ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

シロウト考え休むに似たり(3)「痛みを伴う(国会)選挙制度改革」を考えちゃったりする。

2015-11-27 18:50:54 | Weblog
民主主義の基本は直接民主制と教わった記憶が

 「民主主義の最もよい形は、物事を決めるにあたって、その社会の成員がすべて参加して議論し、多数決で決める直接民主主義である。しかし、それができるのは数十人、せいぜい数百人までの社会で、国家のような規模になるとそれは不可能なので、近代以降の民主制国家はすべて、国民の中から代表を選び、その代表たちによる議論と多数決によって物事を決める間接民主主義を採用したのだ」という説明を、小学校の社会科だったか中学校の公民だったか高校の政治経済だったかの授業できいたことがあります(ものすごいうろ覚え)。それはそのとおりで、日本ならば約一億人の有権者が一同に会して議論することなんかできるわけがない。だから、すべての有権者が参加する選挙で代表(つまり議員ね)を選び、その人たちに政治の決定をお任せしよう、ということになるわけです。

「定数削減=政治改革」は疑問

 で、今日、国会とその周辺では、昨今の錯綜した政治状況をなんとかするため、「痛みを伴う選挙制度改革」が政治改革の「本線」として語られているわけですが、その基本が「議員定数の削減」というのが、シロウトの私にはよくわかりません。議員を削減することが政治改革だ、という人々もまさに国会議員だったりするわけですが、つまり、政治家仲間の数が減るのが「痛み」ということなのでしょうか。でも、現に国会議員である人は、世界的に見てもものすごく高い収入がそのまま保証されるわけで、ちっとも痛くなんかありません。議員の数を減らすと「痛み」を感じるのは、本当はだれなのでしょう。

「定数削減=国民の多様な意見の切り捨て」になるのでは

 正直言って、国会議員定数の削減が「改革」になるとは、私には思えません。議員の数が減るということは、私たち国民の代表が減る、ということです。国民の多様な意見や考えをなるべく国会に反映させるためには、議員の数は多ければ多いほどよい、という考え方だってできると思うのです。
 そもそも、議員の数は少ない方がよい、というのなら、行き着く先は、国民の多数が支持する一人の政治家を選び、その人に一定期間好きなように政治をやらせればいいんじゃね? ということにもなりかねません。それは、かつでのドイツがやらかしてしまったことと同じですよね。
 「能力に疑問のあるデタラメな政治家が多すぎる。だから議員は減らすべきだ」「議員が多すぎるからいざというとき物事がスピーディーに決められないのだ」というのは、気持ちはわかりますがやはり短絡的です。民主主義というのは、その性質上「哲人政治」ということにはなりませんから、ときにはアヤシイ人物が国会議員になってしまうことだってあります。また、多様な議論をなんとかまとめ上げるには手間だってかかります。そういうリスクもあることを理解しながら運用するほかないのが「民主主義」というシステムだと思うのです。そういうのがめんどくさいから、だれかスゴそうな人に何もかも任せたい、というのは、まさに「自由からの逃走」です。そういう方向性の行き着く先は、ほら、私たちのわりと近い先祖がひどい目にあったあの時代へと向かう「いつか来た道」なのではないでしょうか。
 議員の数を減らすことで痛みが伴うのは、国会議員や政党ではなく、自らの代表を減らされることによって多様な意見や政策を国会で議論してもらう権利を失う国民のほうではないか、という気がしてなりません。

