ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

エッセイアーカイブ㉖ 学校や社会を「汽水域」に

2021-08-15 14:54:04 | エッセイアーカイブ
「汽水域」から学びの場や社会のあり方について考えたコラムです(「汽水域」は5号で終刊したため、このコラムもこれでおしまいとなります)。

 先日、何気なくTVを見ていたところ、岡山県の児島湾で獲れるウナギが話題となっていました。児島湾のウナギは、ほかの普通のウナギよりもずっと大きく成長し、また、蒲焼きなどの料理にすると、味も大変よいのだそうです。その理由は、児島湾が、河川水が流入する汽水域で、栄養に富んでいるためだから、ということでした。そういえば、島根県の宍道湖や本県の阿賀野川河口などで獲れるシジミをはじめ、スズキやボラなどさまざまな魚介類も、汽水域という環境の中で豊かに育つことが知られています。まさに、多様な生物を育み、複雑で豊かな生態系を保つ場所として、汽水域は存在しているわけです。

 ことわざで、「水清ければ魚住まず」というのがあります。きれいすぎる水だと、むしろ魚は生きにくい、水は多少濁っているくらいの方がいいのだ、ということから、あまりに清廉すぎる人は、逆に人から親しまれない、という意味で用いられています。なるほど、わたしたち人間の世界も、あんまりきれいすぎるというか、きちっと整いすぎている環境だと、かえって息苦しい。多少いいかげんな部分が残っているほうが、なんとなく安心する、ということは実際ありますよね。

 ところで、最近の日本社会を見てみると、そうした、いい意味でのいいかげんさというか、汽水域的な「濁り」が許されないような雰囲気が高まってきているような気がします。中国や韓国・北朝鮮は日本の敵でなければならず、その国々を多少なりともかばおうものなら「反日」のレッテルを貼って攻撃する、という風潮は、すっかり定着してしまった感がありますし、ネットの世界では、それが極端な形で増幅されてもいます。そのように、わざわざ「敵」と「味方」をくっきりと二分させ、「敵」と見なした人間は徹底的に攻撃する、という「空気」が、今日の日本社会には満ちあふれている、とわたしには感じられるのです。

 全く困ったことだ、と思うのですが、実は、このような「〝区分〟して〝排除〟する」という日本社会のやり方は、今に始まったことではありません。差別をはじめとして、ハンセン病患者の隔離政策、アイヌ民族への差別など、これまでにさまざまな形で行われてきています。学校だって例外ではありません。「障がい」児の隔離教育などはその典型ですが、私たちが勤務する高校だって、「学力」により区別され、生徒それぞれの学力に応じた学校に通うのがあたりまえ、ということになっています。そういうことに疑問を持つ人は、ほとんどいないでしょう。で、その結果、自分たちが属する集団の常識が社会全体の常識であると思い込み、自分たちとは異なる人間観・人生観を持つ人がいることを想像することができない人間がどんどん生み出されることになっている、といったらさすがに言いすぎでしょうか。

 でも、実際問題として、たとえば、「障がい」のある人々とのかかわり方がよくわからない、という人は大勢います。「障がい」者が隔離され、「健常者」の見えないところに押し込められているためです。その結果、「障がい者」に対する差別意識も払拭されない、ということにもなっています。あるいは、いわゆる「学力」の高い「進学校」の生徒が、そうでない学校の生徒を見下す、という話も聞きます。つまり、多様性のない社会は必然的に差別的なものにある、ということです。

 知り合いの若い新聞記者が、自分の高校生活についておもしろいことを語っていました。大阪出身のその人は、中学校の先生の勧めに従って、地元の新設校に進学したのでそうです。そこは、学力の高い生徒から低い生徒、いわゆる「ヤンキー」な生徒まで、さまざまな生徒が集まった学校で、その人は、勉強が不得意な同級生に勉強を教えていたということで、高校生活は、いろんなタイプの生徒がいてとても楽しかった、と言っていました。いい話だと思います。

