須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

近代文学の終焉と俳句 text 43

2005-12-11 01:11:58 | text
柄谷行人の講演集『近代文学の終わり』がインスクリプトより、このほど発刊された。先に岩波書店より出された『定本柄谷行人集』(全5巻)の5巻めに、「近代文学の終わり」が収載されているけれど、それはあくまで雑誌に発表したものをまとめたもの。

「今日の状況において、文学(小説)がかつて持っていたような役割を果たすことはありえないと思います。だた、近代文学が終わっても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終わらない。」

柄谷行人はその講演集『近代文学の終わり』で、このように示唆する。現代の巷間に流布する小説を見ても、たとえば「父性的言説」や「世界(社会)の構想を穿つ」ものなどありえないと、私は思う。ひじょうにトリビアルな重箱の隅をつつくような、あるいは日本と世界に共通するグローバリズムの視点において、作品が成り立っているような気がしてならない。

今の日本の社会には、ひきこもりが100万人、ニートが85万人、失踪者が10万人(年間)、自殺者が3万人(年間)いるという。そういう時代の中でも、30代から40代で日本有数の金持ちになる、いわゆる六本木の「ヒルズ族」がいて、何十億ものお金を出して宇宙旅行に行こうとする。その六本木からすぐそばの上野の公園には、所狭しとブルーテントが林立しているのだ。こうした日本の社会の矛盾は、柄谷行人の「近代文学が終わっても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終わらない。」をそのまま証明しているのだが、人々はほとんど気にも留めない。

俳句もまた、貧困や病気、社会の矛盾などに端を発する作品が書ける時代ではない。かつて勢いのあった前衛俳句や社会性俳句は、今読んでも、胸中に火がつくものではないだろう。俳句の世界では、「原爆忌」という季語があって、毎年8月になると、戦争の悲劇を主題にした俳句を創作する傾向がある。もちろんそれを否定する気は毛頭ないが、私はいつも心の底でいささか割り切れないでいる。「何々忌」という季語の存在を真っ向から否定する高名な俳人がいて、私もそれにあるところで与する者で、その考え方の延長上に立てば、「原爆忌」という季語は本来はありえないのだ。

三省堂から『現代俳句大事典』(6800円+税)が出て、<人名>に渚の人(須藤徹)が 立項され、文中、代表作として2句が掲載されている。又、花神社から吉岡桂六著『読んで楽しむ六○○句』(2300円+税)が刊行され、その一句に私の句が紹介されている、

夏風邪や手足遠くにあるごとく  (『現代俳句大事典』)
たましいを蹴りつつ還る冬銀河  (   同     )
潮匂う唇もて君はフルート吹く  (『読んで楽しむ六○○句』)

写真は都内新宿にある書店内の「現代日本思想」のコーナー。柄谷行人の講演集『近代文学の終わり』がこのコーナーにあった。ちなみにこの書店の「俳句」書籍の並ぶ棚に、渚の人の『荒野抄』が収まっていた。