大きく広げ、そこを何処までも、何処までも走り続けたいものです! 地球上は、言葉や愛、平和というものに群がる中で、大自然を壊し、かつて山の中や河の畔の野蛮な人間が伸び伸びと、平和そのままの中で、貧しく、慎ましく、持っていた、想像をはるかに越えた平和体感を、どうして今日のような人間社会の恐怖体感に変えてしまったのでしょう! 人間は、この社会の中の物事に心動かされることなく、もっともっと感性深く、心深く、魂の探索につとめて生きていきたいものです! 社会的な愛情を遥かに越えて、生き生きした、本来の森の中のそのままの人間———言葉もつかわなかった人間の頃の動画そのものだった時代の愛で、男女が、花と花が、魚と魚が、鳥と鳥が、星と星がつながっていきたい! 文化文明の社会の中で、 人間の情報量は大きく増えてきています。それによって愛も、力も優しさも、段々と増えていくどころか、小さくなってきました! 綿密な深さの愛も、綿密な物の考え方も少しずつ減ってきています! 人間も獣も、虫や草花でさえ、それぞれに持っている様々の、大なり小なりの感性、または心といったもの、それぞれの甘さ苦さ、愛や痛みを感じる思いには深化、広さ、リズムなどの度合がみられなくてはならない。人間の心と体の中の愛という感性の深化によって、これを計ってみたい。 僧衣を身にまとっている鬼もいれば、悪魔の姿でどこまでも優しく平和な者もいる。此の世の中は、様々な動画から出来ている。ありとあらゆる大小様々な強かったり弱かったりする生命は土壌と水分の力と云うか、そこに巻き込まれて、太陽の光の中で失って行く。本来の土の力や水の力を回復し、元の生命力(命)を回復すると元の、状態に戻る。生命力の元は土だ、水だ! 土や水を渇かしてしまう太陽からの光線も、それなりに、生命回復の馬力になってはいるが。人間は小利口なせいか、土と水の混じったドロドロな渦巻きの力の中で、それをそのまま神聖化しないで、いわゆる文明、文化の中に、じっと見続け、土や水のドロドロでグタグタの状態をそのまま文明の名の下で精査し、文化の仕組みの中で聖域化しようとしている。平成、そして令和のこの時代、それはどこまでもつづいている。私達は、時代というものを、もっと正しく、厳しく、愛深く精査してたちむかっていかねばならない!
  平成三十一年四月二十四日
                         上野霄里
 名久井良明先生

P.S これを正しく書き改め、文郎さん、古賀先生、伊藤さん、津田君、西の
  二人、その他に送って下さい。
   私達は、人間そのものとしては、最近大分あちこちが壊れてきています!
   言葉、一つ一つが、錆び付き、折れ曲がり、匂いまでが変です!
   それでも愛や平和、怒りは、少しは生きています‼
 
 
         ❖勝ち組の人生の女
 鈴木晶子さん
  過日は、わざわざお出下さって有り難う! 是非是非又時間を作って訪ねて来て下さい! 云ってみれば、私達の住まいは、ただの森の中の寂しい一軒家であり、静かに水の流れる小川の畔です。どこまでも楽々と生ていける果てしない時間の広がりの中の、美しい荒れ地です。おおらかに、ゆっくりと、それでいて力一杯走りましょう! 自分の心に忠実に魂の道を歩きましょう! 
 こんな汚い所ですが、また訪ねて来て下さい!
 華やかな、私達の人生、バンザイ!
 貴女の女の人生 どこまでも美しく、更に優しく燃え、楽しく燃えて下さい!

 勝ち組の人生の女であれ!
      平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里

         ❖シベリヤ鉄道の中で

 岩間けい子様
 この間は、わざわざ私達二人を訪ねて下さって本当にありがとう! 岩間先生にも、くれぐれも宜しく! 私達がまだ元気な頃、先生は遥かシベリヤ鉄道の中で読んでくれていた私の『単細胞的思考』のこと、長々と手紙に送って下さいました。それからも、まるで、古い辞書の様になるまで読んでいてくれたことを、嬉しく書いて送ってくれました。
 先生が、遥々、アルプスの村で手に入れてくれた太いバラの根で作られたパイプ、私に贈られましたが、今では、東京で長男が使っています。彼は今、法政大学で教えています。
 先生、益々元気で、長生きして下さい! 私も力一杯、自分の人生を楽しく、嬉しく、面白く、美味しく、明るく、それでいてどこか真面目で、慎ましく、本当の自分らしく生き果たしていきたいです! すべて、何でも、間違いなく揃い、それを使って生きられる人生の中心に於いて、負け組であるようで、実は勝ち組の人間として生き果たしたいものです! 人生万才! 限り無く万才!
       平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里
※合わせて千通以上はあるとみられる、待望の米文豪ヘンリー・ミラ—(1891〜1980)「北回帰線」「南回帰線」「プレクサス」など、と上野霄里先生の往復書簡集の刊行ですが、その予定さえ聞こえては来ません。先生の固い意思と伝えられている、この世紀をまたぐ「文学的事件」を引き続き注視していきたいと思います。(編)