独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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自分の日常や、四十五年来の先生や友人達の作品を写真や文で紹介します。

其処に降り注ぐ     上野霄里 (令和を前にした平成末の書簡、その2)

2019-07-21 14:22:39 | 日記
  名久井様
 勝った試合や受かった試験からは、その人間の心や魂に響いたり、体の中の愛のメロディに、さほど本物の力を与えてくれないものだ———とたいていの心豊かな人物は云うものだ! 何か、ほんとうのもの、つまり、熱い愛や真白な心の言葉、赤く流れるような魂の歌がきこえてくる自分の体の中で、はっきりと何か大切なものを身に付けるはずだ! 勝ったり、会ったり、誉められたり、唯々喜ばれるだけの時、その人間は、今持っている僅かな大切な物さえ、むしろ無くすか、何処かに忘れてしまい、残念ながら、自分から手離してしまう結果となる。大切なのは、生きている自分の人生時間のまっただなかの、真実の生きた時間の中で、負け、失い、笑われ、悲し過ぎて一人泣きする時、何かしら自分にだけ必要な本物に出会う! 本当の愛、歌、力、生命の熱い力にぶつかるものだ! 老境とは、若い頃と違って、それが特別はっきりと現れることがある。私は考えている。人生ばんざい! 老境ばんざい! とにかく、人間、大万歳です! 生命よ! 負け犬の命よ! 糞だらけの馬鹿犬よ! 天の力は、其処に降り注ぐ! 人間誰しも、何時でも、何処でも、どんなに貧乏していても、負けていても、不合格でも、其処にこそ天来の魂の光が注ぎ込むのだ! 人生は、何かが弱い時、何かが弱っている時、苦しくて、悲しくて、泣いている時、雨の中でびしょびしょになりながら一人、親なし子のように佇んでいる時、天来の一発の雷鳴として、その小物の上に落ちて来る! 雨よ! 降れ! 雷鳴よ、鳴れ! 人間よ、一人、一人、大物になれ! 人間よ! 正しく生きている人間よ! どんな時にも、しっかりした自分に自信を持ち、全人類の見本となれている自分を誇れ! 人間の代表として誇れる自分自身であるために、自信を持って一番搾りの空気を吸い、一番搾りの水を飲み、一番搾りの陽の光を浴びよう! 自分の魂と骨と肉の中に、しっかりとした新軟骨成分をタップリと蓄えて毎日を生きていこう! 自分の言葉の中でロコモテーとなって働く命の力に、しっかりと頼って一分一秒を生きていこう! 文明の言葉から与えられている自分の知恵は、よく考えてみれば、もはや、自分自身ではとてもとても追跡不可能なほど、老いた自身から遠ざかっていることに気付いている。老いた私の手には、とてもとても近寄せないありとあらゆる文明の言葉よ! 老いの心が近寄れない程に、何かが違っている小知恵の文化よ! 余りにも微小で、老いた人間には、触ることも不可能な文化のあらゆる大きな、そして細かい力は、もう一度、一つ一つの微生物以下の小さい物として、まるで炭素が、土の中に完全に分解していくように溶けていき、温暖化の地球の全域を、元々の命の氷河期に戻さないと、人間は、生きていけない。文化の中で、文明の競争の中で、勝った勝ったと騒いでいる文明、文化は、その騒音の中から離れて、一人の静かな自分に戻らない限り、新しい頭と心を取り戻すことは出来ないだろう! 
 初めに、人間はじめ、けものや花が生まれ、そこから『声』が響いて来た! 声はけものから、人から、花や木から大きく響き出し、形となった。静かな木が響き出してきたのを初めて知った人間の一人が、あの老子だった。そこから声は形をつくり出して文字となった。亀甲文字などが、その中の一つだ。そこからフェニキア文字、漢字などが現れた。文字の源は、そうしてみると、もともと、漢字やその前の亀甲文字ではない。杉の木の匂いであったり、花の色とりどりの匂いであったようだ! 一人函谷関の彼方に旅立った老子は、やがて植物と会話が出来るようになった。ゾロアスターは火の中の炎と会話ができただろうし、天照大神は光の光りと話せたかも知れない。セックスなどについてもはやくに、こういう人達は大自然の中の何かと、会話が可能だったかも知れない。そのことについて、もっと詳しく、老子、荘子、ゾロアスター、天照大神などについても考えてみたい! 
 光の光りが声になるまでの長い時間が知りたい! 声が言葉になるまでの、更に長い長い時間の中で遊んでみたい! 語の源も、更には文字のそれも、それが少しでも分かれば、コダマの形や勢いも分かってくるでしょう! 野菜はたんに農家の限定品だけと云い切ってしまうのではいけないだろう! 世界中の、全人間の言葉に関する生命の研究の大切な研究材料であり、人間の生命の研究材料なのだ。漠然とした人間だけではなく、あらゆる生物の輪郭がはっきりし出したのは荘子、老子の生き方をとおしてからだろうか? 最近、写真俳句なるものを始める人が多くいるそうです! それなら、植物学的福祉とか、電気学的詩集、言葉の昆虫学などあっても良いのではないか?
 
