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ME OLVIDE DE VIVIR (人生を忘れて) フリオ・イグレシアス  - 父が好きだった曲 ー

2016年06月28日 | お気に入りの1曲
 父は音楽が好きだった。私が音楽が好きなのも父の影響に違いない。
 4月に父は逝ってしまった。
 Blogをしている割にはあまり私的な事を記事にしなかったけど父への思いを記したくなった。
 正月からの入院で(誤嚥性の)肺炎と診断され、治ったり再発したりでじわじわと体力を奪われていった気がする。2月、3月と「今夜が山だ」的な所で夜間に呼び出しを受けたけど、その都度驚異の回復をみせた父だった。
 退院がみえていた所での急変だった。77歳だった。
 現在の男性の平均寿命は80歳くらい。そう考えると十分生きたのかもしれない、過去に癌もしており77歳までよく生きれたとも思う。
 最後の夜も、私が付き添った。
 ショック状態をおこしていて意識がなく、人工呼吸器もついた状態。モニターの数値が下がらない事を祈りながら、15分おきに更新される酸素濃度や血圧値を見守った。
 意識のない状態だけど、耳元で声をかけたり、持参していたIpodで、父の好きな曲をセレクトしてヘッドホンを耳にあてた。
 その時は父の好きな曲の一つ、ダイアナ・ロスの「If We Hold On Together」を流した。父の反応はなかったけどきっと聞こえてると思って。
 そして夜が明けた。希望の朝になるかと思った。しかし、モニター値は回復しない。
 そして、妻と4歳の娘が病室に来た。妻は仕事だったので病室を後にし出勤した。それから娘と二人で見守った。
 しばらくして母も来た。そして、私が母に耳元で声をかける事を促し、母が父の名前を呼んだ瞬間、モニター値が突然ゼロになった。
 あまりの突然の出来事に私はモニターの線が抜けたと思ったが、それは父の心臓が停止したことを示すものだった。
 最愛の孫娘と母と私に看取られて父は逝った。
 誰もが遅かれ早かれ体験する親の死を、私もついに迎えた。
 いつかは親も死ぬ時が来るとわかっていたけど、まだもう少し先の話だと思っていた。もう少し孫娘が大きくなるのを見てほしかった。
 孫が生まれてから、孫娘は父の生きがいとなった。父は77歳にして最高に幸福だったに違いない。
  
 私の家は別に音楽家の家でもないが小さい頃から音楽が家の中に溢れていた。
 私がマイケル・ジャクソン好きになったダメ押しも父だった。
 親戚の兄にマイケル・ジャクソンのスリラーのビデオを見せてもらい、家に帰って食卓時にその衝撃を父に話すと、部屋からLPレコードの『スリラー』を持ってきて私にくれた。「なんでアルバム持ってんの!?なんてナウい(いけてる)父親なんだ」って思った。
 今や私のCDコレクションも相当だけど、父もかなり持っていた。ダイアナ・ロス、セリーヌ・ディオン、SADE、ライオネル・リッチー、ヴァネッサ・ウィリアムス、エンヤ、アンドレ・ギャニオンetc…親子で同じCDが何枚あることか。
 父は、特にラテン音楽が好きだった。見た目からラテンの空気感はまったくないけど。
 昔はトリオ・ロス・パンチョスやフリオ・イグレシアス等ステレオから流れてた。                  
 学校から家にもどるとき、家から大音量でランバダが流れてて外に丸聞こえでちょっと恥ずかしかった。
 あらためて父のCDを眺めていてフリオ・イグレシアスを取り出した。私自身はフリオのアルバムは1枚も持っていない。
 父はお気に入りの曲をマーカーで印をしていた。父が印をしていた曲を聞いてみた。そして気に入ったのがこの曲だった。
 フリオ・イグレシアスの78年のヒット曲「人生を忘れて」。 
 優しいメロディーとフリオの温かみのあるセクシーなボーカルとスペイン語の語感が心地いい。

Julio Iglesias - Me olvidé de vivir

 
 ブレーキもかけずに人生を走り続けたので
 人生はただ一瞬に生きるということを忘れた
 すべてのことに一番になろうと望みすぎて
 小さな事を大切に生きることを忘れた

