ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

シロウト考え休むに似たり(14) 「信仰」としての原発推進について考えちゃったりする

2016-07-04 22:39:05 | シロウト考え休むに似たり
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 東京電力の新潟県限定のCM、各方面から批判されてますねえ。先月の朝日新聞でも取り上げられてました。にもかかわらず、件のCMは未だに各テレビ局で放映され続けてます。何が何でも原発再開をめざす東電の「腹のくくり方」が感じられます。
 あのCMでは、マジメそうな東電社員の皆さんが、「万が一」の事故が起きたときのために、一生懸命さまざまな作業をやっている映像を流しつつ、「福島第一原発のような事故を二度と起こさない決意で……とりくんでいます」というナレーションが流れます。ここで私が注目するのが「決意」という言い回しです。
 「決意」って、つまり心構えというか、精神論ですよね。


事故を起こさない「決意」はしてるけど、それでもダメならゴメンなさい、ということか

 ということは、論理的には、このようなことになるような気がします。
 「私たちは、原発事故を二度と起こさないように決意し、日々、想定しうる最大の災害等に対処するため、できる限りの努力をしています。が、その想定を上回る事態が出来したときは、もう私たちにできることはありません。だから、そうなったら、もはや私たちの責任ではありません」。
 これは東電だけのことではなく、活断層や火山がすぐ近くにある川内原発を再稼働させた九州電力や、川内原発と同様に、すぐ近くに活断層が通る伊方原発を持つ四国電力、高浜原発の廃炉期限延長を狙う関西電力、ひいては全国の電力会社が共通して考えていることでしょう。
 原発立地は、幸運にも事故を起こさなかったとしても、廃炉後も強烈な放射能のために、人間がほぼ永遠に立ち入れない「禁足地」となってしまうわけですから、「便利なものにはリスクはつきもの」などといった浅薄なリスク論で片づけられるものではありませんし、そもそも、私たちはすでに、福島の破局事故を経験してしまったわけです。あってはならないことですが、ミサイル等で狙われたら、実際上対処のしようがないとも言われていますし、上から降ってくるもの、例えば航空機の墜落などには耐えられないそうです。そんなヤバイものに頼らなくても、安全で低リスクの自然エネルギー発電も、実は十分に商業ベースに乗る成熟技術となっています(これは飯田哲也さんのお話を参考にしています)。にもかかわらず、電力各社はなんでこんなにも原発を維持したいのでしょう。

原発推進=「祟り神信仰」なら腑に落ちる

 ここまで考えてから、私は、ふと、このようなことに思い至りました。
 原発を推進したい、と考えている電力会社や関係者は、事故を起こしたときの取り返しのつかない事態や科学的・技術的な限界といったものとは関係なく、いわば「信仰」の対象として原発をとらえているのではないか。そしてそれは、古来からの日本人の宗教的伝統の一つである「祟り神」信仰なのではないか
 菅原道真を祀った天神さま(天満宮)を代表として、日本人は、人々に災いを為すさまざまな事象(を引き起こす祟り神)を、怒りを静めつつその神威の恩恵=御利益を得るため崇め奉り、人々から寄進を募って立派な社を築き、神の御利益に感謝し讃える祭りを行ってきました。その延長線上に原発も存在している、と考えると、いろいろ腑に落ちるのです
 御利益(この場合は莫大なエネルギーと売電収入)を得るために多大な寄進(つまり原発を運転するための税金や会社の予算の投入)を募り、立派な神殿(原子炉や原発建屋)を築き、御利益の部分だけを大きく喧伝してその「信仰」を社会に広く伝えていく。原発を推進する人々は、そのような心性を持っているのではないか、とわたしは考えるに至りました。

原発「信仰」は、21世紀の「邪教」なのではないか

 原発推進が「信仰」だとしたら、原発を推進する人々にその危険性を指摘したり、未来の人々に対する無責任な態度であると論難しても、それはほとんど無意味なことになります。何しろ、「宗教的心性」を、その信仰を持たない人間が外側から変えることは、たいへん難しいことですから。
 もちろん、どんな神を信仰しようが、それが他人の迷惑になりさえしなければ、べつにかまいません。日本における「祟り神」の皆さまは、基本的に日本の風土に即した自然神ですから、少なくともお怒りになったとき、放射能をまき散らして広い大地を永遠に破滅させるような恐ろしいマネまではしません。しかし、原発の持つ危険性の取り返しのつかなさたるや、その微々たる御利益などはるかに上回ります。そういうヤバイ物件を「ご神体」としてあがめ奉る「原発教」は、果たして私たちがその存在を認めてよいものなのでしょうか。


 諸星大二郎さんの漫画で、日本の某国際空港には、人々の目に触れないところに神社があり、そこには、選ばれた社員が高給と引き替えに神官となり、日々飛行機事故が起こらないよう祈りを捧げなければならず、神官がそのことに疑問を持ったりしたときには必ず飛行機事故が起こる、という筋の作品がありました(とり・みきさんにも同様の作品があったと思います)。それと同様なことが、現実の原発にしっかり在る、という事実に、私は驚きます。
 19世紀の産業革命以来、科学技術は飛躍的進歩を遂げ、非科学的な迷信や信仰はすっかり影が薄くなったと思っていましたが、実際には、21世紀の今日でも、そういった心性はしっかり生き残っている。しかも、その心性は、最も強大なエネルギーを生み出してくれる引き替えに、最も恐ろしい災厄をもたらすものを扱う、最高の技術を発揮すべき電力会社に強く残っている。そういう意味で、電力会社や経済界、そして有力政治家たちが厚く信仰する「原発教」は、人々を「滅びへの道」へと導く「邪教」なのではないか、と不安に思う今日このごろの私なのです。

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1 コメント

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神のご機嫌 (スナフキン)
2016-07-10 01:52:09
原発の邪教説。なるほどと感心しました。5月に玄海原発のすぐ近くまで行き、地元へのご利益をたくさん経験させてもらいました。千代田のお城の神様の大元締めは、原発神のことを邪教と見ているでしょうか?すぐに破綻しないまでも、未来の日本人に残していく、ご利益をはるかに上回る命がけの借財から、僅かなお賽銭を投げ込むだけで免罪になると信じていれば救われるのが邪教?神のご機嫌は、為政者に委ねられるはずはないのですが。
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