「定数削減」ではなく「歳費削減」で議員の数を増やした方がよい

 そもそも、定数削減論議は、税金の無駄遣い、つまり「カネ」の問題から始まっているようです。それなら、定数削減ではなく、国会議員の給料=歳費を削減すればよいではないか、と私は思います。
 だいたい、国会議員が「特権階級」のようになっていることが問題なのです。前述の通り、国会議員の歳費は、一年で約二千二百万円。日本以外の先進国と比較しても、明らかに高額です。その他、領収書のいらない文書通信交通費が年千二百万円、さらに政党交付金からの給付もあります。少なくとも、歳費を半分にしてしまえば、議員数を削減しなくてもよいし、逆に増やすことだって可能になります。歳費は半分でも年収一千万円は超えますから、十分な収入でしょう。それが少ないなんて言ったら、それこそ国民に怒られますよ。ついでに、文書通信交通費の使用については、すべて領収書の提出を義務づけ、中身をしっかり監査し、アヤしいものは支出を認めず、余ったら国庫に返納することにすれば、さらに無駄な支出が減ります。そのうえで議員定数を増やせば、「一票の格差」問題で矢面に立たされている人口の少ない選挙区からも議員を選出することもできます。これなら、多くの国民も納得してくれるのではないでしょうか。

 以上、毎度変わらぬ浅はか極まるシロウト考えまき散らしの乱筆乱文、どうかお許しを。事実誤認や明らかな間違いなどある場合は、やさしくご指摘をm(_ _)m。

シロウト考え休むに似たり(2)TPPから日本の農業を考えちゃったりする

2015-11-20 11:44:02 | Weblog
 先週からボケ防止も兼ねて始めた新シリーズ「シロウト考え休むに似たり」。今回は、最近巷(の一部)で話題のTPPから、日本の農業を考えちゃったりします。

人間、誰だって自分が大事

 連れ合いからよく、「あなたは本当に自分のことしか考えてない人だね」と叱られます。夕食のときなどに、台所で料理の支度をしている連れ合いを尻目にメールを打っていたり、ビールを飲むのに自分の分しかグラスを用意しなかったりしたときなどに言われます。確かに、それはまずいと自分でも思います。しかし、それは決して悪気があってしているのではありません。ついつい、自分のやることや行動にのみ意識が集中し、他の人(連れ合いを含む)のことまで気が回らないためにそのようなことになってしまうのです(とてもいいわけがましい)。もちろん、このような性格はほめられたものではないですから、何とか改善したいとは思うのですが、なかなか直らないのが辛いところです。
 とはいえ、人間誰しもそういうところがあるのではないでしょうか。自分と自分以外の人とを秤にかければ自分のほうが大事に決まっていますし(そうでない人ももちろんいらっしゃるとは思いますが)、自分優先で物事を考え行動するのは、大方の人がそうではないかと思います。「貧すれば鈍する」という慣用句がありますが、ふだんは思いやりに満ちあふれている人でも、いざ自分の生活や生命が脅かされるような追い詰められた状況に陥ってしまえば、他人のことなど構ってはいられなくなる人のほうが、やはり多いのではないか、と思います。

農産物は、ほかの経済物品と同列には扱えない

 話は飛びますが、だから、環太平洋戦略的経済連携協定(ウィキペディアでそう書いてました。早い話がTPP)への日本の参加について、私はつい「大丈夫かいな」と思ってしまいます。
 国際貿易や国際経済については全くのシロウトなので、新聞等での報道を読んでも、どこにどういうメリット・デメリットがあるのか今ひとつ理解できないところがあります。ただ、私が単純に気になるのは、農産物の関税を撤廃し、輸出入を自由化しよう、という発想です。
 私たちが生きていくために必要な最も基礎的なものは何か、と問われれば、それは当然食糧に決まっています。その食糧を、そのほかの工業産物というか商品と同様の経済物品として扱うというのが、私にはどうも納得できません。
 農民運動家の堀井修さんは、農産物自給を「食糧安全保障」という言葉で説明しています。私もその考えに賛成です。食糧は自分や自分の所属する社会が生存・維持されるための基礎として考えるべきで、それをそのほかの工業製品と同様に扱うのは誤りだと思うからです。食糧の基本は「自給」です。TPP参加は、日本における食糧自給をさらに難しくするという点で、あまり利口な選択ではない、と私は考えます。

「世界同時不作」が起こったら、日本はどうなる?