 居心地のよい社会というのは、さまざまな人がいる中で、自分の居場所が確かにある、と感じられる社会なのではないでしょうか。そこは、自分と「違う」誰かを一方的に排除するような場ではないでしょう。学校も社会も、そのような場でなければならないのではないか、とわたしは思うのです。そういう場であれば多様性も保障されますから、豊かな関係性の中で新しい発想や活力も生まれてくることでしょう。

 新潟高教組の文芸・オピニオン誌としての「汽水域」は、この五号で終刊を迎えることとなりました。私たちが現に生きているこの世界そのものを「汽水域」としていくことが大切なのだ、と私たちは考え、この雑誌を作ってきました。そんな思いが、多少なりとも読者にもなさんに伝わっているとしたら、とてもありがたく、うれしいことだと、心から思います。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」5号 2014年11月発行 より】

エッセイアーカイブ㉕ 「ダメな自分」を出発点に

2021-08-05 20:33:12 | エッセイアーカイブ
福島第一原発の破局事故を受けて、いろいろ自らの言動を反省しつつ考えてみたコラムです。

 日本のことわざや慣用句を眺めてみると、相反する内容が対になっているようなものがけっこうあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と「羹に懲りて膾を吹く」とか、「対岸の火事」と「他山の石」とか、「後は野となれ山となれ」と「立つ鳥跡を濁さず」とかはそのような例ですが、前者が「性懲りもない人間のダメさかげん」を述べたものだとすれば、後者は「まともな人間がとるべき道徳・マナー」を述べたものだと言えるでしょう(「羹に……」は慎重すぎるのも考えもの、という意味なのでちょっと違いますね)。

 で、わたしのような小人(しょうじん)は、ともするとつい前者の方向へ行ってしまいがちです。わたしも、いろんな失敗をやらかしてはそのたびに反省して「もう二度とやらないぞ」と誓ったりするのですが、大して時間も経たないうちにすっかり忘れきって、また同じ失敗を繰り返してしまうのは実によくあることで、全く情けないとわれながら思います。ただ、そういうのはどうもわたし個人の性格的な問題というわけでもないようです。

 東電福島第一原発事故後の電力会社や原発推進派の政・財・官・学・マスコミの皆さんの言動は、まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の典型でしょう。この皆さんは、あれだけの事故を起こし、放射能汚染によって福島県に壊滅的な打撃を与え、国際的な問題にもなっているにもかかわらず、ぬけぬけと「ベトナムに原発を輸出する」とか「原発がなければ日本の経済は立ちゆかない」とか「低線量の放射能は体によい」とかの発言をしていますが、そこには、懲りない人間の能天気さがストレートに表れていて、いっそすがすがしい感じすらします。またそれが、日本の政治や経済を支える「大物」な方々の発言だったりもするわけで、そのことも、ダメなのはわたしだけではないんだ、という「安心感」を与えててくれます。

 ことわざでは、「出る杭は打たれる」・「長いものには巻かれろ」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」も意味上の対になっているようです。日本社会は、「虎穴」に入り込んで冒険をして「出る杭」となって疎まれるより、「長いものに巻かれ」たがるメンタリティのほうが強いらしく、特に原子力関係者の世界はそんな感じであることが、今回の事故以後の経過でいやというほど明らかになりました。科学的な正確さより仲間うちの雰囲気を壊さないことのほうを大切と考えるその感覚は、仲間や親分が言うのならば黒いものでも白なのだ、というあり方であり、任侠の世界にも通じる「絆」を感じます。そういえば今日本では「絆」という言葉が大流行ですが、それはそういう意味でもあったのか、と改めて納得しました。

 3・11後の社会をどのように変えていくべきなのか、ということを考えると、わたしたち一人ひとりが、そういう「ダメな自分」を見つめ直すことが大切なのだろう、と思います。少なくとも、3・11の被害を直接には経験しなかったわたしたちは、そういう反省からすべてを始めていかないと、3・11の記憶が薄れていくにつれて、結局また「喉元過ぎれば……」ということになってしまうのではないでしょうか。

