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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の初見感想 ネタバレあり(でも深さはないと思う・・・)箇条書き的な

2021年03月13日 | 映画・ドラマ
 
 エヴァンゲリヲン新劇場版が2007年から4部作として公開が始まり、2012年のQから9年を経ての公開。9年も経ったんだと思いつつ、2021年3月12日に劇場に行った。自分自身でも、こうしてBlog記事を書いたり、何度も見直したりして、エヴァンゲリオンという作品をさらに深めた9年でもあった。実際に物語が始まり、画面に没入しながら「ついに終劇を向かえるんだな」という思いに包まれ、そしてどのようなエンディングを迎えるのだろうかという思いを持ちながら物語に釘付けだった。自分の年齢も考えると、こんなに長き付き合いになる作品ってもうないだろうなとも思う。

 先行公開もされたパリでの戦闘シーンから一気に引き込まれる展開。そして彷徨するアスカ、レイ、シンジの3人。この辺は『Until You Come To Me』の雰囲気に似てる。もしかしたら、当初、Qの最後にこのシーンを持ってくる予定をとりやめ、この最終劇のオープニングにしたのかも。そして、多くの人が驚いたと思う地上にできていたコミュニティー。それも原始的な感じの。Qでは、サードインパクトにより地上はコア化(←コア化って書いてるけど、コア化って何なの?)して人が住めるような状態ではなくなっており、生存者はヴィレの集団だけだと思っていた。地上に住めるところはないので、ヴンダーや大型戦艦の中で浮遊しながら生活していると思い込んでいたら、地上に昭和的な農村的な村落があるという(これも庵野監督の少年時代を過ごしたイメージを投影している感)。一旦、ヴンダーや戦艦に避難していた人を住める状態になったこの地で降ろしたという事だと思うけど。ここで綾波レイを軸にありふれた日常が描かれるという想定外の展開。

 エヴァンゲリオンって一度というか、何パターンかで終劇を迎えている。TV版でも、不完全、未消化といわれつつも終わっている。その不完全な理解しにくい終わりで不満をもったファンのフラストをみたすべく1997年、劇場版『Air /まごころを、君に』が制作され、そこでもエンディングが描かれた。そして14巻に及ぶコミックでもエンディングを迎えた。
 今回、あらためて新劇場版として4作に渡って描かれたものの最後は、丁寧さはあったけど、斬新さとインパクトはなかった。それぞれで迎えているエンディングをミックスさせてわかりやすく我々に見せたという感じ。そこはエンターテイメント作品というより、庵野秀明という人が描く文学小説だった。虚構と現実をリンクさせる、紡ぐという所も意図しているのか。その感じって酷評されたTV版のエンディングに似てる。でも結局、庵野監督が言いたいのはそこじゃないのとも思った。TV版のエンディングと趣が似てると思った。私としては、エンターテイメント作品としてのエヴァンゲリオンで終えて欲しかった。制作者サイドも、この終わり方でもめなかったのか!?でもエヴァンゲリオンは庵野秀明氏の作品だからおれるしかなかったのか、全員納得の上でこうなったのか。

 インパクト度でいえば旧劇場版の『Air / まごころを、君に』の方がすごかった。レイが地球規模で巨大化したり、人類がLCL化して一つの液体となるという。今回も巨大化描写あるけど、それって以前見てるからな。人類の大半もエヴァ化(巨大化)しているわけだけど、巨人というか巨大化に深い意味があるのか?あと、マイナス宇宙とか、こう次元を超えていく感じは、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』がよぎった。

 アスカが使徒化してるという考察している人がいたけど見事。アスカは過去の記憶を引き継いでいるのかどうかがよくわからなかった。
 
 マリの存在は、どんどん大きくなってきている。その正体というか、碇ユイとの関係はコミックでも描かれているけど、シンジとの絡みの意味合いがよくわからない。『破』での加持とのやりとりを見るとマリもヴィレなのか。マリの巨乳アピールは、おパイ=母性の意味合いも感じた。
 
 加持とミサトが結ばれていたのはさほど驚かなかった。でもその子どもが、シンジ君に似てると思ったんだけどなんで??シンジ君を引き金に覚醒した初号機がサードインパクトを起こしますが、カヲル君のマーク6から放たれたカシウスの槍でサードインパクトは終息したと思っていましたが、サードは、加持リョウジが自身の命と引き換えに止めたとあった。そして「ニアサード」という完遂していないサードインパクトの表現が使われている。やはり、シンジ君がトリガーとなって起きたサードは、未完遂のサードインパクトで、空白の14年の時に、ゼーレかネルフにより、セントラルドグマ内でサードインパクトがもう一度起きたと思われます。
 あと、衝撃をうけたのは、加持ちがカヲルのことを渚司令と呼んでいたこと。『破』でシンジたちは友達と加持に『海洋生態系保存研究機構』に招かれ、青い海とそこで生きている生命を目の当たりにする。この『海洋生態系保存研究機構』がヴィレの関連施設だと思う。でカオルはゼーレの少年と言われていたけど、ヴィレの人間だったの??この辺も”空白の14年”の中の話だと思う。
 空白の14年はほんと1作品制作できる内容だと思う。庵野監督は、やる気がないと思うけど、他のスタッフはやる気満々だったりして。