 アメリカやフランスなど、先進国の中でも農業自給率や輸出率の高い国は、実はものすごく自国農業を保護しているというのはよく知られています。それは当然で、自国の食べ物は自国でまかなうのが、実は安全保障の基本のキであるからで、さらに余剰の農産物を、「戦略的に」日本のような自給率の低い他国に輸出し、結果としてそれらの国を間接的に支配する道具として使っているわけです(これは言い過ぎかな)。少なくともすでに日本の現状は、アメリカやオーストラリア、そして中国のような食糧生産国との関係を断ち切ることは、現実として不可能な状況に陥っています。これでさらにTPPに加われば、どういうことになるのか。
 そもそも最近も、アメリカやオーストラリアでは異常気象のために干ばつや大雨や山火事などがあいついで起こり、トウモロコシや大豆などが不作に陥った、というニュースが報じられました。「TPP加盟国と自由貿易で仲良くしていれば、日本の農業なんか滅んでも大丈夫」とエライ人たちが思っているのかどうかは知りませんが、もし、世界的規模での不作や凶作が発生すれば、それまで日本に農産物を輸出してくれていた国も、当然自国の国民のためにそれを回すことになるでしょう。自国民を飢えさせながら、貴重な食糧を金儲けのために他国に輸出する国などあり得ませんから。そうなったとき、すっかり農業が衰退しきった日本は、どうやって食いつなげるというのでしょうか。

農民の皆さんは、尊敬されて当然の存在

 だから、農協の皆さんがTPP反対を訴えるのは当然です。もちろん、日本の農業の現状にもいろいろ問題はあるのでしょうが、それは、日本人の農業・農業者に対する意識の低さというか、ある種の「差別意識」(これも言い過ぎかな)にも原因がありそうな気がします。
 何しろシロウトなので、無茶なことを言ってしまいますが、私は、農業従事者は、いっそのこと「公務員」でもよいと思っています。社会の維持に欠かせない食料を生産してくれる農民の皆さんは、それだけで尊敬に値するし、尊敬されなければなりません。その方々とその仕事に敬意を表し、一定以上の収入を保障するのは、当然のことだ、とわたしは考えます。
 とはいえ、農産物はすべて完全自給であるべきだ、とまでは言いません。日本ではほとんど生産できない農産物だってありますし。ただ、日本社会に根づいている大切な食文化を維持していくための大切な農産物は、当然ながら自国のものでまかなうべきです。そのような重要な使命を担う農業従事者の皆さんは、社会的地位も収入も、もっと高くあるべきだ、と私は思うのです。

「強い農業」より「命をつなぐための農業」

 TPP参加を、「日本の農業に活力を与え、世界に通用する強い農業・農家を育成するためのチャンスだ」と考えている人も大勢いるようです。私が購読しているA新聞も、世間では「リベラル」と考えられているようですが、ことTPPに関してはけっこうイケイケで、農産物だってその他の工業製品と同じ商品だ、という主張を記事ににじませています(それをはっきりとは言い切らないところがまたイヤらしい)。私の上記のような心配も、杞憂である、と切って捨てられそうな気配です。
 しかし、「国際的に通用する強い農業」を展開できるのは、国土面積がものすごく大きく、農地も広く確保できているごく一部の国に限られます。日本の農家がどんなにがんばっても、スケールメリットはないわけですから限界があります。「高くても売れる、質の高い農産物を作ればよいのだ」という主張は、品質の高さを標榜していた日本の工業製品輸出がすっかり衰退している(すべてがそうだとは言いませんが)現状を見ても、とても信用できません。ついでに言えば、農産物を、単なるカネもうけのための物品の一つに過ぎない、と言わんばかりの言い方が私にはそもそも納得できません。
 そういうことではなく、繰り返しになりますが、とにかく自国民に食べさせるだけのものは自国で安定的にまかなうことのほうがはるかに重要だとわたしは思います。農産物は、基本的には生存ための基本的産物であり、「カネもうけ」の道具ではないのです。なんのために「国家」があるのか。それは、そこに所属する人びとの生存を保障するためにあるのではないでしょうか(いや、国家とは一部の人が権力をほしいままにするための巧妙なシステムだ、という考えもあるでしょうが、ここではそこは言及しません)。自国民を飢えさせない。そのためには、TPPは極めて危険な仕組みなのではないか、とわたしは思います。