 この号で何人かの方々が言及している、自民党の石破茂衆議院議員の「原発保持は潜在的核保有」発言はもちろん容認できませんが、まじめな石破さんらしいものだとは思います。しかし、それは「今の社会状況」しか見ていない考え方でもあります。原発が抱え込む膨大な放射性物質を無害化する技術はありません。とすれば、「今の必要性」だけで物事を考え、面倒なことは「後は野となれ山となれ」と先送りし、まだ生まれてもいない子孫に丸投げするのではなく、3・11の災厄の記憶をきちんと教訓化して語り伝え、そのうえで理想的な未来のありようを認識的に想像し、社会をなるべくそれに近づける努力を積み重ねていくことが、3・11後の日本を生きるわたしたちに課せられている責任なのではないか、と思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」4号 2012年3月発行 より】

エッセイアーカイブ㉔ 「偽善者」のすすめ

2021-08-04 20:28:17 | エッセイアーカイブ
これもかなり屈折したタイトルのコラムですが、中身は真っ当です(たぶん)。

 若いころは、「募金」が大嫌いでした。人前でこれ見よがしにいかにも「よい人」であるかのように振る舞うというのは偽善的だ、「善行」は人前でやるものではない、などと思っていました。もちろん、ふだんの生活でもそういう態度です。友人たちと話をするときでも、わざと相手の欠点を声高にあげつらったり、きつい言い方をあえてしたりしていました。それを、「わたしは口が悪いんだ」とうそぶいて開き直り、そのくせ、「わたしは口は悪いが、それは相手のことを思ってのことで、本当はよい人間なのだ」ということを言外に匂わせたりもしていたのでした。早い話が、「偽悪者」を気取っていた、というわけです。 

 で、その結果どういうことになったか。といえば、当然ながら、人間関係はどんどん壊れ、友人もどんどん失い、気がつけばわたしをめぐる状況は、たいそう困ったものとなってしまっていたのでした。 わたし自身、孤独が好きなわけでもなければ人から憎まれることを愛好していたわけでも決してありません。ただ、「偽悪者」というスタイルが格好よい生き方である、と思い込んでいただけなので す。しかし、その結果があまりにとほほな事態を招いたため、わたしはやむなくこれまでの生き方を総決算し、反省する必要に迫られました。自分のどうしようもな い過去を、振り返りたくはないのですが振り返り、叫び出したいような恥ずかしい記憶のフラッシュバックに耐えながら、なんとか世の中でやっていける人間になろうと修正を重ね、とりあえず今日までたどりついています。 

 で、今は思うのです。「偽善だっていいじゃないか」と。たとえそれが、安普請な自分をその実態以上によく見せたい、というつまらない虚栄心や、自分の利益だけを考えたあさましい利己心からの振る舞いであっても、そのことで世の中が多少なりともよくなり、困難を抱えた人のためになるのなら、それは結果としてみれば立派な「善行」です。心の中なんて見ることはできません。たとえ腹の中でどんなどす黒いことを思っていたとしても、エスパーでもない限り他人にはわかりません。だったら、「偽悪者」として生きて、買わなくてもいい恨みを人から買うより、「偽善者」でかまわないから世のため人のためになることをして人々から褒めそやされるほうが、楽しい人生になるに決まっています。褒められてうれしくない人はそういませんから、「善行」 を繰り返すことにもなるでしょ う。するとそのうち「偽善者」だったはずの人が本物の「善人」になる、ということだってあるのではないでしょうか。 

 東日本大震災で、多くの芸能人や有名人が多額の寄付を寄せたり、救援ボランティア活動を行ったりしています。そのことを「売名行為だ」と冷ややかに見る人もいるようです。でも、いいではないですか。その「売名行為」が、 今現在苦しんでいる人々を救うための一助となるのですから。そういう意味で、「偽善」もまぎれもない「善」である、とわたしは思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」3号 2011年4月発行 より】

