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Be Organic

女性の美と幸福の源は オーガニックです

最後の東京ブルートレイン

2009年03月13日 | 世の中のこと
急行「銀河」がなくなって1年。とうとう東京発着のブルートレインが全て消えることになりました。

私にとって、ブルートレインを見に行くといえば、東京発着の列車でした。上野発のブルートレインは出発が遅く到着は早朝で、見に行きづらかったのです。
東京発着の列車は横浜駅に停まってくれるうえ、自宅から近かったので、よく見に行ったものです。

上野発着の夜行列車は、ブルートレインといえども、どうも演歌っぽくなってしまう感じがします。対して東京発着のブルートレインは、フォークやロックのノリ。未知の土地へのあこがれ、好奇心、冒険心を掻き立てる存在だったように思います。

今は子供の頃から海外旅行に行けてしまう時代です。でも私が子供の頃は、九州さえ遠い遠い夢の存在。ブルートレインはそんな果てしない場所を想うよすがでもありました。
「はやぶさ」は22時間、「富士」は24時間以上の走行時間というスケールの大きさも、列車の魅力でした。
特に「富士」なんて、東京駅を出発するとき、前日に出発した「富士」が、なんとまだ終点に着いていないんですよ!今じゃ考えられないでしょう?
そんなスケールの大きい列車に、いつか乗りたいと思っていました。でも、利用者が減り、走行距離も列車編成もどんどん短くなり、逆に料金は新幹線より割高に。「はやぶさ」も「富士」も、往年の輝きを失ってゆきました。

上野発着の「あけぼの」「北陸」大阪発着の「日本海」は残ります。でも、車両が老朽化しており新造車もなく、順次消えてゆくのでしょう。
寝台列車はいずれ、「北斗星」「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」「サンライズ」だけになるのかも知れません。

経営資金やビジネスのノウハウだけでなく、生活を支える起業支援

2008年04月14日 | 世の中のこと
4月8日付の朝日新聞朝刊に、ドイツのワーキングプア対策が紹介されています。
その中に、”もし日本にこの制度があったら活用したい!”と私が思った事例がありました。
あらましは次のとおりです。

マインツ市の57歳の女性、フルックさんは3年前、なんと社長の夜逃げで失職。
失業保険は加入期間が短くて受けられず、困って行政の支援窓口であるジョブセンターを訪ねたところ、約5・5万円と住宅費、暖房費が出る「失業給付Ⅱ」の支給を受けられることになった。
しかし年齢が高いため、求職活動は難航。そこでジョブセンターは起業を提案し、フルックさんは経験がある市場調査での起業を決める。
「失業給付Ⅱ」は事業が軌道に乗るまで支給され、初期経費として約16万円の貸付制度もあり、起業支援プログラムも無料で参加できる。
専門家の指導を受け、市場調査や社員研修を請け負う会社を設立したフルックさんだが、初めは売り上げが安定せず、毎月の収入に応じて「失業給付Ⅱ」を受け続けた。
昨年11月以降ようやく事業が軌道に乗り、フルックさんは晴れて「失業給付Ⅱ」を”卒業”した。


一般に起業には「創業資金+半年分の生活費が必要」と言われています。
しかし、私のように安い賃金でしか働いたことがない人間は、収入のほとんどが生活費に消え、貯金も少ないのが現状です。
自活するにも、市営住宅や県営住宅は、単身者は65歳にならないと入居できません。旧公団住宅は、公共性を謳いながら家賃がえらく高いうえ、安定収入が必要です。民間のアパートは安くても(それでも横浜なら6万はしますが)、保証人を求められる。
また、スキルアップのために民間の講座に通おうとすると、仕事で使えるレベルのものは受講料が10万円以上します。
生活とお金のためだけの仕事は、起業の意欲を奪い、アイディアは腐敗してゆきます。

私もフルックさん同様、年齢的に就職は難しい。就職活動をして最終的に私を受け入れたのは、使い捨てに近い派遣でのコールセンターの仕事だけでした。
私が”生きてゆくためには自分でやるしかないのか”と考えたのは、そんな事情もあります。

