独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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自分の日常や、四十五年来の先生や友人達の作品を写真や文で紹介します。

放蕩息子の更なる告白 (百三十八話)   佐藤文郎

2019-09-19 23:53:47 | 日記
 タマシイの宝庫ですぞ

〘梁山泊〙主宰の、名久井良明先生からのお便りの中に、まぎれ込むように上野霄里先生宛ての、H・ミラ—について書かれたアメリカ人の手紙がありました。これは貴重なものだと思いました。『H・ミラー、上野霄里往復書簡集』の上梓が今は望めないと分かっている。完全に諦めては居ないが先生の御意志はそうとう固そうなのだ。上野霄里著『単細胞的思考』は丁度五十年前に発刊を見、全国の書店で発売された。いまも、ネット販売されているし、都内中野区にある『明窓出版株式会社』から平成十四年に復刻出版さている。著者の上野霄里先生には勿論、著書そのものに惚れ込んだ社長増本氏自らが懇願して実現したものだった。知性圏を戦慄させた【禁書】、著者は隠者か、極悪人か! と帯に謳っている。しかし現代ではそのハードさも、かなり普通さに変わって来ているかも知れない。ただそのH・ミラーとの書簡であるが、ハードとかソフトとかいう観点からではなく、上野霄里先生自身の自己革命の真直中での出来事だった。牧師という上着だけではない,内部の“カミシモ”をかなぐり捨て、毎日を家族と共に生きていく元牧師先生となって、山の中に入っていった訳ではなかった。昨日と同じ暮らしを、人の目や耳や、日常の地続きの中での今まで以上に厳しい暮らしである。奥さんが用意する新聞に挟まってくる広告紙をB5の大きさに切って急いで用意しなければならない。先生は猛烈なスピードで書きまくるからである。まるで編集者が先生のものは売れに売れて、上司からどやされて、大勢が顔を上気させて詰めかけて来ているみたいだ。実情は、その逆である。誰も来ないし、誰も知らない。売るとか、出版とかは今子奥様は一度も耳にした事はない。毎日二十枚の広告紙に書いた原稿を読んで聞かせてくれるだけである。これが、いつしか『単細胞的思考』と呼ぶ様になった日記。
 ある日、アメリカの文豪であるヘンリー・ミラーから手紙が舞い込んだ。先生がミラーの著作を読んで、その感想を送った返事がきたのである。「君は私の本を読んでセックス描写が多いが何故かと訊ねて来たが、私の全著作を読んだのか。君の云う描写の部分は十パーセントもないだろうよ」と。(これは,上野先生からの聞き書きである)。上野先生は原書もふくめて、手に入るものことごとく読破し、それを機にミラーとの文通が始まったという。
 このように「単細胞的思考」という手記と併記されるかたちで数十年にわたって行われた“文通というドキュメンタリー”を誰もが、ましてや『単細胞的思考』を通読された方はなおさら読みたいと思う筈です。
 「佐藤さん、私が管理しているので大丈夫ですよ」と仰っていた今子奥様。しばらくして、ある日、先生と電話で話している時、その件に及ぶと、厳しい口調になり、「私が死んでからにしましょう」と言われた。増本社長もいっしょでしたが、二人で頷く他はなかった。「よきにはからえ」と、たいがいの事に対してOKを出す先生でしたから、一度拒絶反応を示されるとどうにもならないと思うのでした。
 次に、冒頭に記した、アメリカの方の、H・ミラーと上野霄里先生に関して書かれたお手紙を紹介致します。第三者によって二人の文通が証明された初めての物です。1966年〜1980年の間、一千通以上と言われるお互いに交わされた信書の存在。タマシイの宝庫と言わないで何と言いましょう。その中の一通について書かれているのです。
                  1997.1.31(平成9年)
 上野霄里様
 突然、貴方の許可を頂こうと、このような手紙をさしあげること、お許し下さい。
 巨大なピアニストであった亡父、ヤコブ ギンペルは、ヘンリー ミラーと深い交友関係にありました。そういった二人の文通の合間に、ミラーは父に、彼が貴方に宛て書かれた手紙のコピーを渡したことがあります。その手紙の日付は1966年5月23日となっており、その中でミラーは、音楽に対する熱い思いと、音楽に対して抱いていた彼自身の認識論に関して述べているのです。亡父の持っていた書類の中から、このコピーをみつけ、これを『ミラー・キンベル書簡集』に入れたいと思ったのですが勿論、貴方の許可を頂くことなく、これを出すような事はしたくありません。是非頂きたいのです勿論、この本の出版の暁には一冊、そちらに送らせて頂きます。カルフォルニヤ大学のロスアンゼルス分校にある、ミラー文学コーナーでミラーファイルを探して貴方の住所を知りました。例のミラーの手紙を貴方に送りたいと思っていましたが、貴方とミラーとの文通の時代が余りにも前のことでもあるので、一度、貴方にお伺いを立ててからの方が良いとも考えたのです。
 ミラーは亡父に宛てた手紙の中で、貴方のことをひどく尊敬し、暖かい念いで書いています。
 貴方と貴方のご家族の健康を願いつつ……
   心を込めて
               ピーター ギンペル