エッセイアーカイブ㉓ 「一匹狼」のふしぎ

2021-08-03 19:14:03 | エッセイアーカイブ
新潟県高等学校教職員組合の文芸誌「汽水域」2号に書いたエッセイです。前回同様ひねくれたタイトルですが、中身は真っ当(たぶん)です。

 関節リウマチと診断されて、今年でちょうど二十年になります。入院・手術なども経て、今は立派な(?)障害者手帳の保持者となりました。

 組合の本部に勤めている関係で、県外の出張なども比較的多いのですが、そこでありがたく感じるのは、電車やバスの車内で親切な方々にたびたび席を譲っていただけることです。杖を使用しているので、一目で「障がい」があるとわかるためでしょうが、そのような親切に出会うたび、「自分のことしか考えないヤツが多くなった」などと言われる現代社会も、実はそう捨てたものではないなと感じます。

 それにしても、他人からのそうした親切に頼らなければ、わたしなどはもう生きていけないわけですが、それはもう仕方ない、自分にとって必要なことは、たとえ相手にとって迷惑かもしれなくてもお願いするしかない、と割り切って考えるようにしています。
 ただ、こうも思うのです。人口が圧倒的に増え生活を支える技術も多様化した今日、人間にとって必要な物事もその分増加し細分化され、大勢の人々のさまざまな仕事の集積によって社会が成り立っています。だから、人は例外なく誰かの世話になって生きています。「自立して生きる」といっても、自分の生活に必要なさまざまなモノをすべて自力で一から作り上げるのは絶対に不可能です。結局誰かが作ってくれたものを使って、着て、食べて、住んで、暮らしているわけです。

 だからわたしは「一匹狼」を標榜する人に違和感を覚えます。どうやら、組織に属さず独立した生き方をしている人、あるいは、組織に属していても仲間集団に加わらず一人での行動を好む人のことを指す言葉のようですが、自分の「生」にかかわることのほとんどすべてを他者に依存している人が「一匹狼」などというのは、なにか悪い冗談としか思えないのです。

 もちろん、「自立して生きる」ことは社会の成員としてとても重要です。しかし、それと同時に、「自分は一人ではなにもできない存在だ」ということの自覚をもつことも必要なのではないでしょうか。

 「ひとに迷惑をかけてはいけない」と大人は子どもに教えます。それ自体は誤りではありません。しかし、さらに子どもたちには、「自分の力ではどうすることもできないことは、誰でも遠慮なく他人の力を借りていいのだ」ということも伝えたいと思うのです。人は、一人では生きられないからこそ群れをつくり、社会を形成し、助け合いながら命をつないできました。そのことを忘れ、自己の独立性や優位性をことさらに主張して生きるのは、自身の他者への依存に無自覚な、ある種傲慢な態度でしょう。そういう態度が、ひいては社会的「弱者」に対する差別やいじめにつながっていくのではないか、とも感じます。

 わたしは、障がいを得たことによって、いくつかのことを失い、不便を感じることも増えましたが、同時に、人は互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら生きる存在であるということを自覚できるようにもなりました。人間的に生きるということは、つまりはそういうことではないか、などと思ったりもしています。

 というわけで、多くの方々に迷惑をかけながら(笑)できあがった「汽水域」二号、楽しんでいただければ幸いです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」2号 2010年3月発行 より】

エッセイアーカイブ㉒ 百姓魂でいこう

2021-08-02 22:17:16 | エッセイアーカイブ
今回から、新潟県高等学校教職員組合が2009年から12年にかけて発行した文芸誌「汽水域」に書いたコラムを5本アップしていきます。私はこの雑誌の編集委員の一人です。2009年の創刊号エッセイは「『百姓魂』でいこう」。ひねくれたタイトルですが、中身は全うです(と思います)。おヒマな折にでもお読みください。

 わたしは野球ファンなのですが、WBCに出場する日本代表チームの愛称が「サムライジャパン」というのがどうにも気に入りません。なぜ「サムライ」でなければならないのか、ということをついつい考えてしまうからです。