 感情をもてあそびすぎた私は
 夢につつまれた喝采を生き甲斐にしてきた
 風に向かってむなしく歌を叫びすぎて
 私は変わってしまった
 もう自分の感じていることもわからない

 生きることを忘れてしまった
 生きる意味を忘れてしまった・・・

 でも今の私は、このリリックに共鳴はしない。人生にいつも希望を抱いているから。
 父は陽気な人だったが、どこか冷めた部分もあった。
 だからこの曲とリリックが好きなのはなんとなくわかった。
 大好きだった家に父がもどってから、出棺の時まで父の好きだった曲をたくさん流した。
 私の結婚式で父か強く希望したセリーヌ・ディオンの「To Love You More」、そしてこの曲も。

 父とはたくさんの想い出がある。
 父とは、なんとなくで2人で旅行をした事もある。それも私が30代の独身の頃。
 その頃私はオープンカーに乗ってましたが、九州の方をDriveした。
 親子でオープンカーってあんまりないよな。
 運転するおれもサングラスをかけ、父もサングラスをして横で煙草をふかしまくり。
「はたからみたらおれら何に見えるんだろう?」って父に聞くと、「わしがヤクザの親分でお前がチンピラだ」って息子をチンピラよばわりする父親にうけた。
 ピアノのコンサートに2人でいった事もあるのだけど、父子で行くってあんまないよな~と思いつつ。
「おれらはたからみたら何に見えるんだろう?」って聞くと、「わしが音大の教授で、お前が出来のわるい教え子だ」って。
 父は読売ジャイアンツが好きだった。たまに球場に運ぶとかなりの確率で巨人が負けて、もう二度と来ないっていつも文句を言ってた。
 去年もマツダスタジアムに初めていったけど、カープの選手が凡退すると「よし!」と真っ赤に埋め尽くされた中でもおかまいなしで声をあげた。でもやっぱり2-1で負けちゃった。
 父とはいろいろな思い出がある。たくさん話もした。父は人を思いやる事の大切さを私に教えてくれた。
 加齢とともに意気地になったり、煙草を吸うことをやめなかったり、その辺から身勝手さも感じ嫌に思う事もあった。
 でも今思うと、そうして嫌いな面も持たずに大好きすぎなまま父の死を迎えたらショックも相当だったと思う。
 親の死を迎える状況というかタイミングでいわゆる精神的なダメージって違うよなって思う。
 10年前ならもっとショックを受けてたと思う。
 父の事が大好きだった10代、20代の頃だったらなおさら。
 なかなか立ち直れなかったかもしれない。 
 病死は、日々の中で弱っていく姿などを見て、日々悲しみつつも少しづず死の予感を感じ最終的な死のダメージはうすれるのかもしれない。
 遠くで事故死とかだったら、ましてや遺体に対面していなかったら死というものの実感もわかないのではないかと思う。
 また逆に、重度の認知症等になり、もうその人格もみえなくなってきて、介護とかに疲れて思ってはいけないような事も思う悲しすぎる局面もきたかもしれない。
 私自身、最後まで側にいて世話ができたし、父が入院中に対応できなかった事も父に代わってしたし、できる事はすべてしたという思いがありほとんど悔いというものはない。
 そういう風に考えていくと、幸福な父の死との向き合い方だったのかもしれない。
 父が退院し在宅になった事を考えて、中古の福祉車両も購入した。その車を取りに行った翌日に亡くなっちゃうんだもんな。 
 父は私たちに負担をかけたくなかったのかなってしみじみ思う。
 
 父の葬儀も終わり、初めての出勤の朝を迎えた。
 朝、父はいつも保育園に行く娘を見送っていた。5歳になった娘に「爺ちゃんのお見送りがなくなっちゃったね。パパも爺ちゃんに会いたいな」っていうと「(私は)夢であったよ。じいちゃん笑ってたよ」って。「今もお空で笑ってるのが見えるよ」という娘の言葉に驚き、そして癒された。
 父は優しい人だった。私は父の愛を疑った事がない。これほど幸福な事は子供にとってないのではと思う。私は父の子として生まれて幸福だった。


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1 コメント

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☆☆☆さんへ (Amber)
2016-06-30 21:17:57
送信コメント読みました。暖かな内容でうれしかったです。
(コメントのせずにお返事させて頂きました)
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