けれど私の知る限り起業して成功している人は、夫に安定収入のある元専業主婦や、家が裕福でなおかつ帰国子女やエリートOLだったなど、生活や食い扶持を心配しなくて良い人たちか、ブルドーザーのように進んで行く強烈なパワーとキャラの持ち主ばかり。
ドイツのように家賃や最低限の生活費が支給されて、ビジネス面でのアドバイスも受けられ、暮らし向きの心配をする必要がなければ、私のようなないないづくしの人間でもどれだけ思い切ったことができるか・・・。

最初にも示したとおり、朝日新聞の記事は「ワーキングプア対策」として紹介されています。これはひきこもりやニート、フリーター、ホームレスの就業対策にもなるのではないでしょうか?
横浜では「起業で『ひきこもり』からの脱却を」というイベントも開催されましたが、まだ”精神論”的な部分が多く、現実の生活への具体的な支援というところまで議論は進んでいないようです。

私は、今の私のような女性が、生活に不自由しない社会保障と収入、そして技能やキャリアを得られる場を、「オーガニック」をキーワードにして創りたいと考えています。それには、どうしたら・・・?

急行「銀河」 星の彼方へ

2008年03月15日 | 世の中のこと
私が初めて乗ったブルートレインが「銀河」でした。
小学校を卒業した3月、姫路の親戚の家へ遊びに行くために、弟と2人で広いA寝台の下段を分け合ったのでした。
当時の「銀河」は、特急格下げの20系車両を、個性的な旧型機関車EF58が牽引していました。横浜発は23時13分くらいだったと思います。

あこがれのブルートレインがホームに入ってきてまずびっくりしたのは、ドアが手動だったこと!自動ドアが当たり前だった私にとって、特急で使われていた車両が手動ドアというのは、ちょっとショック。”特急車両で手動かぁ?”みたいな感覚でした。当時わずかながら20系の特急も残っていましたし・・・。
まあるい最後尾のヘッドマークは、列車の名前ではなく「急行」の文字。それが少し寂しく感じました。

大船、小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋・・・。急行らしくこまめに停まる「銀河」は、深夜の東海道本線を静々と進んでゆくようでした。関が原の朝もやの中を、始発の新幹線が東京へ走って行く車窓の風景は、今でも忘れられません。大阪到着は8時ちょうど。ラッシュの中となりのホームでは、福知山線、山陰本線を経由して博多へ向かうという、今では考えられないスケールの大きなディーゼル特急「まつかぜ」が、出発しようとしていました。

以前は、全国に主要都市間を結ぶ長距離特急と、それを補完する急行が走るという運行パターンがありました。
しかしいつの頃からか特急に格上げされる急行が相次ぎ、特急の数が増えました。
JRの本社の人は「特急が乗りやすくなったでしょ?」と言いましたが、一方で従来急行のみが停車していた駅に特急が停まるようになっていました。地方では、支線を走る急行が、次々に廃止されてゆきました。
残った特急は、急行のようなものばかり。そのくせ特急料金は従来通り取る。これは実質的に「値上げ」なんじゃないの・・・?

そんな疑問が頭をもたげる現代にあって、「銀河」は昔の東海道急行の面影を色濃く残す列車でもありました。

「銀河」のような存在が、再び必要とされる時代が来ることはあるのでしょうか。気づいたとき、取り戻すことはできるのでしょうか。
”古き佳き時代”や”郷愁”といった言葉だけでは割り切れない、何か「大切なもの」乗せたまま、急行「銀河」は歴史の星の彼方へ走り去ってゆこうとしています。

ホリエモンの残したもの

2006年02月14日 | 世の中のこと
堀江前社長ら4人と2社、証取法違反で起訴 東京地検 (朝日新聞) - goo ニュース
時代の寵児だった人が「容疑者」になり、昨日からは「被告」になりました。

「金がすべて」「人の心は金で買える」などの発言が物議をかもしたりしましたが、それはみんなが見たがらない現実に目を向けさせたからだと思います。
実際お金がなければ何もできないですし、生活費のために、時間と心を切り売りしているような世の中です。
収入を得るために主張や信念を曲げることは、心を金で売ることでしょう?
そういう人の、どれほど多いことか・・・。
日立の企業CMが「マネーゲームはいつも虚しい」と言っていますけれど、そう言ってしまうことの方がよほど虚しいということに、気が付かないのでしょうか?