 今の日本では、「サムライ」ということばは完全な褒めことばとなっているようです。苦難に耐え、成果を出した人物は「彼はサムライだ」といって褒め称えられます。反対に、「百姓」ということばは、場合によっては一種の差別語のような扱いを受けることもあります。江戸時代の人口比では、いわゆる武士階級の割合は総人口のわずか七%だったとか。人口の多くを占めたのはいわゆる百姓であったわけです。ですから、「サムライだねえ」と褒められたとしても、その人の先祖が百姓身分であった可能性は極めて高いわけで、なんだかおかしなことになってしまうようです。

 てなことを言うと、「『サムライ』というのは、その人物の人格や実力が優れていることを表すことばなのだから、つまらぬ揚げ足を取るな」と叱られてしまったりもするわけですが、それなら、武士というのは、それほどすぐれた存在なのでしょうか。

 確かに武士は、鎌倉時代から江戸時代にかけての支配階級でした。彼らは、「生産」を百姓にすべて任せ、自らは文字通り一切手を汚さず、「暴力」を背景に一方的に収奪するばかりの存在だったのです。それに対して百姓は、農業をはじめ、さまざまな生産活動に携わってきました。社会に必要なあらゆるものを、百姓は生産してきたといえます。作物を種や苗から育て、収穫する。そのままではなんの役にも立たない素材から、日常生活に不可欠なものを生み出す。そのような百姓が、日本社会を実質的に支えてきました。わたしは、そんな百姓のほうが、武士よりはるかに素晴らしい存在に思えてなりません。

 わたしたちの仕事である教育も、百姓と似たところがあるような気がします。成長の途上にある子どもたちに必要な学力を保障し、子どもたちの「育ち」の手助けをする。教育とはそのような営みです。とすれば、私たちに必要な心構えは、決して「サムライ精神」ではないと思うのです。

 教育で求められているのは、高みからものを見てえらそうなことをうそぶく「サムライ」を育てることではないでしょう。子どもたちが将来どのような職業に就くにしろ、自分の仕事や存在に誇りを持ち、他者の存在に敬意を払うことができる人間となってもらいたい。そのために必要なのが、実は「百姓魂」なのではないか、とわたしは思っています。

 多様な子どもたちの多様な人生の選択肢を保障するため手助けをするこの仕事が「百姓」仕事でなければなんでしょう。教員こそ、「百姓」でなければならない。わたしは自信を持って、そのように言いたいと思います。
 決して「武士」ではないわたしたちが作るこの「汽水域」。楽しんでいただけたなら幸いです。

【新潟県高等学校教職員組合教研誌「汽水域」創刊号 2009年3月発行 より】

エッセイアーカイブ㉑ 出自を暴くという差別

2021-07-28 17:49:49 | エッセイアーカイブ
新潟県人権・同和センターニュースに書いたコラムはこれが最後。他者の出自を暴くことの差別性を考えました。

 先ごろ行われた東京都議会選挙の結果総括の中で、ある有力野党の党首がその党の国会議員から、「選挙に敗北したのは党首の国籍問題も大きな原因の一つだ」と追及される、という「事件」がありました。その党首は外国にルーツを持っている方ですが、その国と日本との「二重国籍」を、自らの党の議員が問題化したというわけです。その党首は結局、自らの戸籍の一部(国籍部分)を開示させられる、という結果となりました。

 有力な公党の国会議員でもある党首に突如降りかかったこの件は、世間の大きな話題となりました。当然ながら、国会議員に立候補する時点で、選挙管理委員会が立候補者の法的要件として国籍を確認しているわけで、それだけでもこの党首が国籍を問題にされる理由はないわけですし、そもそも、戸籍は個人の最大のプライバシーの一つですから、みだりに暴かれてはならない、と私は考えますが、SNS等のWeb上などでは意外なことに、この党首への批判もけっこう多いことに驚きました。

 しかし、戸籍や出身地を暴くというのは、「鳥取ループ」の例を挙げるまでもなく、差別では典型的な事例です。残念ながら、日本社会には未だに、その人自身ではなく、出自や身元のほうに注目するという差別意識が残っています。だから、差別記載が満載の「壬申戸籍」は閲覧が原則禁止となっているわけです。