 これも清書したら、皆さんに配ってください。   霄里  

放蕩息子の更なる告白  (百三十三話) 佐藤文郎

2019-07-20 10:13:35 | 日記
  闇と光
 光と闇でもよいのですが、光と闇は、いたる所で、勢力争いを演じていると思います。それも昔から、歴史的にもずっと以前から、地球規模で演じられて来たのです。そしてこれからも、決して無くならないでしょう。そのように一貫して自分の意見として云ってきた。自分の心の中も同じで、組んず解れつやりあっているのです。最近判った事は、その勢力がどちらかに偏らずにいるときはよいが、一方的に片寄ると、どうも調子が悪くなることがわかった。
 誰だって、光の当たる方がいいと思うに決まっている。しかし、文学を六十年もやってきて解った事は、文学は、闇を研究し、体験し、その奥にある光を発見する事だったのです、部屋一杯に光で溢れているだけだったら、不安でいたたまれなくなるだろう。
 それはともかくとして、その両陣営の争いは、個人の心の中はもちろん、家族の間でも、学校でも、町内や,会社でも国でも世界規模でも、表面はともかく、内部では闇と光が争っているのです。しかし、個人の心の中から判断する限りだが、どちら側か一方になるということはないのではないか、このアンバランスこそが、究極の結論ではないか。そう思ってみたくなる。でもそれはないだろう。どんなに、アンバランスで居心地がわるかろうと、心地よさを求めて勉強し、汗をかき、努力することが大切なのだろう。
 彼等は、バランスを突き崩し、落ちて行こうとするのはなぜだろう。とりあえず幸せでいようという気持ち、それがもっとも不安定な場所なのだが、みんなが、喜んでくれるから、不安な姿をみなくてすむから。
 だが、運命としか呼べない出来事に遭遇することがあるのです。私もそのクチでした。幼年期に、少年期に、思春期に、いずれも天地がひっくり返る様な目に合ったのです。そして人生の後半に、ぎゃふんとさせられる様なことを招いてしまった。普通はそこで息を引き取り、誰もが、こんどこそ、こいつは、これで終わりだったかと思われる。しかし私は、蘇生し、不思議にバランスが甦った気持ちがしているのです。そんな中、上野霄里先生のメッセージが、あの、「令和を前にした書簡(2)」が名久井先生によてもたらされました。この次に、掲載させて頂くことに、予定しています。