ホリエモンが近鉄バファローズ買収に名乗りを上げたとき、近鉄ファンは藁にもすがる思いだったでしょう。
私も、ファンと現場無視で、密室で決められた球団合併には、野球ファンとして怒りを感じていました。
彼の話を聞いていて、”野球は知らない人だな”とは思いましたが、球団を持ちたい、存続させたいという気持ちは伝わってきました。だから私も、ホリエモンを応援したのです。
新規参入に楽天の三木谷氏が割って入り、最終的に楽天の方が選ばれたのは、なんとしてもホリエモンを排除したい読売の渡辺氏や、オリックスの宮内氏の差し金だと、今でも私は信じています。

ただ、フジテレビ買収はともかく、選挙に出たときはさすがに「おかしい」と感じましたね。球界参入失敗の影響が、歪んだ形で出てしまったのかと思っていました。

もし、新球団が「東北楽天ゴールデンイーグルス」ではなく「仙台ライブドアフェニックス」だったら、今頃球界は本当に大変なことになっていたでしょう。
今回の事件をもとに、渡辺氏が選手会やファンを貶めるような物言いをしていたのを聞き、口惜しさでいっぱいになりました。

同時に、「ホリエモンなんて、最初から胡散臭いと思っていたのよ」「所詮マネーゲームしかしてなかったんでしょ」と言う人たちにも、怒りを感じます。
そう言う人に限って、身分が保障され、ただ前例に従ったり、ル-ティンをこなしていれば、安定した生活が確保できる立場にいる。不満はたらたらだけどなんとかしようという気持ちはなく、不自由していないお金を浪費することで発散している。そのくせフリーで仕事をしている人や、自分の好きなことで食べてゆこうと頑張っている人たちには「好きなことができていいねえ」「ストレスなくていいわね」と平気で言うからです。

ホリエモンの犯罪行為は断じられるべきですが、何故か口惜しいのです。
自分で考え、自分の力で生きてゆこうとしている人が、既得権益の上にあぐらをかいている人に見下げられているような気がして・・・。

情報0円

2006年01月28日 | 世の中のこと
創刊以来話題になっているリクルートの情報誌「R25」。
ここ、横浜駅西口5番街側の相鉄線改札前が、日本中でいちばんこの雑誌が出るところだそうです。
この雑誌、毎週木曜発行ですが、金曜日になっても補充が続いていました。
一応男性向けですが、女性もかなり多くの人が取ってゆきます。
こうした”フリーペーパー”は、最近かなり多数が出回っており、部数も伸びています。

雑誌の収入は、広告料と購読料です。
ところが、どんな雑誌も完売したところで、せいぜい紙代程度の収入にしかなりません。人件費や印刷代など、雑誌づくりの主要な部分は広告費でまかなっています。
雑誌の成功は、いかに多くの広告を集められるかにかかっている。そう言っても過言ではありません。
たとえ真実でも、読者が喜び部数の増加につながったとしても、広告主の不利になるような記事は載せられないのです。
このことが雑誌の「カタログ化」を招き、宣伝の匂いを感じ取った読者が記事自体を信用できなくなって離れ、雑誌全体の部数低下につながっています。

こうなると取次ぎ(問屋)も引き受け部数を減らします。そこで出版社は新たな雑誌を創刊することで、全体の引き受け部数を維持する・・・。
出版不況と言われ、雑誌全体の販売部数が減り続けているにも関わらず新雑誌の創刊が相次ぐのは、こんな背景があるのです。
その一方で、広告収入が全てのフリーペーパーが読者の支持を得ているのは皮肉です。

企業も、少しでも多くの人に見てもらわなければ、広告の意味がありません。
そこでやはり問われるのは、編集者の力量なんです。
どういうものを、どうやって見せるか、ということです。
その点、「R25」は優れていると思います。
政治でも経済でもスポーツでも、今話題になっていることが簡潔に説明されている。多少難しくても複雑でも、読めばそのアウトラインだけは十分理解ができる。
これだけ押さえておけば、どんな場面でも社会人として一応OK。そんなツボを心得ています。

けれど、分かればそれで終わり。「使い捨ての情報」なのでしょうか?