 それを、あろうことか人権を最も遵守しなければならない国会議員が、自分の所属する政党の党首の戸籍を明らかにしろ、と言う。これは、解放運動がこれまで懸命に積み上げてきた成果を一瞬にして崩壊させる暴挙であり愚挙である、と指摘せざるを得ません。この事例を見た人々の一部から、「それなりの理由づけがあれば、(気になる人物の)戸籍開示を要求してもいいんだ」と考える人が出てきても不思議はないでしょう。そういう意味で、この事件は将来に重大な禍根を残すことになるのでは、と私は思います。

 ふるさとは、本当は懐かしい思い出とともに語られる大切なもののはずです。しかし、迷信と偏見に基づく不当な差別にさらされ続け「ふるさとを隠す」ことを余儀なくされてきた方々もいる。そうした方々への「認識的な想像力」を、自らの差別意識を再確認しながら持つことが必要なのだ、と、改めて思わされる事件でした。 

【人権・同和センターニュース38号 2017年7月号 より】

エッセイアーカイブ⑳ 文学と差別表現について高校生に語りました

2021-07-27 10:34:27 | エッセイアーカイブ
高校文芸部員の皆さんに、文学と差別表現について語ったお話です。

 高校で長く文芸部指導をやっていることもあり(いやまあ作品の中身の指導などはできませんよ。生徒さんの方が私よりはるかに才能がありますから)、たまに、文芸部員に対して何か話してくれ、という依頼を受けることがあります。この夏も、県内各地から集まった高校文芸部員の研修会で、「文学と差別表現」というテーマで話をする機会をいただきました。

 まだまだ成長過程にある高校生文学者の皆さんは、ともすると、あまり深く考えずに、いわゆる「差別語」や「差別表現」を作品中に使ってしまうことがあります。そのため、「差別語」「差別表現」とはどういうもので、なぜ使ってはいけないのか、という話をする必要が生じるわけです。

 人を差別するためだけに存在している「差別語」や、人を侮辱するために使用する「差別表現」が許されないのは当然のことですし、差別の問題は小学校のときから「道徳」の授業や「総合的な学習の時間」などで、副読本「生きる」シリーズなどによって継続的に学んできているはずですから、文芸部に集う生徒さんたちも、そんなことは言われなくても分かっているとは思います。しかし、実際の生活の中で、実は自らが社会の中で差別者として存在している、ということを自覚している高校生はほとんどいないでしょう。だから、差別の問題を自分自身の問題として考える態度がなかなか身についていないことも確かです。そこで私は、私自身がかつてやらかした差別言動や、私自身が障がい者として受けた差別体験なども話しながら、「他人の痛みや苦しみを、自分に置き換えて想像してみよう」などと語りかけてみたりするのですが、はたしてどこまでわかってもらえているのかどうか。

 ただ、これだけは伝えたい、と思っていることはあります。それは、「差別は、される人はもちろん、する人も確実に不幸にする」ということ、「自分と違う人がいる、ということはとても豊かでおもしろいことだ」ということ、そして、「差別のない社会をめざすことは、誰もが生きやすい社会をめざすということだ」ということです。

 自分の中の差別的部分を見つめることができず、差別や偏見を心に抱えたままでいる人は、その分、自分の人生の「広がり」や「可能性」が狭まります。はっきり言えば、「幅も魅力もない、つまらない人間」になってしまう、ということです。それは、社会も同様です。差別を温存したままの社会は、多くの人が暮らしにくい、息苦しい社会となります。自分と違うさまざまな人がともに存在しているからこそ、人間性も社会も豊かなものになると、私は確信しています。
 前途ある若者たちに、そのようなことをうまく伝えられたら、と、私は心から思っているのです。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年11月号 より】

