goo blog サービス終了のお知らせ 

Be Organic

女性の美と幸福の源は オーガニックです

天璋院篤姫 日本史上”最後の”大物女性政治家

2008年12月20日 | 歴史
予想外の高視聴率で話題沸騰の大河ドラマ「篤姫」が、好評のうちに終了しました。
残っている写真を見ると”うるさそーなオバハンやなぁ~”という感じの天璋院篤姫。やはり肖像や写真が残っている養父、島津斉彬に少し似ていませんか?
田舎のおてんばなお嬢様から、大名家、摂関家のお姫様へ、将軍御台所となり従三位天璋院と昇ってゆくうちに、篤姫がその地位に相応しい風格を自然に身につけてゆくさまを、宮崎あおいさんが非常によく演じていたと思います。

今回大変良かったのが、大奥の描き方です。
大奥はこれまで、「社会的立場の弱い江戸時代の女性がセックスでのしていく世界」「女の愛と欲望が渦巻く世界」といった描かれ方をされてきました。その点、今回の大河ドラマはそのような”ハーレム的”な描き方をしていないことに好感を持てました。
大奥とは、あくまで「官僚組織」。将軍という”公人”の生活の管理、後継の確保と育成を担い、幕府の屋台骨を支えています。それほど重要な組織を女性のみで運営し、将軍以外の男性の干渉を許さなかったということに、当時の女性の社会的地位の高さを見るべきでしょう。
歴代将軍の位牌を納める仏壇と、東照大権現としての家康を祀る神棚が大奥にあることからも、大奥の重要性と権勢が伺えます。

残念なのは、幕府や大奥のために奮闘する篤姫のよりどころが、「女性は嫁いだら、夫とその家に従う」「家を守る」「家族を守る」という、古来の日本女性の地位を矮小化した価値観になってしまっていることです。
自らの足で立ち、知恵と人間的な強さで道を切り開いてゆく女性を描きながらも、私が宮尾作品をいまひとつ好きになれない理由が、ここにあります。

子供を期待できない家定の次の将軍を一橋慶喜にすべく、後継決定に大きな力を持つ大奥の工作活動が篤姫の結婚の目的でした。二重の養子縁組までして御台所に推したてたのは、側室では継嗣を生まない限り持てない「政治力」が、御台所なら持てるからです。篤姫は実家である薩摩の”利益の代弁者”。これはまさに戦国時代の政略結婚で女性が果たした役割と同じです。

しかし紀州派の大奥で篤姫は孤立してゆきます。表でも一橋派には不利な事態が続き、実際慶喜に会ってその将軍としての資質にも疑問を感じてしまう。このままでは次代将軍が慶喜でも慶福でも、篤姫個人の立場は厳しいものになります。

そこでドラマでは、彼女は将軍後継に関して「中立」を守ることに決めるのですが、そのとき家定に対して篤姫が「私、間違っていました。妻たるもの、嫁しては夫に従うのが武家の習い。それなのに私は自分の家のことばかり・・・」と言うことには違和感がありました。
”実家の利益の代弁者”として嫁入りしても、その後も実家の一員であり続けるか、夫の家に従うかは、当時でも女性が自らの意思で選ぶものです。決して「武家の習い」ではありません。

和宮も同様です。慶福改め家持に降嫁する彼女の使命は孝明帝、都の公家衆の意を受けて幕府に攘夷を実行させることでした。ガタついた権威を立て直すため、皇室の威光を借りたい幕府の足許を見た都側は、和宮を通じて幕政に介入しようとも目論んでいます。そのため和宮側は進駐軍よろしく、大奥に乗り込んできたといいます。
ドラマでは和宮は家持と話すうち、攘夷は無理であることを悟ります。しかし都側に気を遣うあまり、それを上手く伝えることができません。娘の苦悩を察した実母の観行院に、「宮さんの思うとおりにしたらよろしい」と言われ、和宮はようやく解放されます。

なぜ、篤姫と和宮は徳川家を選んだのでしょう?
養父斉彬が亡くなったことで、篤姫の立場は変わりました。島津久光が薩摩の実権を握ると、斉彬と共に働いた人々は藩政の中心から追われてゆきます。今泉島津家も久光の息子を養子に迎えざるを得なくなりました。もはや薩摩に、篤姫の居場所はなくなったのです。そして、夫家定の死。
安政の大獄で一橋派も粛清され、篤姫のよりどころは大奥だけになってしまいました。

和宮は、観行院、家持、孝明帝と、立て続けに頼みとなる人々を失いました。特に孝明帝が亡くなると、形勢は一気に倒幕へと傾きます。同時に「公武合体」は無意味なものになりました。このとき和宮の役割と、都での居場所はなくなったのです。たったひとつ残った彼女のよりどころも、大奥でした。