  放蕩息子の更なる告白 (百三十七話)  佐藤文郎

2019-08-23 13:39:59 | 日記
 ⦅21世紀のポエジー⦆
  ———ひとりの老いし、日本国民として———

 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領にとって、北朝鮮という国土は、恋人なのです。ずうっと心にしまっておいた“初恋の人”なのです。それに対して日本は、彼にとっては広く承認されている女友達なのです。友情としても経済やその他の面でも、このJ嬢とは深い関係をつづけてきたのだし、このまま行けばよいのですが、なにせ長年の奇蹟の様な夢、誰にも言わずこころの奥底の初恋のひとと一緒になれるというウソのような事が実現するかも知れない。そういう時に、へんな噂や、よけいな誤解をまねくようことは、さけなければならないのです。女友達には、これまた女ボスのA嬢がいます。怒らせたら、すべてをご破算にしかねないこのA嬢に対して、J嬢共々服従を誓い合ってきた仲なのだが、ある日、このA嬢がどうやら“心の恋人”に気が付き、理解さえ示している様だということが分かったのだ。ボスが理解をしてくれたのなら、あとは、深情けのJ嬢を、正面からはとうてい説得できそうもないから、J嬢の方から離れて行くようにする。軽蔑して見限ってくれるような、心理的にも混乱するような材料を効果的に打ち込んでいくしかなかった。
 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領としても、長年の友情で結ばれた女友達を、こんな悲しい目に遇わせるのは忍びなかったが、背に腹は代えられなかったのだ。それほどに、幼い頃からの一途な真実の想いなのである。何ものにも、何事にも代えられぬことなのである。毎夜、毎夜枕を涙で濡らし、思いをめぐらし、人が知ったら不審に思うだろう、人が見たら軽蔑するだろう、しかし気持ちはそれとは反対に、恋人の面影はますます膨らみ、心の鐘は鳴りやまないようになっていった。
 心を鬼にして、チョウヨウコウとか、キョクジツキのこととか、ショウカイキレーダーショウシャの問題とか、最後にこれでもかと、ジーソミアをどかんとぶっ放した。貴女が悪いからと言い張り、しつこすぎるからとうそぶいて、怒る様に仕向けたのだった。それもこれも、幼い頃に出逢った恋人のためだった。はじめは小さな灯火だったが、今では火山ほどに、爆発寸前になっているのだった。
 J嬢には、何度もこころのなかで謝っている。A嬢には、むしろ聞こえる様に感謝の言葉を叫んで来た。初恋の人と結婚ができる、もう夢ではないと!
 韓国文在寅(ムンジェイン)大統領が、初めは、たったひとりで育んでいた、命がけの恋でしたから、たった一人で育んで来て、最初の頃は見果てぬ夢でしたが、思っても見なかった好事がつぎつぎに起きて、条件的にも、自分の想いが通じたのか! あとのこるは、隣国のJ嬢だけであった。“悪女の深情”と、そんなイメージを固着観念にして、目をつぶって思い出深いJ嬢と縁を切る事にしたのだった。後は野となれ山となれ———この一途な恋の路!