エッセイアーカイブ⑲ 新潟県人権・同和センターニュースコラム⑤ 他者を差別する〝自由〟はあるのか

2021-07-26 12:04:34 | エッセイアーカイブ
いわゆる「ヘイト・スピーチ」に代表される差別表現から、「表現の自由」について考えます。

 イスラム過激派によるフランスの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃・殺傷事件は、いわゆる「テロ」の恐怖を世界中に拡散させたという点で、たいへん重大な事件だと私も思います。人の命を奪うことは、人権侵害の最たるものです。したがって、あのようなテロが決して許されないのは当然です。
 そのうえで思うのですが、それでは、「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を掲載したことには、何も問題がないのでしょうか。

 宗教的に寛容な(というか無節操な)私を含めた日本人にはわかりにくいのですが、一神教社会、とりわけイスラム教社会では、宗教はすべての前提になっています。その社会に所属する人々にとって、自分の存在と宗教は切り離せないものです。「外部」の人間がその宗教を、「言論の自由」を楯にとって一方的におとしめるような(と受け取れるような)表現を行うということに、私は違和感を覚えるのです。

 差別をはじめとして、女性差別や人種差別、障がい者差別などあらゆる差別は、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」(東京人権啓発企業連絡会HP)です。シャルリー・エブドの風刺画は、そういう意味では「立派な」差別表現なのではないか、と私は思います。

 「フランスには、公共空間から一切の宗教性を排除するという、厳格な政教分離『ライシテ』という原則があり、シャルリー・エブドの風刺画もそれに基づいたものであることを理解すべきだ」という意見もあるようですが、その理屈は、フランス社会に属していない人々、特に、〝西欧社会から抑圧されている〟と感じているイスラム社会の人々には、簡単には理解されないのではないか、と思います。そもそも「風刺」とは、抑圧されている側でなく、抑圧する側に向けられるべき手法なのではないでしょうか。

 「表現の自由」はもちろん大切なことです。しかしそれは、「他者を差別する表現」まで自由に行ってよい、ということではないでしょう。日本でも、在日韓国・朝鮮人などに対しての、ヘイト・スピーチやWeb上での匿名の誹謗中傷、果ては大手出版社からも刊行されている本や雑誌での差別的言辞が横行していますが、そうした表現が「表現の自由」を楯に行われている現状は、やはり看過できません。「人権侵害救済法」の制定が急がれる理由がここにあるのだ、と私は考えます。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年3月号 より】

エッセイアーカイブ⑱ 新潟県人権・同和センターニュースコラム⑤ NAMARAは〝お笑い〟で差別を乗り越える

2021-07-25 11:13:14 | エッセイアーカイブ
笑いを武器にして差別をなくそうと活動する、新潟のお笑い集団NAMARAのお話です。

 お笑い集団NAMARA代表の江口さんとわたしが初めてお会いしたのは、一九九六年の冬のことです。

 当時、東京での仕事を辞め、新潟に帰ってきたばかりの江口さんは、真夜中の酒場で、「新潟でお笑いをやりたい」と熱く語っていました。
 その後江口さんは、「有言実行」を貫き、さまざまなイベントを仕掛けては仲間や芸人を募り、やがて、今のNAMARAを築き上げます。

 NAMARAの芸人さんには、いろいろな人がいます。テレビやラジオなどで活躍する芸人さんたちを、多くの方が目にしたり耳にしたりしていることでしょう。
 その中で、最近もっとも活躍している芸人さんとして、「脳性マヒブラザーズ」がいます(※1)

 「脳性マヒブラザーズ」は、「しゃべれない脳性マヒ」のDAIGOさんと、「歩けない脳性マヒ」の周佐さんとの漫才コンビです。お二人の漫才を見聞きしたことがある人もいると思いますが、これが本当におもしろい。NHK・Eテレの「バリバラ」で全国区の芸人となり、最近は、映画にもなかなかよい役で出演するなど、今ノリにノっているコンビなのです。