放蕩息子の更なる告白  (百三十二話)   佐藤文郎 

2019-07-14 13:24:31 | 日記
 「反社会勢力」ニュースで、思ったこと                                                                                                 

 「反社会性」という文章を書いたことがある。今問題になっているのは、「反社会勢力」という塊のことである。単体では勢力にはならないから、そういう称び方はされないだろう。不思議と若い頃から、自宅の近くにそういう人達がいたので、知っているが、ごく普通の姿をしており、頭もよく、人格者ではないかと思ったときも有ったが、ある時思っても見ない変わり様を見て驚いたことがある。しかしそういう時には必ず後ろ盾がいるのである。ひとりでは何もできない。頭が良いだけに自分が不利益をこうむる状況には聡いのである。
 「アウトロー」と「アウトサイダー」は違う。簡単に云うとアウトローは「法」を無視した行動をとる。アウトサイダーの方は、常識に反抗する。若い頃からなじんだ芸術や文学は、アウトサイダーものが多かった。映画だけは、だんぜん無法者や、ならず者が出て来るアウトローものが好きだった。やはり芸術や文学は個人である。私の好きな詩人や、作家、画家は反常識人ばかりである。
 常識というものはとても大事だということが判ってはきたが、反面、行き過ぎると黴が生えたり,錆び付いたり、人間が生きる上で大切にしなければならないものを、ダメにしてしまう。大切なものを気づかせてくれる心を失うようになってしまう。だから、わたしが怖れるのは、「アウトロー問題」で、大騒ぎしている時に、アウトサイダーの人達の大切な使命まで、一緒に扱われ、陰に隠れた良い人達ぶった本当に悪い連中の事が問われずに、うやむやにされてしまうことなのである。常識の陰で悪いことが行われていても、「私は、常識人ですよ、法は侵してませんよ」と地位や権力を利用して隠されてしまうことである。そういう人達も、以前なら少しは悪びれた様子をしたものだが、最近は、ふてきな笑みを浮かべ堂々としたものだ。黴がはえ、錆び付いているからでなければよいが。
 太極拳のほかに、書道教室にも通いだした。坂道を急いでいるつもりはない。「顔真卿」(唐時代の政治家)の書を見に、本州の端からやって来た友が云うには王羲之より素晴らしいという。そういわれても、その基本さえ小学程度である私には判別の能力は無い。ひょんな切掛けから始める事になった。どこかに、友の話しがあったからだろう。いまのところ、ただ夢中である。教室のみんなは、「枕草子」をやっているようだが、こちらは、基本のキからである。
 