篤姫と和宮が守ろうとしたのは、単純に「徳川家」ではなく、「幕藩体制」という”政治システム”です。
幕藩体制の崩壊は彼女たちの存在基盤を失うものであり、同時に武家の存在基盤の喪失でもあります。そのため彼女たちは、幕府存続のために手を尽くすのです。
幕府存続が不可能と悟った段階で初めて、篤姫は目標を「徳川家存続」に絞ります。それは徳川家さえ生き残っていれば、将軍職への返り咲きか、新しい政治システムへの参加の可能性が残るからです。

御台所、大御台所は単なる奥様、姑ではなく、万が一のときは将軍に代わって判断を下さねばならない”政治家”です。長い太平の世で形骸化しかかっていたその地位、立場が、幕府が危機に陥ることで一気に重要性を増すことになります。
大奥、幕府全体、そして国家体制まで、篤姫がその責任のもとに考え、決断しなければならない場面は広がってゆきました。
政治の実権が諸侯から西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らに移った段階で、篤姫は城の外で何が起こっているのか、ほとんど分からなくなったと思います。
幸いだったのは幕府官僚らしからぬ勝海舟の存在で、彼からの情報が篤姫の頼みの綱だったことでしょう。この人がいたからこそ、篤姫はその場その場でより良い判断が下せたのではないでしょうか。

明治時代になって、政治は不完全とはいえ民主化され、女性の地位は江戸時代よりは上がり、権利もある程度認められるようになったと、ほとんどの人は教わっています。
けれどむしろ明治以降政治の場から女性の姿は消え、地域や国を左右するような判断を求められることもなくなりました。現在でも日本の女性議員の数は世界的に見ても少ない方ですし、女性大臣はいても官僚組織や国家をハンドリングできるほどの人は、まだ出ていないように感じます。
だから私は、天璋院篤姫が日本史上”最後の”大物女性政治家だと考えるのです。

上杉家の「ゴッドマザー」

2007年07月02日 | 歴史
今年の大河ドラマ「風林火山」の目玉、Gacktの上杉謙信が本格的に登場しています。
私の友人など、「あんなヘビメタな戦国武将がいるかぁ?!」なんて言ってますが、私個人としては、あのコスチュームはいいところに目をつけていると思います。

上杉謙信の肖像画というと僧形のものばかりで、川中島での武田信玄との対決シーンも僧兵姿が定番です。
今回の謙信像はGacktのアイディアだそうですが、ストレートのロングヘアに水干姿というのは、「喝食(かっしき)」という半僧半俗の青年の姿に通じます。
喝食はいわゆる”修行中”の身分ですが、化粧をして美しく着飾るのが常で、「観音の化身」「生き仏」として、僧たちの信仰の対象でもありました。
謙信は幼い頃から寺に預けられていましたから、あのような姿だった可能性もありますし、ビジュアル系で鳴らしたGacktにもぴったりではないでしょうか。

あまり上杉謙信のことを知らないので調べてみたら、生涯妻を持たなかった彼の身近に、興味深い女性を見つけました。
謙信の同母姉で、米沢藩初代藩主上杉景勝の生母である仙桃院です。
彼女こそ、結婚しなかった謙信の”妻の代わり”として、また謙信の後継者上杉景勝の母として、長尾、上杉家を支えた「ゴッドマザー」なのではないでしょうか。

戦国武将の一族の女性たちは、単なるお姫さまや奥さまではありません。
家の都合で人生を振り回される、無力な政治の道具でもありません。
家督を継ぐ権利も持っていますし、嫁げば外交官として、実家と夫の家との”win‐win”の関係を築くため、高度な政治判断も求められます。
夫と共に領地の経営や統治にもあたり、夫に何かあれば、最高責任者として一族を率いるのは、その妻。同時に跡取りの後見として、大きな発言力を持ちます。
「風林火山」にも登場している今川義元の母寿桂尼は、その代表的な存在です。

仙桃院は遠縁にあたる長尾政景と結婚し、2男2女をもうけます。政景は一時謙信に逆らって戦争になるのですが、和解した後は謙信を支え、突然謙信が”出家して高野山に行く!”と言い出したときも、説得して思いとどまらせています。
政景が仙桃院の夫でなければ、謙信との和解は困難だったはず。おそらく仙桃院が2人の仲立ちをしたのでしょう。
そして仙桃院と政景の子は、謙信の養子に。政景はわりと早くに亡くなってしまうので、長尾、上杉家当主のパートナーとして、後継者候補の実母として、仙桃院はアドバイザー的な立場で大きな力を持っていたと思われます。

実子のない謙信は、景勝の他に北条氏から養子を迎え、景虎の名を与えています。ところが、謙信は後継者の指名を正式にしないまま死んでしまったため、景勝と景虎の間で内乱に。
このとき、上杉家中は謙信と血を分け、景勝の母である仙桃院の動向を気にしたはずです。
結局景勝は”謙信の遺言”と言い張って本拠の春日山城に乗り込み、景虎を廃し自害に追い込んで、上杉家を継ぎました。

再来年の大河ドラマの主人公、直江兼続を上杉景勝の側近として推挙したのも、仙桃院だと言われています。
今回の「風林火山」で仙桃院は、”謙信の最大の理解者”として、「桃姫」の名で登場します。