独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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私の花物語     桜の舞(2)     三浦由里好(みうらゆりこ)

2017-02-17 18:26:12 | 日記
  私の花物語   桜の舞(2)
 自然の中に身を置くとき、私は最も素直で明るかった。自然は私にとってどこまでもやさしく広くあたたかかった。私を見る周囲の目はあまり温かいものに見えなかった淋しさを私ははりつめたやるせない思いで自然の温かさに求めていた。
 それは私の生立ちの性(さが)であったのか、先天的性格にあったのか、後天的な原因によるものか、確実なことは良くわからないが、私は先天的に自分の性格が人から愛されないものだとは、とても思いたくなかった。
 子供の私には解らないことであったが、私の母が生後間もなく両親に死別され、養女として祖母に育てて頂いた恩義の中で私と妹は必ずしも歓迎される存在ではなかったこと、祖母にとって何と言っても実の子である叔父の子供達–––姉二人・兄一人・弟一人–––が可愛いのが当然のことで、私にとって自分の存在がどんな立場であったのか、その意味する重みを知る事ができなかった。
 母は生来明るさとやさしさ温かさを持った人であるがそれだけに祖母や叔母、義姉妹たちの間に立って何かにつけ気をつかい、子供たちの喧嘩には心を傷め、特に祖母はどんな場合でも悪いのは私と決め込み母もそうすることで円満に収めてもいたし、一番良い方法でもあった。
 義姉妹とは、いつも仲良く遊びもしたが随分派手に喧嘩もし、泣いたり泣かせたりして祖母や叔母・母たちを困らせたことは度々で、ひどい時は庭の隅にある大きな白壁の土蔵の二重・三重になっている厚い扉の奥の昼でも真っ暗なネズミの出てきそうな所に放り込まれ、ワンワン泣いて泣きつかれて眠って仕舞うくらいまでお仕置きをうける事も三度や五度ではなかった。
 私を土蔵に入れるのは祖母か母でそこから済まながって出してくれるのは叔母であった。
 喧嘩の度々に全ての原因が常に私にあると決めてかかられる事がたまらなく不満であり、悔しかった。それは私が子供なりにどんなに叫んでもどうすることも出来ない宿命的なものにさえ感じられた。子供にはとうてい量り知ることの出来ない大人の心情の中にある厚い壁の重みは、子供の性格・人格の形成においてもこうした様々な形で影響を与えられて行くことを見て私は一言で先天的な性格であると決めてかかれないものに思えてならない。
 むしろ、神から与えられた善魂を、深い愛と慧智と慈しみをもって大切に育て見守るなら、子供はその天性を存分に健やかに生かされ成長するに違いない。
 幾度も、何か理不尽なやるせない思いを積み重ねて成長して行く中で私は誰かわたしを温かく、やさしく包んでくれる人の懐に思いきり飛び込み甘えてみたいと子供心にいつも人恋しい思いの強かった事を昨日のことのように憶えている。父にも(私の五歳の時に戦病死)、母にも思いきり甘えることの出来なかった子供の切ない思いを私は大自然の草木や花々の神秘な美しさの中にゆだねる事で心の傷は治癒され、淋しさの故にその美しさが心にしみ、素直に順応して行けたのであろう。
 花とお話をし、花の心が聞こえてくるような素直な気持ちになれ、ただただ花が好きであった。それは私にとってかけがない救いであった。自然は決して叱らなかったし、責めたり、どなったり嫌な思いをさせたりはしなかった。その中に私が見たものは、温かい大地の母の懐であり、天使の微笑みであり、花の精達のやさしい愛のささやきであった。
 それと同時に、私は春の柔らかい光の中に、永遠の母の微笑を見つけて限りなくうれしく自然に溶けこむことで満足していた。


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