 以上、前回同様シロウト考えまき散らしの乱筆乱文、どうかお許しを。事実誤認や明らかな間違いなどある場合は、どうか怒らず、やさしく指摘してくださいm(_ _)m。

シリーズ「シロウト考え休むに似たり(1)」新潟市のBRTを考えちゃったりする

2015-11-13 13:15:41 | Weblog
 当方最近、文章を書く機会がとても少なくなっている今日このごろ(すでに時制が変)。ただでさえ文章がヘタなのに、このままではさらに書けなくなり、しまいには脳の働きもどんどんアヤしくなっていくのではないかと不安に駆られた結果、とりあえず思いついたことをなんでも文章にしてみようということで、あんまり更新もしていなかったこのブログを使い(何しろ読者がとっても少ないのがよいですな)、ボケ防止も兼ねて「シロウト考え」をこっそり撒き散らそうと思った次第。
 で、今回のテーマは「新潟市の新交通システム・BRTを考えちゃったりする」。まあ、適当にお付き合い願います。



路面電車が走る街は魅力的

 そもそも私は、新潟の町には路面電車を走らせるのがよいと思っていました。かつて新潟には、県庁前(今の市役所前。廃止直前のときは白山前)から燕までを走っていた新潟交通電鉄があり、関屋から県庁前までは路面電車となっていましたし、現在の三代目万代橋は、路面電車を走らせることが前提となっていて、たいそう丈夫に作られているということです。この際、新潟の街中にも路面電車を走らせたら、さぞかしけっこうな感じだろうと思ったのです。
 全国を見回してみても、北は札幌から南は鹿児島まで、魅力があるとされている都市には路面電車が走っていることが多いようです。広島や鹿児島の路面電車、そしてお隣富山県は富山市のLRTに乗ったことがありますが、窓の外を眺めながら、町中をのんびりと走る電車に揺られていると、単なる移動ではない楽しさを感じたものです。
 まあ、そのようなことを考えている人はたいへん多くいらっしゃるわけで、そういう意味では、私のこうした考えは、大変ありふれたものです。

結局バスかよ、のBRTにがっかり

 だから篠田昭・新潟市長が、新潟の新交通システムをBRT(バス高速輸送システム)とする、と決めたときは、少なからずがっかりしました。連接バスを導入して、それを新潟の都市公共交通のシンボルにする、というふれこみでしたが、結局は道路交通の枠というか制限内の、路面電車とは似て非なるものですらない、「似てなくて非なるもの」ですから、新潟の都市交通がそれによって大きく変わるとも思えなかったからです。
 ただ、BRT導入に当たっては、「専用レーンを設置し、そこを走らせる」という話でしたから、そこにはそれなりに期待しました。他の車は原則走れないレーンを走るのならば、一定程度の定時性が保てそうですし、一般のバス停ではない専用の「駅」が設置されれば、それなりに路面電車的な形にはなるかな、と思ったのです。
 だから、専用レーンを設置しない、道幅の狭い白山の旧電車通りに連結バスを走らせる、ということになったときに、こりゃダメだ、となるのは仕方ないことでしょう。
 新潟市民や新潟市議会議員の中には、「BRTはお金のムダ。様々なトラブルも発生していて、今後の定時性も確保できない。そんなものはやめよう」と考える人も大勢いるようです。BRT廃止の住民投票を求める署名活動も始まりました。確かに、現状のままならまさにその通り。乗り換えの手間も相まって、むしろ今までのバス路線のままのほうがはるかに利便性が高いではないか、という主張はもっともです。