 最終作を見に行くに当たって、あえてQは外し、『序・破』と旧劇場版『Air / まごころを、君に』は必須ではないかと思う。

 劇中の挿入歌も、これまでも「翼をください」や「今日の日はさようなら」が意表をつくところで使われて、馴染みのある歌だけに心をつかまれた。今回も、レトロなTasteで「真実一路のマーチ」「世界は二人のために」や吉田拓郎や松任谷由実の曲が使われている。この辺りは庵野監督の青春ソングなのかな??ここでも庵野監督の美学がちりばめられている印象。正直、馴染みもないので心にひびかなかった。

 庵野監督は、現代社会のアンチテーゼもエヴァンゲリオンに盛り込んでいると思う。そしてベースの主張は、人間、個人と他者の関係性なんだと思う。他者がいるから、人は比較され、優劣をつけられ苦しむ。行列や渋滞なんか遭遇したとき他者を疎む。今回のコロナ禍でも身勝手な行動をしている他者に憎悪もしている。一方で、他者がいるから自分というものも見えてくる。他者がいて共感できたり、お互いを認め合えたとき、喜びを感じる。他者との競争で勝つと、よい社会的な待遇を得やすくもなる。他者がいないと自己が明確にならないのである。自分と他者の距離感を、ATフィールドという表現でずっと描いているとも思う。旧劇場版では、苦しむ必要もなくすため人類は元に還って一つになった。しかし、人類の未来の選択肢を委ねられた碇シンジは、苦しくとも他者と個人がいる世界を望み選んだ。そして世界は再構築された。

 2021年3月22日(月)にNHKにてプロフェッショナル仕事の流儀『庵野秀明スペシャル』放送決定 (3月22日(月)NHK総合 午後7:30~8:45)。



 今回のファイナルを見て、エヴァンゲリオンと庵野秀明監督は、リンクしていると思った。作品中の、碇ゲンドウは自身を投影しているのではないかとも思った。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を紐解くのにこのドキュメント番組を見る事は必須ではないかと思う。

 SNSとか映画評とか眺めていると、終わらせてくれて感謝とか、スッキリしたとか、庵野監督へのねぎらいの言葉が多い。酷評する人は、庵野監督自身へ向けられている。まあそこはオレも感じたよ。なんで宇部新川駅が出てくるかなと。それも実写として(そこも庵野監督の意図だけど)。2007年から新劇場版として14年かけて再構築して作り上げた着地の仕方が、結局、今までと変わっていない感。観客動員は、それなりに好調な出だしだけど、今後、先般の『鬼滅の刃 無限列車編』の動員数には遠く及ばないと予測する。エヴァンゲリオン自体、難解な物語だと思うので老若男女の幅広い層を取り込んで、多くの人が共感できる作品ではないと思うから。
 NHKのプロフェッショナルは、録画をミスって最後の奉方しかみれていないのですが、庵野監督は、魂をけずってヱヴァンゲリヲンを制作したと。
 TV版のエヴァの最後を不満に思うファンのフラストを満たすべく、1997年、劇場版『Air /まごころを、君に』を壮大なスケールで制作した。それでも、庵野監督はまたエヴァを再起動させた。その動機をよく知らないのだけど。自分の中でまだ未消化的な思いがあったのか?それとも普通にビジネス的な面もあったのか。だってエヴァはめちゃくちゃ金になる。日本アニメ史に何かを残したかったという思いもあるのか。
 2007年から新劇場版・エヴァンゲリヲンがスタートしたけど、その時、すでにエンディングのプロットもできあがっていたのだろうか?ある程度、出来上がっていなければ、再起動はしないと思うのだけど。でもその過程で、若さビンビンの感覚でドキドキ、ワクワクしながら制作したというより、苦悩の末生み出された、60歳に到達したCreaterが生み出した作品のように感じた。最後は、エンターテイメント作品というより文学小説的な趣でのエンディングだった。

 AMAZON PRIMEで2回目を見終えた。初回見では、サードの後に地球上に住める場所などないと思っていた所での「第三村」の登場の衝撃で没入していたけど、今回あらためて見たとき、第三村での描写がけっこう長いなと思った。でも物語とキャラクターに深みを出すためには必要か。
 そして槍の意味も考える。これまでもロンギヌスの槍、カシウスの槍と出てきた。さらに今回は、ガイウスの槍というものも登場。さらにそれはエヴァ(あるいはヴンダー)の脊椎的なものから作っている。とてつもないエネルギー的なモノを解放したり、抑制したりするという事で使用されている。でもなぜ槍なのか。刺すという所に意味があるのか。刺して何かを注入して、変化を起こすって、なんかワクチンみたいだなとも思った。結局、この槍がなければ、エヴァの物語は進まなかった。




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