放蕩息子の更なる告白 (百三十六話)     佐藤文郎

2019-08-21 13:52:50 | 日記
   因果関係 

 水難事故が多い。私も川や海ではなかったが溺れ死ぬ寸前だった 
 “ボウフラ”の浮いているドラム缶、(戦時中,消火用に水の入ったドラム缶が、そこは仙台市で、レンガ造りの高裁が目の前に見える、道端に埋めてあった)。四歳の私は伸び上がる様にして、ボウフラがウヨウヨ泳ぎ廻っているのを近所の子供達と見ていた。そして私は、もっと良く見ようとジャンプして水面に顔を近づけようとするとバランスを失い落ちてしまい、夢中でもがき苦しんだのを憶えている。あと数秒で溺れ死んでいたろう。水も一杯吞み込んだ。
 それと、腸チフスに罹り九死に一生を得たこと、この二つの事象の因果関係を知っているのは、私一人だけであるということ。しかも、気が付いたのは半世紀もたった頃、偶然気がついたのである。
 にょっきりとドラム缶から出ている子供の足を、通りかかった牛乳屋の小母さんが見つけて引き上げた。そして、ずぶ濡れになって泣いている私を家に連れて行き、ドラム缶に落ちた事、もがいている二本の足を持ち上げた事を、ばあさんと母に説明した。すると、何事にも動じないばあさんは、母に「はい、すぐ砂糖湯をつくって飲ませなさい」と言った。この断片的な記憶は鮮明である。とくにばあさんが、砂糖湯を、と言っている姿は脳裏に焼き付いている。ドラム缶の汚水の中に、ボウフラが浮いていた事など牛乳屋の小母さんも、ばあさんも,母も、知らない。それどころか、私自身忘れていたのである。母の話だと黒い幌付きの車に、母と私が載って病院にゆき隔離されたと。一つ上の姉の話では、病院には入れず、ばあさんと二人で外から手を振ったと言った。おそらく姉も検査を受け、家も消毒された筈である。なにせ、私の中で鮮明になったのは、ばあさんは勿論,母も他界してからである。それにしても近所の目もあったろうに、腸チフス患者が出たこと。その原因も判明しないまま、どういう結論に至ったのだろう。現代では考えられない。戦後の食糧難の頃でもあるまいし、戦地から父が帰還して、この腸チフスのことが、話題にのぼった事も一度もないなんて。入院してからの事はよく憶えている。四十度の熱が十日間続いたそうである。熱にウナされ、看護婦さんや白衣の先生が、心配そうに何度も覗きに来たのを憶えている。「何号室の人が亡くなった」と噂しているのを聞いたこともある。深夜に、母が廊下のむこうで氷を砕いているのも耳をすまして聴いていた。快方にむかい、二日後に退院という日が来た。
 親切な看護婦さんが居た。私を抱っこして看護婦室に連れて行った、お菓子を、一個ではなかったが、三分の一ほど食べさせてくれた。その後のことも良く憶えているが、その午後だったろうか、トイレに連れて行かれて出たうんこが真っ黒だった。イカの墨のようだった。大騒ぎになった。その後の事は母に聴いたのだったと思う。婦長さんの指示で医師には言わない事にして、うんこの黒いなかにマッチ棒の先ぐらいの黄色い部分が有り、そこを最終検査に出した。そうして、退院許可が下りたそうである。
 看護婦さんは、どれほど嬉しかったろう。抱っこして何度も頬を押しあてた。
 ボウフラの浮くドラム缶に落ちた事故と、腸チフスで隔離入院したことが私の中で、その因果関係に疑いが芽吹き、確信に変わったのは六十歳の後半になった頃である。姉はまだ健在だが、あとは誰もいなくなっていた。
 別の話だが、つい最近、「伊達家の黒箱」が仙台の伊達家資料館に展示されていることを知らせてくれた人がいた。直接私に関係はないのだが、私は、何となくそういう事を予想したように、以前「放蕩息子の更なる告白」(六十五話)として、母方の刈谷半右衛門伯父の「我が家の記録」の一部をとりあげさせてもらった。東京帝国大学に調査研究の依頼を受けて貸し出している最中、大震災の難に遭ったという。大槻文彦博士の鑑定を乞うたわけではないのに、聞きつけて博士の方からの訪問だった。博士には、伊達騒動の事を書いた著書があり、黒箱の資料には新たな事実があったからだ。
 また、〘大正天皇、東北ご巡幸のみぎり、盛岡にて天覧を、仰ぎ後大正七年文献の資料にと、東京帝国大学〙へとなり、大正天皇への天覧は、建前であり、刈谷家からまず宝物をひっぱり出す事であり、後は何とでもなると暗躍組は分かっていた。五年間も返さなかったのだから、震災があっても無くても、返すつもりはなかったと思う。地位も名誉もある人品骨柄申し分無い人達が、中間に何人もの古物商や骨董屋をかいして、最後に現在の伊達家当主に連絡したはずである。東京帝国大学になど最初から行っていないのではないか。公序良俗を掲げ、表を柔和で装いながら悪を行い、自分にも、ひとにも、そのことを気づかせないですまして終えるのである。【伊達家の黒箱】は旧伊達藩、現在、岩手県内に在住する刈谷家のものである。大正天皇に天覧を仰いだあと、その同じ人達が再訪問すると、うやうやしく、当家の名誉とやらをちらつかせながら、東京帝国大学への調査研究を依頼した。