それでも、魅力ある公共交通機関が、街の魅力アップには必要

 だから、BRTはやめたほうがよい、とは、実は私は考えていません。少なくとも中心都市軸に、魅力ある公共交通手段は、やはり必要だと思うのです。新潟市の場合、まあ、新潟市だけではないのですが、JRのほかの公共交通機関はずっと路線バスだけ、という状況で、残念ですが、それが新潟市の魅力アップにつながっているとはとても言えません。
 実は、こういった問題は、本当は財政にまだ余裕のあった四十年前、せめて三十年くらい前までに解決しておかなければならなかったのだと思います。当時の新潟市行政は、「物質的なハコモノやインフラよりも福祉だ」という流れでしたから、やむを得なかったのかもしれません(当時中学・高校生だった私も、実はそのように考えていました)。しかし、後出しじゃんけんのようで申し訳ないのですが、今から考えれば、「まちづくりも福祉」だったのではないでしょうか。そのころ、もし仮に、駅南と駅北(万代口)を貫通する道路を整備し、新潟交通電車を廃止するのではなく、逆に、柾谷小路を通って萬代橋を渡らせて新潟駅前まで延伸させる、というようなことがあったなら、今の新潟の街は、住民にとっても住みやすく、よそから訪れる人にとってもたいへん魅力あるものとなっていたのではないか、と思います。
 前述の通り、それこそ四十年前と同様に、BRTにも「税金の無駄遣い」という批判が浴びせられています(繰り返しますが、その批判自体はもっともな部分も多いと思います)。ただ、四十年前に行うべき都市整備を行ってこなかったツケが、今日のこの状態を生んでしまったのではないか、とも思うのです(途中で途切れている、沼垂の東港線バイパスを車で走ると、そういう思いがさらに増します)。それは、鳥屋野潟周辺整備なども同様です。
 だからこの際、不十分なものであることは承知の上で、BRTを新潟市の魅力を高めるためのツールとして使っていくのはどうか、とわたしは思っています。

BRTの現行ルートは無理がある

 ここでは、BRTを「連接バス」とイコールのものとして述べていきます。
 BRTに反対ではない人たちからも、運行開始時のBRTのルート設定自体に問題があったのではないか、という意見が多く表明されています。私もその意見に賛成です。
 そもそも、今まで走らせたことのない乗り物を走らせるわけですから、慎重な運行実験をじっくり行ったうえ、なるべく走らせやすい運行ルートを設定し、その上で無理のない運行計画を立て、という手順が必要なはずですが、今回の運行開始は誰がどう見ても拙速でした。篠田市長には、連接バスをどうしても柾谷小路、早い話が古町界隈に、なるべく早い時期に走らせたい、という思いがあったのかもしれませんが、いきなりそれは難しかった、と言わざるを得ません。しかも、そのルートの西側は白山の旧電車通りを通って青山のイオンに至る、というもので、あえてこのルートにしたのは、かつての新潟交通電鉄のルートを再現したいという思いも見え隠れしますが、今の旧電車通りの道幅など考えれば、やはりいろいろ無理があります。これはやはり、ルート設定を間違った、と指摘されても仕方がないでしょう。

BRTルート、こんなことを考えてみました

 では、新潟市の中心都市軸を走り、街の活性化につながり、市民の利便性も高まる、よりよいルートとは? それはやはり、そこにBRTが走る必然性があり、しかも道幅が広く、「駅」の設置が可能なルートでしょう。
 で、わたしは、こんなふうに考えてみました。
(1)駅南~鳥屋野スポーツ公園~新潟市民病院ルート
 このような条件を満たす道として最初に挙げられるのは、やはり「駅南~鳥屋野スポーツ公園~新潟市民病院ルート」でしょう。おそらく皆さんも同じことをお考えだったのでは。
 確かに、周辺の商業集積や人口は現行の「萬代橋ルート」より少ないかもしれませんが、今後の発展が一定程度見込めるエリアを通過するうえ、専用レーンや駅を設置するだけの道幅もあり、また、サッカーJ1アルビレックス新潟の試合時には、県内外のファンを乗せて走らせることができますから、いわゆる「宣伝効果」も期待できます。そもそも鳥屋野潟南岸エリアは、新潟市に残された数少ない「発展可能エリア」です。ここにルートを設定するのは、かなり「あり」なのではないでしょうか。今なら交通量もさほど多くないので、運行の「練習」をするにも最適です。
 ついでに、このルートの枝線として、「新潟駅南~姥ヶ山~イオン新潟南ルート」を設定すれば、市民のショッピングの足としても有意義に使えるのでは、と思います(郊外型巨大ショッピングモールの是非についてはここでは言及しません)。
(2)蒲原町~新潟駅~市役所ルート
 もう一つ考えたのは、まさに新潟市の中心都市軸を通る、「新潟市役所~古町~新潟駅~蒲原町(もしくは栗の木バイパス沼垂東4丁目)」というルートです。これも、すでにお考えの方が多いのでは。
 路面電車が走るあらゆる都市は、路面電車はその都市の中心部を貫通しています(東京の都電はまあアレですが)。BRTを新潟市のシンボル的交通機関としたいのなら、そのルートに走らせる、というのが基本でしょう。篠田市長も、だから現行ルートを考えたであろうとは思います。
 しかし、現行ルートには、これまで指摘してきた種々の問題があります。それならば、市役所から青山までのルートはとりあえず連接バス運行はあきらめ、街中ルートでの運行にしぼったほうがよいと思うのです。
 このルートの道路は、比較的道幅も広く、ギリギリではありますが専用レーンや駅の設置が可能なのではないか、と思います。何より、新潟駅を中心に、旧新潟市の東西の中心街を結ぶことになるため、古町とともに近年再評価が進む沼垂エリアの活性化にもつながります。

