私は独り暮らしで、もちろんテレビを見るし、公園でラジオ体操や、太極拳もする。読書もする。絵も描くが、観賞するほうが多い。私は悟っている訳ではないが独りで居て寂しいということがない。しかし、そういうことは口に出せば、人は不審そうな顔でみつめている。独りでは退屈だろうし、気が鬱いで落ち込むのが普通一般の感覚であろう。私は文学や芸術が好きである。そう云うと、ははん、一人よがりの自慢がはじまったとおもわれる。人に云うことではないと思っている。一般にいう読書がすきなのではない。彼らの生き方がすきなのである。彼らは私よりもっともっと寂しい境遇にいて不満を云わず生きていた、気高いというか、生命に満ちあふれた人生を生きていた。これは、宗教や、政治とは関係のない世界観なのである。まず、わたしはそんな男である。こういう類いの話しはこれでおわる。
今日は私の小学からの友人の手記を紹介したい。『私の花物語』というタイトルで、いままで誰にも見せた事がなかった。発表しようと思って書いたものではないという。懇請して私のブログに掲載することに了解を得た。
私の花物語 桜の舞
春は光とそよ風にのってやってくる。
目のさめるような鮮やかな若葉に、柔らかい春の陽がまぶしく透けて、そよ風が樹々の葉を揺らす頃、春はうらうらと、何かやるせない思いをかきたてられ、そのくせうきうきとこのうえもなく心ははずむ思いで、私は一年中で一番好きな花の季節を迎えた。
野も山も空も緑も、柔らかい春のうらら陽につつまれる光景はこの上なく私を満足させた。
春は私をやさしく包み、限りない喜びを運んでやって来た。春は私にとってただただうれしい季節であった。
光の中に私は春の天使を見つけていた。春の天使は、いつもやさしく明るく微笑んでやって来た。
春の天使は、淡い黄色やピンクの羽根をつけ、光とそよ風に乗ってフンワリフンワリとやって来て、花の周りや私の周りを飛びながら、色々な楽しい話しや歌を歌ってくれた。私は天使と一緒にいつも明るく春の歌を歌った。
春の小川は さらさら流れ
岸のスミレや レンゲの花に……
菜の花畑に 入り陽うすれ
見渡す山の端 霞深し……
桜の花の咲く頃は
うらら うららと陽はうらら……
春のうららの 墨田川
上り下りの 船人が…… 等々
春の天使や花の精達や小鳥と達私はいつも楽しく歌い笑い、戯れ、誰にもわかってもらえない子供なりの何かやるせない思いや淋しい思いを語り、癒されていた。
私にとって自然は大きな慰めであり救いであった。
今日は私の小学からの友人の手記を紹介したい。『私の花物語』というタイトルで、いままで誰にも見せた事がなかった。発表しようと思って書いたものではないという。懇請して私のブログに掲載することに了解を得た。
私の花物語 桜の舞
春は光とそよ風にのってやってくる。
目のさめるような鮮やかな若葉に、柔らかい春の陽がまぶしく透けて、そよ風が樹々の葉を揺らす頃、春はうらうらと、何かやるせない思いをかきたてられ、そのくせうきうきとこのうえもなく心ははずむ思いで、私は一年中で一番好きな花の季節を迎えた。
野も山も空も緑も、柔らかい春のうらら陽につつまれる光景はこの上なく私を満足させた。
春は私をやさしく包み、限りない喜びを運んでやって来た。春は私にとってただただうれしい季節であった。
光の中に私は春の天使を見つけていた。春の天使は、いつもやさしく明るく微笑んでやって来た。
春の天使は、淡い黄色やピンクの羽根をつけ、光とそよ風に乗ってフンワリフンワリとやって来て、花の周りや私の周りを飛びながら、色々な楽しい話しや歌を歌ってくれた。私は天使と一緒にいつも明るく春の歌を歌った。
春の小川は さらさら流れ
岸のスミレや レンゲの花に……
菜の花畑に 入り陽うすれ
見渡す山の端 霞深し……
桜の花の咲く頃は
うらら うららと陽はうらら……
春のうららの 墨田川
上り下りの 船人が…… 等々
春の天使や花の精達や小鳥と達私はいつも楽しく歌い笑い、戯れ、誰にもわかってもらえない子供なりの何かやるせない思いや淋しい思いを語り、癒されていた。
私にとって自然は大きな慰めであり救いであった。
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