放蕩息子の更なる告白  (百三十五話)  佐藤文郎

2019-08-08 17:18:36 | 日記
  この胸苦しさを、科学は

 盛夏にふさわしい話をと思いますが、さてどうでしょうか。涼風が何処からともなく吹いて来て、背筋がゾクっとしていただく、そうなればと思います。“思います”という日本語を嫌いな方がおられます。元NHKアナウンサーの方で世界情勢や国際問題をお話させたら、先ずこの先生が一番でしょう。この先生がご自分で仰っているのを私はTVで観たのでした。どうして嫌いかを最近になって分かって来たのですが、それは、お話の性格上客観性を重視するからでしょう。“私は思う”は主観ですからね。番組が成立しなくなりますからね。ごもっともです。
 反対に、黒板に大書した“思う”という日本語がいかに素晴らしいかを、玉川大学の夏期スクーリングでの「宗教哲学」の講座で、当時の小原国芳学長が一時間に亘ってのお話を聴講したことがあります。なんとも、天衣無縫といった感じのする貴重な授業でした。
 同じ頃、昭和四十一年の事です。岩手県にある僻地三級の分校で助教諭をしていた時のことです。又話が横道にそれますが、教師を辞めて職を転々とかえたわけですが、ある所で私は履歴書に、“代用教員”と書いて面接官に注意を受けました。信憑性さえ疑われる所でした。代用教員の方が私にとっては実感のもてる呼称だったのです。その分校での出来事です。私は深夜に、エも言われぬ胸苦しさに目覚めました。気が付くと、開け放たれた窓辺に妻が居て、「お祖父さんの夢をみた…」と言って、ぼんやりと、真っ暗な外を見ているのでした。そうしているところに、電話が鳴ったのです。電話は教員住宅には無く、職員室にあるのでした。
 妻は、息急き切ってもどってきて、祖父の急死を告げたのです。私達の結婚に最後まで反対していた祖父の死も然る事ながら、今さっき目の前に起きた不可思議さを思い、しばらく呆然と立ち尽くしていました。
 先祖の墓参りは、この二十年で一度だけ行きました。その時やはり不可思議な事がありました。墓地に近づくと鼻水が出始め、それが止まらなくなったのです。手持ちのテッシュを使い果たし、兄弟達からももらい、それでも足りず付近に自生しているふきの葉や、笹の葉でぬぐったりしました。それが墓地から離れるまでつづいたのです。離れると、ぴたりと出なくなりました。他の兄弟姉妹達は何事も起こらないということは、今日の私が置かれている情況を物語っていると考えていいでしょう。
 ところで、冗談ではありませんよ。今,これを書いている時、急に鼻水が出て来たでは有りませんか! 風邪も引いていないし、お盆が近いので、お迎えにきたのでしょうか。今、三度目擤みおえました。
 トマス・ウルフという米の作家に「汝再び故郷に帰れず」そして、「天使よ、故郷を見よ」という作品があったことを思い出した。このタイトルが好きなだけであるが。こんなことを思い出させたのも鼻水と関係があるのだろうか。
 まともに幽霊というものに出遭った事がある。実際にあった話である。一度話をした事のある実話である。
 呉服の商売で、浜松の出張所に、販売の応援に行ったときの事である。その日は、かなり売上げの成果があったので、所長も「面白い場所がありますよ、行きませんか」と上機嫌だった。私は疲れたからと断ると、「では、いいフィルムがあるので、今夜出直して来ます」というのだ。私は「風呂に入って、早く横になりたいから」と言ってそれもことわると残念そうに帰って行った。
 私が風呂から出て二階に行き豆電球にして、枕に頭を着けた直後に、階下の店舗のシャッターがギィー、と開き始めた。「なんだよォ、」と不満を口にした。階段をトントントンと昇る足音と同時に、シャッターは開けっ放しなのか、風がピューと吹き上げて来ていた。「なんだよォ、あれ程言っておいたのに……」と、半身を起こして大声で言おうとしたが声にならないのだ。起こしたつもりの体も、金縛りにあったように動かなかった。目だけ大きく見開き昇って来ている者を見ていた。ふわりっと現れたものは、茶色の男物の羽織を着ていた。羽織の紐の垂れた胸元しか見えなかった。顔も、下半身も見えなかったが、気配だけは感じられた。その気配が、すうーっと部屋に入り込んだのは判った。その時の恐ろしさといったらなかった。私は、亀の子の様に首をちぢめて、布団の中でじっとしていた。そのまま朝を迎えていた。所長も出勤して来た。「佐藤さんが、すぐ御休みになるとおっしゃるから、わたしも一杯引っ掛けて寝ちゃいましたよ」と言った。
 私は部屋の隅々まで何か痕跡はないかと調べた。近所の商店が開くのを待って、どういう人があの二階に住んでいたのかを聞いてまわった。ヤクザ者がかなり前に居たことがあったという。しかしそれがどう拘わりがあるのかは全く解らなかった