郊外路線バスは古町終点に戻すのが吉

 さて、現在のBRT運行上の問題として、「街中の路線バスがBRT化されたため、青山や市役所前、新潟駅での乗り換えを余儀なくされ、古町へ行きづらくなってしまった。そのため、古町繁華街や本町市場を訪れるお客が減ってしまった」という深刻な状況が生じていることが指摘されています。
 これはそもそも、郊外バスはすべてBRT新潟駅前停留所・青山イオン前停留所で乗り換えさせる、というやり方に無理があったからでしょう。そういう乗り換えは、電車網が発達している街ではあたりまえなのでしょうが、新潟市の郊外やその周辺市町村に住む人など、長年古町直通のバスを愛用してきた人びとにとっては、不便でしかありません。
 だったら、BRTと郊外路線バスを、いったん切り離して考えるしかないのではないでしょうか。路線バスは路線バスとして、BRTはBRTとして、別の乗り物として取り扱うべきだと思います。郊外路線バスは、これまでどおり古町を終点とする。そのうえで、さらにその先に行きたい人はBRTに乗り換えればよいのです。古町活性化を狙うなら、郊外路線バスとBRTの古町での併存が大変重要な要素になるのでは、と思います。まあ、これも皆さんすでにお考えのことと思いますが(ちなみに、すべて郊外バスは古町終点にせよ、といっているわけではありません。路線の状況や必要性に応じて、青山もしくは新潟駅止まりのバスを一部存続させるのは問題ないでしょう)。

始めちゃったものは仕方がない、ということではないのです

 いいわけがましく言いますが、以上の主張というか提案は、「なんやかや言っても、BRTはもう始まっちゃったんだからどうせ止められないし、だったらそれを使ってどうするか、を考えるしかないんじゃね?」ということではありません。冒頭に書いた通り、私はもともと、新潟には路面電車を走らせたい、という考えの持ち主です。
 地方都市はどこも、交通手段が自家用車ベースとなっているわけですが、そうした現状は、今後のエネルギーシフトの問題や高齢化・少子化に伴う自家用車需要縮小の中、やはり変えていくしかないのだろうと思います。その際、自家用車に代わって、誰もが使いやすく、さらに、街の魅力も高めてくれて、その街に住みたい、何度でも訪ねてみたい、と思わせてくれるためのツールの一つとしての公共交通機関の存在は、意味があるのではないでしょうか。BRTは確かに、路面電車と比べれば、中途半端で不十分なものです。しかし、運用の仕方によっては、しばらくはそれなりに「使える道具」となる可能性がある、と思います。そして、それをきっかけに、改めて新潟都市圏の、交通を含めたまちづくりの将来像についての議論も生まれてくれば、それはそれでよいことなのではないか、と思うのです。

 以上、「思います」がやたら多い乱筆乱文、シロウト考えまき散らし、何とぞご容赦願いますm(_ _)m。