有料誌で「R25」の手法を取り入れた雑誌がありましたが、”内容が薄っぺら”という印象が先に立ちました。有料誌は、もっと綿密な取材や深い考察が必要です。
「使い捨てられない情報」。それこそが部数増加につながると思うのですが・・・。

花開け、「ジャパニーズ・ローズ」

2005年11月16日 | 世の中のこと
昨日結婚により、民間人として歩み始めた紀宮清子内親王改め黒田清子さん。
皇室のありかたについて世間の声はさまざまだけど、ひとりの女性が良き伴侶を得られたことは、率直に祝福したいと思います。

私が目を見張ったのは、結婚式に列席した美智子皇后のドレスと、披露宴での雅子妃のドレスでした。

式での美智子皇后のドレスは、他の女性皇族のドレスに比べると、一見デザインもシンプルで、色目も地味に見えました。
けれどじつは、誰よりも豪華なものを着ていたのです。

布地は恐らく、皇居で育てている日本古来の蚕「小石丸」から、手紡ぎで作られた糸を使い、手機で織られたものです。もしかしたら西陣かも知れません。
清子さんのドレスも同じ布地でしたね。
何より驚いたのは、ドレスの色。ベージュであり、ゴールドであり、光の加減によっては翡翠色やはなだ色(薄い藍色)までもが見え隠れする。このニュアンスは化学染料では出ません。植物染料による草木染め、それも大変高度な技術によるものでしょう。

美智子皇后は民間から皇室に嫁ぎ、いじめや流産など、大変な苦労をしました。皇后になってからも一時期バッシングにあい、それがもとで声を失うなど、本当につらい思いをしてきたことでしょう。
しかし今、その苦労は報われ、美智子皇后は確かな実力を持ち、天皇家の要であることを、あのドレスは表している・・・。私はそう感じました。

もうひとつ、回復途上の雅子妃が、時間がかかり気も張る披露宴や、立席のレセプションに耐えられるのか正直心配でしたが、テレビなどで見る限り笑顔でこなせたようですね。

女性は意識が高く、夢や希望、志のある人ほど、壁に阻まれ、現実とのギャップに苦しみます。
エリート外交官の家に生まれ、海外生活も経験、語学堪能で東大、ハーバード大、オックスフォード大に在籍。キャリア官僚から皇太子に見初められて結婚。
一般の女性から見れば、生まれも育ちも能力もはるかに恵まれていてさえ、こういう目にあうのか・・・。
雅子妃が体調を崩し、「適応障害」と診断されたとき、私はそう思いました。

私がびっくりしたのは、披露宴で皇后はじめ女性皇族がみな和服の中、雅子妃ひとりが洋服だったこと。さらに女性皇族たちが淡い色調のもので揃えているのに対し、雅子妃だけがワインレッドという濃い色を選んできたことです。

公の場で女性皇族が一同に会する場合、皇后がどのようなものを着るかによって、他の女性皇族は色やデザインなどを考え、調和が取れるものを着なければいけないと聞きます。
美智子皇后が皇太子妃時代にあったいじめのひとつは、香淳皇后がどんなものを着るのか教えてもらえず、ひとり周囲から浮いた服を着てしまって、恥ずかしい思いをさせられたことだといいます。
今の時代にそんなことはないと思いますが、少し気がかりです。「なぜみんなに合わせないのか」「皇后陛下より目立つものを着るなんて」という声を耳にしたからです。
でも、聡明な雅子妃が、そのような批判が起こることを、予想できないことはないと思います。

ワインレッドは「女性の自立」を表す色だと聞いたことがあります。
そうだとしたらあのドレスは、雅子妃の何らかの”意思”を表すものかも知れません。

雅子妃のお印「はまなす」は、日本原産のオールドローズです。
海辺の、風が強く土壌もやせた厳しい環境に自生し、病害虫に強く、香り高い花を咲かせます。
海外では「ジャパニーズ・ロ-ズ」とも呼ばれる、そのお印のように、今の苦しみが報われ、花開く日がくることを願います。