 最近刊行された新潟高教組の文芸誌「汽水域」五号(※2)のNAMARA座談会で、お二人がNAMARA芸人になる経緯が書いてあるのですが、江口さんは、DAIGOさんが「漫才師になりたい」といって来たとき、「いいよ」と受け入れたそうです。さらに、「でも、君は何言ってるかわからないから、君の言葉を通訳してくれる相方を連れてきて」と言ったら、DAIGOさんは周佐さんを連れてきたのだそうです。

 江口さんは同誌で、こんなことも言っています。
 「どんな人だって、その人に個性に合わせてやれることがある。たとえ、一人ではできなくても、組み合わせによってどうにでもなるんですよ」。

 「障がい者」だから、被差別出身者だから、女性だから、学歴が「低い」から、LGBTだから、外国籍だから……。そのような理不尽な理由で差別・排除される、という厳しい現実が、今のわたしたちの社会にはまだまだありますが、江口さんは、そのような立場の人たちを、「お笑い」という武器で包み込み、その人たちが「自分らしく生きられる場所」を作り出そうとしているのです。

 江口さんとNAMARAの活動からは、差別をなくしていくためのもう一つの道筋が見えるような気がします。

※1 脳性マヒブラザーズは、2018年11月をもって解散しました.
※2 「汽水域」5号は2014年11月発行。発行は新潟県高等学校教職員組合です。

【人権Cニュース32号 2014年12月号 より】

エッセイアーカイブ⑰ 新潟県人権・同和センターニュースコラム④ 真の〝愛国者〟の条件

2021-07-24 14:06:48 | エッセイアーカイブ
下品・卑劣な自称「愛国者」のふるまいから、人権について考えるコラムです

 他の記事がすべて埋まり、いよいよこのコラムを書こうとしていたところに、東京都議会での女性都議へのセクハラ暴言事件というニュースが飛び込んできました。妊娠・出産や不妊に悩む女性への支援を訴えた女性都議に対し、議員席にいた男性都議が「自分が早く結婚したらいい」「(子どもを)産めないのか」などのヤジを浴びせかけたというものです。女性都議の所属する会派の抗議とともに、多くの人々からの批判が殺到したことから、発言者が所属すると思われる政党の幹事長が「早く名乗り出ろ」と促し、数日後にようやく、都議の一人が「自分が言った」と認めて女性都議に謝罪するという事態となりました。

 この事件は、女性に対する差別やセクハラは許されないことであるという常識が、未だに社会に定着していない、という実態を浮き彫りにしました。東京都民の幸福を実現するために先頭に立って働かねばならない都議が、女性たちの置かれた現状を理解せず、このような無神経発言をする、ということが、そのことを如実に物語っています。ヤジを飛ばした都議の本音は、「女が社会に進出してえらそうなことを言ったりやったりするのは生意気だ。家でおとなしく家事と子育てをしていればいいんだ」ということなのでしょう。そういう人物が、よりによって選挙で議員に選ばれてしまうという社会の現状も、同時に見えてきます。

 この事件を引き起こした都議は、当初は「自分ではない」と否定していました。この都議はいわゆる「愛国者」を自負していて、「日本人」であることに強い誇りを抱いている人のようです。私は、日本人のよい性質として「謙譲の精神」「謙虚な態度」があると思っています。「自分が強い・優れている」と声高に言いつのるのは見苦しい行為であり、また、自分の行為に誤ったことがあれば、潔く認めて反省するのがまともな人間のすることだ、と教えられてきました。とすると、この都議は、差別発言を公の場で平然と行い、しかも、その差別性を強く批判されると、少なくとも初めのうちはうやむやにしてごまかそうと考えたわけですから、その態度は私の知っている「日本人の美徳」からはかなり遠い、と指摘せざるを得ません。

 最近の自称「愛国者」には、そういう「下品」で「卑劣」な人が多すぎるのではないでしょうか。真の「愛国者」なら、他者の痛みへの想像力と共感をもつことは必須条件だと思うのですが。人権同和教育・行政がまだまだ必要な理由は、こういうところにもあるのだな、としみじみ思います。 

【新潟県人権・同和センターニュース31号 2014年7月号 より】