一粒のダイヤの言葉   —令和を前にした平成末の書簡—  上野霄里

2019-05-15 09:52:22 | 日記
名久井先生!
 色々な心の暖まる大小の贈物、大箱いっぱい、とても、とても嬉しく頂きました! 一つ一つ、私の心と体と精神を熱くし、強め、涙を流させ、人生そのものとなり、動きを深く、大きく、そこに歌がいっぱいに大自然のメロディを高め、深々とあらゆるものに色をつけてくれています! 色の無い人生は、幾ら金銭があっても、名誉や肩書きが有っても、何かが、どこか死んでいます! 氷っています。そこに、命そのものの呼吸が無いのです! こんなに沢山の贈り物を前にして、私と私の妻が、心の中に、外に、はっきりと大合唱の歌声のような熱さや光、パワーを受けました! これが生きているという力そのものです! 燃えているという熱さそのものです。果てしなく、どこまでも、力一杯動く力(生命)そのものを実感します! 妻は一日、一粒ずつ美味しいおいしいとチョコレートを頂いています! 失禁など常にしていますが、実にニコニコと人生時間を嬉しそうに見ている妻は、とても幸せそうです。それを見ている私も、涙を流しながら、大いに喜び、笑っています! 人生時間というものは、何歳になっても、生き生きとしていますね! 一つ一つ、頂いた物は、大自然の大きな燃え盛る熱い火の様なもので、私は、その前でゾロアスターの様に、深くふかく頭を下げ続けています! 
 荘子は、その著書の「外篇」の中編で云っています。Aという人物が道について尋ねられると、答えられず、Bという人間は、返事をしてしまう。変事出来ないAの方が、実は物が判っていたと荘子は書いている。このところを正しく書くと、
  「无始日、道不可聞、聞而非也、見而非也、道不可言、言而非也」
 荘子という人物が、一人本当に居たかどうか、これも疑問です。恐らく当時の長い長い時代の中で、十人、百人、千人の心ある一人、一句でも何かとてつもなく大きく、本当の言葉を遺していたのかもしれません! それが、積もり積もって、一人の荘子という架空の人間の名言として中国の山の中に遺されたのかも知れません! 西洋、東洋、あらゆる処の心豊かな、ときたま名言を遺す人間が、一生に一度の一言(ひとこと)名言を遺したのかも知れません! その中にシャカもキリストもマホメットやゾロアスターも、人間の集団に上った魔女達の一言一言が入っていたかも知れません! 老子も荘子も天照大神も、あちこちに沢山いたかも知れません! 気ちがいとして、馬鹿な人間として、エジソンやアインシュタインのような人物として、若くて自殺してしまった何人かの詩人、作家、俳優、乞食なども、その中に入っています。人間、生きて百年近く動いているということは、何かの、一つ二つ名言を何処かにヘドのように、糞のように、涙のように、鼻クソのように、何処かに遺している筈です。本になり、銭になり、社会の名誉になる言葉など、何の意味もありません! 一人の人間を生かし、力強くし、自然全体の前で輝かせられるのは、その人の一生の間に一つ、又は二つ、小粒のダイヤモンドのように輝く、その人間のドロダラケの、また傷だらけの人生そのものの力にみちた手の平の上にポツリと置かれた小粒のダイヤの言葉、これこそ、その人間を、その周りに集まる人間を輝かせ、生かす、力一杯の光の光そのもののような存在です。一つの命を生み、泥の中から命を育て、一つ一つの力に満ちた言葉を生み出し、その命の中に、一つ、二つ、卓越する設問、又は天来の雷鳴のように轟く、どの人にとっても、一生の間、一度位は聴くことが必要です! 残念なことに、世界のあらゆる時代の人間は、そういったダイヤの小粒一粒のような言葉にぶつかっていません! 人生の大興奮の中に本当の言葉又は本当の神霊の宝くじに当たった人は、まず皆無です。悲しいことです! 人間は、一人、一人、何時の時代にも、悲しいことに不的確で、不適当な言葉と愛と光の時代に生まれています。どんな大地に生まれ、住んでいようとも、そこで自分の生命を力一杯燃やし、自分の命を燃やし、荒れた大地を耕していかなければならなかった筈です。私達は、何とか一粒、二粒のダイヤのような言葉をみつけ、それによって大自然の荒れ地を耕し、愛と夢を大きく広げ、そこを何処までも、何処までも走り続けたいものです! 地球上は、言葉や愛、平和というものに群がる中で、大自然を壊し、かつて山の中や河の畔の野蛮な人間が伸び伸びと、平和そのままの中で、貧しく、慎ましく、持っていた、想像をはるかに越えた平和体感を、どうして今日のような人間社会の恐怖体感に変えてしまったのでしょう! 人間は、この社会の中の物事に心動かされることなく、もっともっと感性深く、心深く、魂の探索につとめて生きていきたいものです! 社会的な愛情を遥かに越えて、生き生きした、本来の森の中のそのままの人間———言葉もつかわなかった人間の頃の動画そのものだった時代の愛で、男女が、花と花が、魚と魚が、鳥と鳥が、星と星がつながっていきたい! 文化文明の社会の中で、 人間の情報量は大きく増えてきています。それによって愛も、力も優しさも、段々と増えていくどころか、小さくなってきました! 綿密な深さの愛も、綿密な物の考え方も少しずつ減ってきています! 人間も獣も、虫や草花でさえ、それぞれに持っている様々の、大なり小なりの感性、または心といったもの、それぞれの甘さ苦さ、愛や痛みを感じる思いには深化、広さ、リズムなどの度合がみられなくてはならない。人間の心と体の中の愛という感性の深化によって、これを計ってみたい。 僧衣を身にまとっている鬼もいれば、悪魔の姿でどこまでも優しく平和な者もいる。此の世の中は、様々な動画から出来ている。ありとあらゆる大小様々な強かったり弱かったりする生命は土壌と水分の力と云うか、そこに巻き込まれて、太陽の光の中で失って行く。本来の土の力や水の力を回復し、元の生命力(命)を回復すると元の、状態に戻る。生命力の元は土だ、水だ! 土や水を渇かしてしまう太陽からの光線も、それなりに、生命回復の馬力になってはいるが。人間は小利口なせいか、土と水の混じったドロドロな渦巻きの力の中で、それをそのまま神聖化しないで、いわゆる文明、文化の中に、じっと見続け、土や水のドロドロでグタグタの状態をそのまま文明の名の下で精査し、文化の仕組みの中で聖域化しようとしている。平成、そして令和のこの時代、それはどこまでもつづいている。私達は、時代というものを、もっと正しく、厳しく、愛深く精査してたちむかっていかねばならない!
  平成三十一年四月二十四日
                         上野霄里
 名久井良明先生

P.S これを正しく書き改め、文郎さん、古賀先生、伊藤さん、津田君、西の
  二人、その他に送って下さい。
   私達は、人間そのものとしては、最近大分あちこちが壊れてきています!
   言葉、一つ一つが、錆び付き、折れ曲がり、匂いまでが変です!
   それでも愛や平和、怒りは、少しは生きています‼
 
 
         ❖勝ち組の人生の女
 鈴木晶子さん
  過日は、わざわざお出下さって有り難う! 是非是非又時間を作って訪ねて来て下さい! 云ってみれば、私達の住まいは、ただの森の中の寂しい一軒家であり、静かに水の流れる小川の畔です。どこまでも楽々と生ていける果てしない時間の広がりの中の、美しい荒れ地です。おおらかに、ゆっくりと、それでいて力一杯走りましょう! 自分の心に忠実に魂の道を歩きましょう! 
 こんな汚い所ですが、また訪ねて来て下さい!
 華やかな、私達の人生、バンザイ!
 貴女の女の人生 どこまでも美しく、更に優しく燃え、楽しく燃えて下さい!