放蕩息子の更なる告白   (百三十四話)  佐藤文郎

2019-07-29 13:43:07 | 日記
“本が読まれない”という感想を書いたのが、ちょうど一年前になる。私にすれば、文学書が読まれないという意味で書いたのである。しかし、書店がいつの間にか模様替えをしたり、店じまいをしたりという光景も目にする様になった。文学部に学ぶ女子大生が、森鴎外という作家を知らない、という逸話は有名であり、何十年も前から言われていたことだ。楽しい遊びや話題や、それだけでなく、専門外でも、情報量の多さにてんてこ舞いと言う所なのかも知れない。
 話は全く変わるが、我が家では、子供達にたいする教育は徹底していた。「お父さんの様になるから本を読んではいけませんよ」というのである。それに対してお父さんは、一言もなかった。仕事にかまけ、家庭を顧みない、しかし、本だけは増えていく。引っ越し話がとつぜんもちあがり、しかも必ず遠方であったので、ささやかな妻の蓄えもその度に消えてしまい、大袈裟だが、その元凶こそ、役立たずの“ゾウショ”だったからだ。本人は全国を放浪したと言っているが、本人を追いかけてごっそりと、ダンボールの小山が送り届けられるのである。送る身になればたまったものではない。そうして、結局、仕舞いはちりぢりばらばらである。
 「世をすてて知られることがなくても悔いのないのが学問である。」という言葉を遺している李贄(りし)という儒者が中国にいる。放浪したあとこんどこそは、老妻の下に帰るだろうと誰もが思った。だが、反対に遠く離れた所にいき一生を終えた。こういう男の書いたものを読んで、何を得たかと問われても何もないし、迷いが深くなったと言えないこともない。女子大生の逸話も、彼女の言い分はあるだろう。あって当然である。
 数日前「愛菜の本棚」という本が紹介されていた。うむッ、と私はたちどまった。芥川龍之介と太宰治とどちらが好きですか、と問われた十四歳の作者は、一拍半おいた後、「芥川龍之介です」と答えた。知性的な顔がすてきだった。すてき、という言い方は平凡過ぎるが、知性美をどんな栄養分が育んだのだろうと本を読んでみたくなり、書店に出向き注文した。二週間はかかると云う。「この分では、出版社も品切れ状態ではないか」と受け答えする女店員の声も弾んでいた。