インターネット時代における俳句の「一人称」を考えるためのシンポジウムが、このほど札幌で行われた。3年前に京都でやはりインターネットを中心に「変容するハイク・コミュニティー」を考えるためのシンポジウムが開催されたことがあり、今回はそれと対をなす企画であろう。
そのシンポジウムに先立ち私が「俳句と引用(パロディー)」というテーマで講演を行ったが、これはシンポジウムのテーマとどこかで通底するものだ。<明易や花鳥諷詠南無阿弥陀>(虚子)<風や えりえり らま さばくたに 菫)(双々子)<登高やキルナ・エリバレ・ダンネモラ>(徹)等の作品の、いわゆる引用のことばの連鎖の中で、はたして作者はどこにいるのだろうか、ということがある。そして、そのような作品を創作する作者の主体性はいったい何なのか、と私はつねづね考えていたのだった。
シンポジウムでは、こうした講演からヒントを得たものの、テーマそのものに肉薄するものではなかった。当然といえば当然だろう。どうしてもインターネット俳句の功罪に、話の重心が移ってしまう。作品の中の「一人称」と表現する主体の「一人称」をまずきちんと分けたうえで、論点を整理すべきなのだ。
客観写生と主観、自我と近代、私性の問題、俳句形式の宿命などをおさえたうえで、時代を考えてゆくのも、一つのやりかたなのかもしれない。ネット社会特有の匿名性と隠蔽性、俳句の大衆性と無名性なども論議されてよい。
けれども、今回は司会者、パネリストが、精一杯がんばられ、総体的にじつに内容の濃いシンポジウムであった。もう少し時間をとり、焦点を絞ったうえで、シンポジウムをもう一回ぐらい行いたいと思う。
出演者の皆さま、会場の皆さま、そして実行委員の皆さま、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。
そのシンポジウムに先立ち私が「俳句と引用(パロディー)」というテーマで講演を行ったが、これはシンポジウムのテーマとどこかで通底するものだ。<明易や花鳥諷詠南無阿弥陀>(虚子)<風や えりえり らま さばくたに 菫)(双々子)<登高やキルナ・エリバレ・ダンネモラ>(徹)等の作品の、いわゆる引用のことばの連鎖の中で、はたして作者はどこにいるのだろうか、ということがある。そして、そのような作品を創作する作者の主体性はいったい何なのか、と私はつねづね考えていたのだった。
シンポジウムでは、こうした講演からヒントを得たものの、テーマそのものに肉薄するものではなかった。当然といえば当然だろう。どうしてもインターネット俳句の功罪に、話の重心が移ってしまう。作品の中の「一人称」と表現する主体の「一人称」をまずきちんと分けたうえで、論点を整理すべきなのだ。
客観写生と主観、自我と近代、私性の問題、俳句形式の宿命などをおさえたうえで、時代を考えてゆくのも、一つのやりかたなのかもしれない。ネット社会特有の匿名性と隠蔽性、俳句の大衆性と無名性なども論議されてよい。
けれども、今回は司会者、パネリストが、精一杯がんばられ、総体的にじつに内容の濃いシンポジウムであった。もう少し時間をとり、焦点を絞ったうえで、シンポジウムをもう一回ぐらい行いたいと思う。
出演者の皆さま、会場の皆さま、そして実行委員の皆さま、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。
俳句の一人称って何なのでしょう。たとえば、自分には兄弟がいないのに、兄や弟の句を詠み、女性が男性に成りすまして、男性の句を詠む(その逆も)。
それってどこまで許されるのでしょうか。
考えれば、考えるほど難しいです。
らん
あたし赤穂に流れていますの鰯雲 幸彦
俳句の嘘を虚構(フィクション)としてとらえれば、このような俳句も成立するのではないでしょうか。現代俳句の最先端をゆく俳人たちは、虚構を大前提にしているように思います。
高柳重信、加藤郁乎、阿部完市、攝津幸彦などの俳人の作品は、そうした前提なしには到底読めないでしょう。大事なことは、そのような虚構が、最終的には文学上の「真実」を獲得することになるのです。
川幅にホッチキスを打つ男娼K 徹