 勝ち組の人生の女であれ!
      平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里

         ❖シベリヤ鉄道の中で

 岩間けい子様
 この間は、わざわざ私達二人を訪ねて下さって本当にありがとう! 岩間先生にも、くれぐれも宜しく! 私達がまだ元気な頃、先生は遥かシベリヤ鉄道の中で読んでくれていた私の『単細胞的思考』のこと、長々と手紙に送って下さいました。それからも、まるで、古い辞書の様になるまで読んでいてくれたことを、嬉しく書いて送ってくれました。
 先生が、遥々、アルプスの村で手に入れてくれた太いバラの根で作られたパイプ、私に贈られましたが、今では、東京で長男が使っています。彼は今、法政大学で教えています。
 先生、益々元気で、長生きして下さい! 私も力一杯、自分の人生を楽しく、嬉しく、面白く、美味しく、明るく、それでいてどこか真面目で、慎ましく、本当の自分らしく生き果たしていきたいです! すべて、何でも、間違いなく揃い、それを使って生きられる人生の中心に於いて、負け組であるようで、実は勝ち組の人間として生き果たしたいものです! 人生万才! 限り無く万才!
       平成三十一年四月二十四日
                       上野霄里
※合わせて千通以上はあるとみられる、待望の米文豪ヘンリー・ミラ—(1891〜1980)「北回帰線」「南回帰線」「プレクサス」など、と上野霄里先生の往復書簡集の刊行ですが、その予定さえ聞こえては来ません。先生の固い意思と伝えられている、この世紀をまたぐ「文学的事件」を引き続き注視していきたいと思います。(編)