朝の連ドラから「戦争」が消えて

2005年08月15日 | 世の中のこと
太平洋戦争が終わって60年の節目。
私はもちろん戦争を知りませんが、私のおじ、おば、祖父母は戦争を知っています。学徒出陣で大学を繰り上げ卒業した人、東京大空襲で家屋敷を焼かれ、全財産を失った人もいます。
身内に戦死者や空襲で死んだ人はいませんが、戦後の混乱の中で栄養失調や病気になり、充分な治療が受けられずに死んだ人はいます。
子供の頃は身内から、戦争のことを聞いていました。

もうひとつ、太平洋戦争を学ばせてくれたのは、じつはNHKの朝の連ドラでした。
おそらく日本史上最も女性が抑圧されていた明治、大正、昭和を力強く生きる女性の物語が定番で、関東大震災と太平洋戦争は”必須”ともいえるトピックでした。
関東大震災の回を9月1日に、終戦の回を8月15日に放映するということもしていました。

主人公の夫や息子が徴兵され、戦死する。主人公一家と親しくしていた青年が,出撃前に最後の別れを告げに来る。戦時下でもある日常のほっとするひととき、ささやかな夢を語る人々。けれどその日の夜、焼夷弾の雨が、小さな幸せさえも容赦なく奪ってゆく悲しさ、残酷さ・・・。
そうしたストーリーが、子供心に”戦争はいけない”という思いを植え付けたと思います。

「あぐり」「すずらん」を境に、戦争を生きた女性の物語は、NHKの朝の連ドラから消えてしまいました。
最近のNHKのドラマでは、「夢見る葡萄」「ハチロー」が戦争を描いていますが、”主人公が空襲をどう逃げ切り、生き延びたか”という描写がありませんでした。

昔のドラマの製作スタッフには、戦争を実体験した人がまだまだ大勢いたのではないでしょうか?だから戦時下の人の気持ちや空襲がリアルに描けた。けれど現在の若いスタッフは、極限状態の中命がけでサバイブしたことなんてほとんどないはずです。
だからそこを端折ってしまうか、たとえ描いてもパニックムービーみたいになってしまうのでしょう。

NHKの朝の連ドラから”戦争”が消えたとたん、空爆が実況中継されるようになり、国際貢献の名の下に自衛隊の海外派遣が始まりました。
”自虐史観”などという言葉が生まれ、冷戦終了で死んだはずの”左翼”という言葉が、平和と不戦、男女平等を願う人を非難する言葉として復活しました。
そして改憲論が高まっていった。そんな気がしてなりません。

福知山線事故

2005年04月27日 | 世の中のこと
最初に映像を見たときは、外国のことだと思いました。
救出作業にあたるレスキュー隊員のユニフォ-ムの背中を見て初めて、日本の事故だと知りました。
ぺったんこになり、マンションに巻きつくように壊れているのがじつは2両目で、1両目は建物の中に突っ込んでいるとは。
「今どき、こんなひどい鉄道事故ってあるのか」信じられない気持ちで一杯です。

私は関西の鉄道事情は詳しくはないのですが、どうしても福知山線はローカル線のイメージがあります。昔から特急も走っている所ですが・・・。
宝塚や伊丹は、阪急で行くものという印象なのです。

ただ、この10年くらいでしょうか?”山陰線と福知山線の雰囲気がすごく変わった”とは感じていました。
おととし、久しぶりに嵯峨野の野々宮神社に行ったら、ひっきりなしに電車が横を通るので、「ここって、こんなに騒々しい所だったっけ?」と思ったものです。
福知山線も、いつの間にかきれいな新型電車が走っていて・・・。
電化され、亀岡や福知山から京都、大阪へ通勤する人も増えたのでしょう。列車の本数も増えました。

とりわけ京阪神地区は、JRが国鉄の時代から、私鉄との激しい競争を繰り広げていました。
山陰線は一応”幹線”ですから、インフラの整備や最新機器の投入も早いでしょう。
でも、福知山線は”枝線”。輸送能力は急激に上昇しているのに、安全対策が後回しになってしまった。”スピードと輸送量は幹線並み、インフラはローカル線のまま”だったのではないか、そんな気がしてなりません。

