昔、よく耳にした歌のフレーズだが、気が付くと、そういう日々を送る二人がわたしの身近にいたのです。
最近の言葉で、ジェンダーフリーと言えば、《社会的、文化的に成り立っている性差の克服をめざす考え》なそうですが、芸術家のあいだでは何千年も前からごく普通に存在した話です。彼等は高い精神性を有する人達ですから、とくに弁解や言い訳もせず一緒に暮らしたりします。ホモセクシァルとは又違うのです。
私の周辺に、日本を代表する思想家とそのお弟子さんがおります。そのお方とお弟子さんが、始発駅の新幹線ホームで、車内に先生夫妻、ホームに彼と私が見送りに立っていた時のことです。じっと、お互いの目を見つめ合って二十分もそのままでおられるのです。先生の奥様は、はんたい側の窓外に視線を投じています。傍で二人の様子を見ている私の方がうろたえるのですが、二人は、周囲にはとんちゃくしません。そのうち、二人の眼に熱いものが溢れだしました。車内にいる先生は、サングラスをしているのですが私には分かりました。羨ましい思いとか、いまいましい感情とかは有りません。ただ、当時は不可解でした、が私には分かる様になったのです。“love with soul”、これはギリシャ時代のソクラテスの頃には、あたりまえに通用していた愛の形と云っていいでしょう。お二人とも家庭をお持ちです。四十代の先生と弟子のNさんは二十四歳。それからずうっと、身は盛岡と美濃に離れても、心は離れるどころか、あらゆる通信手段を通じて連絡を取り指図を受け、其れに応え、四十五年後の現在は、反対に弟子が先生の身を案じて時には、叱ってでも投薬の実行を促しています。弟子は七十歳の今日まで、四十五年間に亘って、先生の原稿の清書やせんせいに関する一切の資料の整理と管理保存を黙々と行っています。
“愛、あなたと二人 夢、あなたと二人”とハミングをしながら、先生とお弟子はこの四十五年間を過ごしてきたのです。私達は、慣れっこになっているから、何も思わず、二人に言われるまま集まり、二人のたてたスケジュールに従って先生夫妻と再開を喜び、貴重な〝人生論〟や、〝反文明の哲学〟をはいちょうして、その夜は他のお弟子達のギター演奏、アコーデオン演奏を聴いて心を癒し、また熱いものを滾らせるのです。
事情があって、私が参加しなくなって何年にもなりますが、あの新幹線のホームで目にした光景は、男と男の否人間と人間の魂が反応する涙なのです。ソクラテスとその弟子たちも同じようにしていたはずです。「魂愛」は、知性と深い精神が奏でる音楽、そしダンス。フラメンコやワンステップダンスなのです。
男と女であっても同じでしょう。しかしそこには私達文明人間が知っている「性」はかならずしも、ないのです。
米の作家ノーマン・メーラーが『自分自身のための広告』のなかで、「二十一世紀まで解決されずに持ち越される哲学的課題があるとすれば、それは“性”である」と云っていたが、性だけなら、誰も予想もしなかったコペルニクス的転回を見せ解決ズミと観るのはわたしだけであろうか。それは、“愛”の間違いでなかったろうか。エクスタシーは魂の震えをいうのですが、クスリとも、セックスとも関係がないのです。Nさんが、四十五年も続けてこられたのは、何も見返りがなかったからかもしれないと私は思います。Nさんが、先生の何に魅せられたのかは分からなくていいでしょう。いいと思います。
公園のベンチにひっくり返りながら、私は色んな“妄想曲”を聴いています。お二人とも子供さんも孫さんも大勢おられます。おふたりの健康をいのります。そして、一層の長寿を。ブラボー‼
最近の言葉で、ジェンダーフリーと言えば、《社会的、文化的に成り立っている性差の克服をめざす考え》なそうですが、芸術家のあいだでは何千年も前からごく普通に存在した話です。彼等は高い精神性を有する人達ですから、とくに弁解や言い訳もせず一緒に暮らしたりします。ホモセクシァルとは又違うのです。
私の周辺に、日本を代表する思想家とそのお弟子さんがおります。そのお方とお弟子さんが、始発駅の新幹線ホームで、車内に先生夫妻、ホームに彼と私が見送りに立っていた時のことです。じっと、お互いの目を見つめ合って二十分もそのままでおられるのです。先生の奥様は、はんたい側の窓外に視線を投じています。傍で二人の様子を見ている私の方がうろたえるのですが、二人は、周囲にはとんちゃくしません。そのうち、二人の眼に熱いものが溢れだしました。車内にいる先生は、サングラスをしているのですが私には分かりました。羨ましい思いとか、いまいましい感情とかは有りません。ただ、当時は不可解でした、が私には分かる様になったのです。“love with soul”、これはギリシャ時代のソクラテスの頃には、あたりまえに通用していた愛の形と云っていいでしょう。お二人とも家庭をお持ちです。四十代の先生と弟子のNさんは二十四歳。それからずうっと、身は盛岡と美濃に離れても、心は離れるどころか、あらゆる通信手段を通じて連絡を取り指図を受け、其れに応え、四十五年後の現在は、反対に弟子が先生の身を案じて時には、叱ってでも投薬の実行を促しています。弟子は七十歳の今日まで、四十五年間に亘って、先生の原稿の清書やせんせいに関する一切の資料の整理と管理保存を黙々と行っています。
“愛、あなたと二人 夢、あなたと二人”とハミングをしながら、先生とお弟子はこの四十五年間を過ごしてきたのです。私達は、慣れっこになっているから、何も思わず、二人に言われるまま集まり、二人のたてたスケジュールに従って先生夫妻と再開を喜び、貴重な〝人生論〟や、〝反文明の哲学〟をはいちょうして、その夜は他のお弟子達のギター演奏、アコーデオン演奏を聴いて心を癒し、また熱いものを滾らせるのです。
事情があって、私が参加しなくなって何年にもなりますが、あの新幹線のホームで目にした光景は、男と男の否人間と人間の魂が反応する涙なのです。ソクラテスとその弟子たちも同じようにしていたはずです。「魂愛」は、知性と深い精神が奏でる音楽、そしダンス。フラメンコやワンステップダンスなのです。
男と女であっても同じでしょう。しかしそこには私達文明人間が知っている「性」はかならずしも、ないのです。
米の作家ノーマン・メーラーが『自分自身のための広告』のなかで、「二十一世紀まで解決されずに持ち越される哲学的課題があるとすれば、それは“性”である」と云っていたが、性だけなら、誰も予想もしなかったコペルニクス的転回を見せ解決ズミと観るのはわたしだけであろうか。それは、“愛”の間違いでなかったろうか。エクスタシーは魂の震えをいうのですが、クスリとも、セックスとも関係がないのです。Nさんが、四十五年も続けてこられたのは、何も見返りがなかったからかもしれないと私は思います。Nさんが、先生の何に魅せられたのかは分からなくていいでしょう。いいと思います。
公園のベンチにひっくり返りながら、私は色んな“妄想曲”を聴いています。お二人とも子供さんも孫さんも大勢おられます。おふたりの健康をいのります。そして、一層の長寿を。ブラボー‼
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