放蕩息子の更なる告白(百三十一話)Ⅳ  佐藤文郎

2019-05-11 17:33:51 | 日記
 Hさんは二廻りほど私より年齢が若い。校正もそうだが、校閲にむしろ厳しい。私が以前書いた「『自然とカミ』序」という文章が有るが、それの“カミ”に食らいついたことがあった。これは「いけない」というのである。ゴットならいいが“カミ”はいけないと言って、めずらしく感情をたかぶらせたことがあった。
 私はどちらでも良いような気がしたが、いざとなったら、“ゴット”も“God”もだめで“神”はもっといけない。そんな気持ちになる自分に驚いたぐらいだった。深い考えもなく“カミ”としたように思いたいが、彼のクレーム(異議)で、あらためて“カミ”しかないと思った。
 私は、五つほどの宗教に出入りした不信心ものである。若いころは特に、誘われれば付いて行くのである。そうやって上野先生にも、あの「女上野」と私が命名した(この事に就いては『放蕩息子の告白・後編』に書くつもりである)宗教の女性にも付いていった。しかし、しばらく経つと、どうしても許容できない場面にぶつかるのである。いや、思うのではない、それ以前というか寸前に、本能的にかんぬきのようなものが掛かるのである。
 青森市内で、小さいがフランチャイズの呉服業を営んだ。博多の大株主にいわれるまま法人にし、代表になった。日々の訪問販売や、一年に一度、二度の展示会を開いた。厳しかったが、東北ではどこの店にも負けなかった。展示会の売り上げは二日で三千万を下らなかった。
 しかし三年目の暮れに、大株主と対立し身を引いた。家族を置き、一時大株主の経営する名古屋の会社で運転手をしていたが、「アルバイトニュース」の情報から、新聞販売店に入り、やがて,岩倉市の老舗の販売店に転職し、朝夕刊の配達、集金、営業をするようになった。
 ある朝である。いつものように日の出を迎えていた。私は立ちすくんでいた。涙がにじんでいたが,心では,もっと泣いていた。原因はわからない。感謝という言葉が、漢字が浮かんだ。そのあとは、有り難い、という気持ちがわき上がってきて身ぐるみその感情に包み込まれた。「太陽」という事は知っているが、その言葉の前は「原始太陽」である。それも言葉である。その言葉の以前にもこの存在を見ていた人達がいた。頭を下げたり、掌を合わせたりしただろう。
 1985年の事であった。何日間かしてあの文章ができた。この文章の最後の言葉が,最初に浮かんだ言葉だった。『太初(はじめ)に愛があった 愛はカミと偕(とも)にあった 愛はカミだった』。ヨハネ福音書では『太初に言葉があった 言葉は神と偕にあった 言葉は神だった』である。私は,持っている語彙も少ないので、舌ったらずなので、何でも利用してしまう。持ち合わせの言葉で、その時の感情を精一杯、表しただけなのだ。愛という感情は、何処の国も共通する物である。H氏のいうことは間違ってはいない。神と書いても、神道と、キリスト教と、またイスラム教は異なるのだ。私がカミと書いて,特別その意義を述べる訳でもない。「こんないい加減なものはない」と思ったとしても不思議は無い。
 あの文章を書いたその時受けた霊感のままの偽らざる気持ちなのである。それが、私の身体や精神を貫く心棒である。心棒はゆらぐことはない。心棒が出来ないうちは、ぐらぐらと、クラゲのように方向も定まらず波間を漂うだけの信念クラゲであったが、今は理念や雑念は必要なく、動じないという意思さえ無い心棒となった。
 子供のころから、祖父、父,母、姉、私と一列に並び、始めに、恵比寿様、神棚、そして仏壇と、順々に手を合わせる仕来りだった。正月二日は御恵比寿様に、鮒を上げる習わしだった。鮒と言えば、私が小学二年の頃、鮒を捕って来て、母に見せた。母を喜ばせたかった。「よく捕まえたね」とか、「ずい分大きい鮒だ」とかいって褒めてもらいたかった。しかし、いつまでたっても、唯見ているだけだった。鶏だって、見ている前で、「ここは心臓、これが肝臓、ここは食べられない」と言いながら,あっという間に下ろしてしまう人だった。今思うに、恵比寿様に鮒を用意するのは母の役目で有った。じっと眺めて,私が遊びに気が向いていなくなるのを待ったのかもしれない。
 エホバの証人の方でも、他の宗教のかたも、熱心に戸別訪問をされている。公園でお話した事も有るし、茶店でお話しする事もある。最後に心棒の話をする。勧めたりはしない。彼の人達の信念は、また心棒はゆらぐことはない。H氏に“カミ”はいけないと言われ、自分では何でもよいと思い、書き換えようと試みたが“神”ではない、“God”でも“ゴッド”でもない。“ない”と、自分の中で拒否するのである。文章は拙いが、どの一字も変更は出来ないと,あらためて気づいたのである。思っているだけではだめで、文に定着させて、ゆるぎないものとなっていた。
 お話かわって、上野霄里先生の一番弟子である名久井良明先生から、上野先生からのお便りが届いたと、そのコピーが送られて来ました。とくに、私のブログに掲載してほしいという依頼原稿ではないのですが、おそらく先日の、[万葉讃歌]の文章の中に、上野先生のお便りを引用したさせて頂きましたが、日付に年号を付さなかったので、それを明確にするようにとの意向をくみとることが出来ました。この一年以上全くお便りはなかったし、私はと言えば電話でばかりでしたから、横着をしてしまいました。私は手紙が苦手で、何を書こうかと信号を見落としたり標識を見誤ったりで、あとでもめ事の種になりかねません。電話ならまちがいがないという安心が有ります。直に向かい合っての会話ならもっと安心ですし、特に,上野先生とは、何にも代え難いひと時として待ち望んでいることなのです。私は先生の声が良いので、若い頃から、落ち着いたバリトンのその声に励まされて辛いときも乗り越えて来ました。鼻髭を指先で触れながら目を細めた笑顔になり、やがて大きな口を一杯に開け、喉の奥まで見せながら,声は立てずに、呼吸は止めたまま、しばらく、笑い切った様にそのままでおり、抑揚をつけたうーん、うーんとか、三四回つづけ、感嘆符で落ち着くのです。
 しかし,こういう事が有って、先生のお手紙を,しかも長文の感動的なお便りを拝見する事が出来ました。令和の上野霄里先生です。厳密には、令和元年を数日後に控えた先生のお手紙を、この後公開致す事にします。ご期待下さい。