須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

俳句の一人称とは text 25

2005-08-05 00:56:06 | text
インターネット時代における俳句の「一人称」を考えるためのシンポジウムが、このほど札幌で行われた。3年前に京都でやはりインターネットを中心に「変容するハイク・コミュニティー」を考えるためのシンポジウムが開催されたことがあり、今回はそれと対をなす企画であろう。

そのシンポジウムに先立ち私が「俳句と引用(パロディー)」というテーマで講演を行ったが、これはシンポジウムのテーマとどこかで通底するものだ。<明易や花鳥諷詠南無阿弥陀>(虚子)<風や えりえり らま さばくたに 菫)(双々子)<登高やキルナ・エリバレ・ダンネモラ>(徹)等の作品の、いわゆる引用のことばの連鎖の中で、はたして作者はどこにいるのだろうか、ということがある。そして、そのような作品を創作する作者の主体性はいったい何なのか、と私はつねづね考えていたのだった。

シンポジウムでは、こうした講演からヒントを得たものの、テーマそのものに肉薄するものではなかった。当然といえば当然だろう。どうしてもインターネット俳句の功罪に、話の重心が移ってしまう。作品の中の「一人称」と表現する主体の「一人称」をまずきちんと分けたうえで、論点を整理すべきなのだ。

客観写生と主観、自我と近代、私性の問題、俳句形式の宿命などをおさえたうえで、時代を考えてゆくのも、一つのやりかたなのかもしれない。ネット社会特有の匿名性と隠蔽性、俳句の大衆性と無名性なども論議されてよい。

けれども、今回は司会者、パネリストが、精一杯がんばられ、総体的にじつに内容の濃いシンポジウムであった。もう少し時間をとり、焦点を絞ったうえで、シンポジウムをもう一回ぐらい行いたいと思う。

出演者の皆さま、会場の皆さま、そして実行委員の皆さま、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。

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2 コメント

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Unknown (らん)
2005-08-09 17:13:40
俳句における一人称・・・難しい問題ですね。私が俳句を始めてまもなく(二十代前半)から、私の師は、俳句は自分を詠うもの、ある程度のフィクションは良いけれど、嘘はいけませんと、ことあるごとに私に言い続けていました。私はそれを頑なまでに守り、今では、その呪縛から抜け出そうにも、雁字搦めになってしまっている状態です。

俳句の一人称って何なのでしょう。たとえば、自分には兄弟がいないのに、兄や弟の句を詠み、女性が男性に成りすまして、男性の句を詠む(その逆も)。

それってどこまで許されるのでしょうか。

考えれば、考えるほど難しいです。



                  らん
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虚構としての一人称 (渚の人)
2005-08-10 23:22:18
俳句の一人称は、本当に難しいですね。考えれば考えるほど難しくなります。



あたし赤穂に流れていますの鰯雲  幸彦



俳句の嘘を虚構(フィクション)としてとらえれば、このような俳句も成立するのではないでしょうか。現代俳句の最先端をゆく俳人たちは、虚構を大前提にしているように思います。

高柳重信、加藤郁乎、阿部完市、攝津幸彦などの俳人の作品は、そうした前提なしには到底読めないでしょう。大事なことは、そのような虚構が、最終的には文学上の「真実」を獲得することになるのです。



川幅にホッチキスを打つ男娼K  徹
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