須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

甲斐山中の微笑仏へ text 96

2007-04-13 03:04:18 | text
4月中旬近くの葉桜の季節、ふと思い立って甲斐山中の木喰(もくじき)仏(微笑仏)を見るために、リュックを背負って出かけた。大磯駅→熱海駅→富士駅とJR東海道線、そして富士駅からJR身延線に乗り換えて市ノ瀬駅へ。市ノ瀬駅からは徒歩で「木喰の里・微笑館」へという、何ともスローな旅だった。スピード万能の世の中に、オール鈍行と徒歩というのも、たいそう珍しい。市ノ瀬駅が無人駅であることを知らずに降りたら、車掌が私のところに来て、切符を貰いたいという。じつは「スイカ」で大磯駅の改札を通ったから、切符は持ち合わせていない。そこで、その車掌によるアナログ清算を行った。電車から降りる時は、自分でボタンを押してドアを開けるというレトロな仕組みで、非常にびっくりした。もちろん降りたのは私一人だけである。美しい鶯の声が、しばし私を歓迎してくれた。

市ノ瀬駅から国道300号線に出て、長塩トンネルと木喰トンネルを抜けて、道の駅「しもべ」へ。その少し手前の細く急峻な山道を、息を切らしながら、ひたすら登り続ける。薄く煙る甲斐の緑、ところどころに咲く山桜、そして鶯の声などが、私を慰めてくれる。大磯駅からの所要時間は約4時間半。山登りだけでも、1時間近くかかる。いうまでもなく、山登りの最初から最後まで、私一人だけである。その難行の終盤近くに、地元JAの軽自動車が通りかかり、そんな私を見かねてか、後部座席に乗せてくれた。(この場を借りてお礼申し上げる。)

木喰上人(しょうにん)は、享保3年(1718年)に、山梨県西八代郡下部町(現南巨摩郡身延町)古関字丸畑に生まれ、93歳で亡くなるまで、生涯を北海道から九州まで行脚し、天衣無縫の木喰仏(微笑仏)を制作した。永い眠りの季節から、やがて民藝運動の推進者柳宗悦(やなぎむねよし)に見出されると、その名は全国にとどろいた。小泉純一郎前首相は、<まるまると まるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸>という木喰上人の歌を、自身のメールマガジンに引用したそうだ。(2003年2月13日)。その木喰上人の仏像や墨書などの貴重な作品群が、この微笑館に展示されているのである。

じつはこの「木喰の里・微笑館」の館主は、義妹(天野よ志美)が務めている。彼女は又俳人で、地元の俳句誌「幹」(小林波留主宰)に所属する。そうした関係からか、微笑館の外には、故山口青邨(せいそん)や故秋元不死男(ふじお)の句碑があった。渚の人(須藤徹)と義妹(天野よ志美)とで、少し俳句の話をしたけれど、きちんとした話の交差は次回に持ち越すことにした。いつもの調子で、無季容認、メタファー(隠喩)の行使などの必要性を、具体例を出して、私は義妹に熱っぽく語った。彼女は私の一言一言を熱心に聴いてくれた。

木喰館までも消すごと霧の海   天野よ志美
花散ると眉間の割れる木喰仏   須藤 徹

帰路にもうれしいハプニングがあった。山を降り、道の駅「しもべ」へ出て、そこの土産物店で、最寄の駅(市ノ瀬駅か身延駅)へ行くバスの様子を聞いたところ、そこに居合わせた地元の美しいご婦人が、「よろしかったら、私の車で駅までご一緒しませんか」と誘ってくれたのである。いささか逡巡した私に「別に怪しい者ではありません」と微笑む。車中お話をしたところ、驚いたことにご婦人は、義妹の昔の友達で、ソフトボールの仲間であったそうだ。世間は狭い! それにしても、甲斐の人々の優しい気持ちに、心和(なご)んだ一日であった。私はおそらく、この日の微笑仏と山桜(山吹も)と人々の優しさを、そう簡単に忘れないだろう。

写真は、山梨県南巨摩郡身延町北川2855番地にある「木喰の里・微笑館」。昭和61年(1986年)6月5日にオープンした。観音像等をはじめ、同上人の自叙伝的要素の濃い『四国堂心願鏡』や『南無阿弥陀仏国々御宿帳』及び『納経帳』等の古文書類、さらには『薬師如来画像軸』などの軸物が、二室にわたって展示されている。同上人の経歴等を分かりやすく解説してくれるビデオ室もある。毎週水曜日と祝日の翌日が休館。開館時間は午前9時から午後5時まで。先述したように、道路事情があるため、そこへ訪れる前に、身延町教育委員会(0556-36-0011)か「木喰の里・微笑館」(0556-36-0753)に電話したほうが良い。