JR西日本の会長、社長は辞任を免れないでしょう。
でも、遺族への謝罪のために遺体安置所を訪れた社長に対し、「今後どのような対応をされるんですか?社長、説明責任があるでしょう?!」と詰め寄る記者には不快感を感じました。
そりゃあ当然、社長に説明責任はあります。でも、あそこで記者が社長を責めて何の意味があるでしょう?会見できっぱり言わない社長もいけないんですが。

10年以上前になるでしょうか。信楽鉄道の死傷事故もJR西日本が絡んでいます。
そして再び、JR西日本が大規模な死傷事故を起こしてしまった・・・。
企業の体質に何か問題があるのかもしれません。

死者は間違いなく80人を超えるでしょう。
その数と事故現場の映像に、ただ呆然とするばかりです。

地震お見舞い申し上げます

2005年03月22日 | 世の中のこと
「福岡で震度6弱」と聞いたときはびっくりしました。
歴史的にも大地震はほとんどないし、弱い地震もあまりないところという印象でしたから、なおさらです。

残念ながら1人が亡くなりましたが、都市規模のわりに被害が大きくなく、その点は幸いでした。しかし、玄界島は甚大な被害が出ています。
島を離れざるを得ず、冷たい体育館の床に寝なければならない人たちのことを考えると、なんとも言えない気持ちになります。

東京、横浜地区は「いつ地震がきてもおかしくない」と言われ続けています。
10年、20年遅れることは、地球の長い歴史からすればたいしたことではないのでしょう。
でも、ここのところ首都圏であまり地震がないような気がして、なんだか気味が悪いと感じます。
「避難袋を用意しておいた方がいいな」と思う一方、「死ぬときゃ死ぬんだ」という思い。そのくせ、「建物の下敷きになんかなったら、やっぱり必死に助けを求めるのかな」とも考えます。
私はまだ震度5までしか経験していません。そのせいか「大地震」というのを十分に理解することができていない、そんな気がします。
「来てからでは遅い」。それは確かなのですが・・・。

さよなら 「さくら」「あさかぜ」

2005年03月01日 | 世の中のこと
往年の名列車が廃止されます。
「あさかぜ」が走り始めたのは、昭和31年。
ブルートレインになったのは、確か昭和33年で、松本清張の「点と線」は、まだ雑客車編成の頃の話なんですね。一時は、編成の半分がA寝台なんて時代もありました。

私が「あさかぜ」に乗ったのは、13年前。
この頃は博多行きと下関行きの2往復があり、博多行きには、まだ食堂車がついていました。

人気のない深夜の大阪駅の静かだったこと。朝の車内放送が始まる頃には、瀬戸内海のすぐ目の前を走っていて、水面に照りかえる朝日がとてもまぶしかったこと。その景色を見ながら食堂車で朝食を食べたこと。車窓から見えた収穫直前の黄金色に輝く稲穂。高層ビル群にかこまれた博多駅へ「あさかぜ」が吸い込まれてゆくさまは、非常に迫力がありました。
”ものすごいぜいたくな時間をすごした”。「あさかぜ」はそう思わせてくれました。

「さくら」は、戦前は東京~下関を走った三等客車の大衆特急で、下関から船で釜山へ、さらに朝鮮半島を縦断して大陸へ接続する国際列車でもあったといいます。後に悲惨な運命が待つとも知らず、大陸へ夢をはせた多くの庶民も運んだのでしょう。
戦後は東京~長崎間の特急として復活。「あさかぜ」の後を追ってブルートレインになりました。

ブルートレインの食堂車には、必ず行き先の郷土料理がメニューに加わっていました。
「さくら」の食堂車には「ちゃんぽん」と「皿うどん」。
私、「初めてのちゃんぽんは『さくら』の食堂車で」と思っていたので、中華料理店や長崎の物産展でちゃんぽんがあっても、決して食べませんでした。
そしていまだに、ちゃんぽんを食べたことがありません。
「さくら」にはついに乗ることなく、この日を迎えてしまいました。

「さくら」「あさかぜ」は今、終着駅へ向かって最後の旅路を走っています。