ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

窯変かえうた地獄 その6 じえいたい

2016-02-27 22:29:47 | 窯変かえうた地獄
自衛隊(元歌:安全地帯「じれったい」)


ねえねえ君 いい体してるね
自衛隊に 入隊しないか
戦車飛行機 免許取り放題
再就職 思いのままだぜ
自衛隊 体はお国に
自衛隊 心はミカドに
 もっと もっと 捧げて



 
 最近仕事が忙しく、文章系のネタを作成することができないため、今回もまたかえうたでごまかす姑息なワタクシ。
 てなわけで(どういうわけだか)、このかえうたも、けっこうな昔につくったものですが、元歌の歌詞がサビ以外ほとんど生きていないので、かえうたとしては不満が残る出来です。
 とはいえ、このご時世になんとなく合うような気もしたので、とりあえず棚から下ろしてみました。
  「心はミカドに」の部分は、今のミカドがいわゆる「ミギ~」な人たちからも批判されるようなお方なので、「ミカド」を「ソーリ」などに変えた方が今風かも知れません。

窯変かえうた地獄 その5 幹部候補生A

2016-02-18 22:31:37 | 窯変かえうた地獄
幹部候補生A(元歌:「少女A」)


上目遣いに日本を見ている
赤いソ連の視線がまぶしいわ
思わせぶりに戦闘機飛ばし
きっかけぐらいはこっちで作ってあげる
いわゆる普通の軍隊だわ
日本の政治を知らなすぎるのあなた
お金がかかるは仕方ないけど
似たようなことをどこでもしているのよ
自衛隊 自衛隊
有事になっても平和でも
自衛隊 自衛隊
そんなの軍備に関係ないわ
特別じゃないどこにもいるわ
 わたし 幹部候補生A



 

 このかえうたは、今から33年ほど前、わたしが日本一でかい東京のN大学文理学部の学生だったころ、先輩のミヤノさんがサビの部分をこのように作ってうたっていて、その前半部を私が作って一曲分に仕上げた、というものです。当時の首相はナカソネさん。「戦後政治の総決算」とか「日本列島は不沈空母」だとかおっしゃっていたのが今でも印象に残っています。このかえうたを、まさか21世紀も15年が過ぎた今ごろになってから披露する日が来るとは思っていませんでした。
 今となっては、ソビエト連邦もとっくに崩壊し、世界情勢も社会情勢もすっかり変化してはいますが、例えば「ソ連」を「チャイナ」に変えるだけで、今のご時世にぴったり合っちゃう感じ。「戦闘機」を「軍艦」に変えても良さそうですね。「幹部候補生」も、何か別の人物に変えられる気がします。
  しかし、このかえうたが今でも通用しちゃう可能性があること自体、とても恐ろしいと思う今日このごろです。33年前よりも今の方が、ずっとヤバイ世の中になっているのかも、と思わずにはいられませんねえ。

ブログでトグロ巻きR その5 ベッキー叩きとヘイトスピーチ(下)

2016-02-12 18:11:29 | ブログでトグロ巻きR
【前回のあらすじ】
 世間からの激しいバッシングにもめげず、妻あるバンドボーカリストとの愛を貫こうと決意するベッキー。しかし、ボーカリストは、そのバンド名と同じく、全く不実な男だった。世間からの攻撃が自分に向いてきたのに恐れをなした男は、あろうことか「別れちゃおうかな~」などと周囲にうそぶく。男の裏切りを知らされたベッキーは、深く傷ついた心を抱えたまま、何もかも打ち捨てて夜行列車に乗り込み、冬の嵐が吹きすさぶ津軽半島へと独り向かうのだった……。

 ……違う。そういう話じゃない。オレはいったい何書いてるんだ。おかしいぞ、手が勝手にヘンな文章を書いてしまう。そうか、これが噂の「自動書記」というやつか。誰がオレに乗り移ってるんだ。ああ、何と恐ろしいぃぃぃぃぃ。

 ということを書くから私の文章に説得力が失われるのだ、と改めて反省する今日このごろ。というわけで(どういうわけだか)、前回の続きです。ちゃんとまじめに書きます。

「弱者」を痛めつけるヘイトスピーチ

 昨日の「建国記念の日」、新潟県平和運動センター主催の講演会に行ってきました。テーマはタイムリーなことに「ヘイトスピーチとは何か」。講師は、『ネットと愛国』などの著書で知られるジャーナリストの安田浩一さん。非常に興味深いお話をたっぷり伺ってきました(この講演については、別に稿を起こしてご紹介します)。
 皆さんご承知のとおり、ヘイトスピーチとは「人種・民族・国籍・社会的出自・性別・障がいなどにおける少数者=マイノリティの集団・個人に対する、その属性を理由とする差別扇動表現」です。安田さんはさらに「不平等・不均衡・非対称的な関係の中で生まれる憎悪」がヘイトスピーチだと言います。つまり、「強い立場」の者から「弱い立場」に置かれている人々に対する、その人の努力では解消できない属性を理由とした差別扇動表現がヘイトスピーチということになります。

ベッキーさんは反論できない「弱い」立場

 そういう前提でベッキーさん叩きを考えてみると、けっこういろいろ腑に落ちるのです。ベッキーさんは、マスコミや世間からの攻撃に対して、反論することもできないようです(してもいいのですが、そうするとさらに攻撃が倍返しとなって帰ってきますからね)。となればもう、一方的な攻撃にさらされたまま泣き寝入り、という状況になります。
 「有名芸能人はテレビ・ラジオなどのメディアに出演するなどして社会的影響力がある『強者』の立場にいる。だから、そういう人の『不倫』疑惑は、許されない社会悪として取り上げる価値がある」と考える人もいるのでしょうが、その理屈には無理があります。ベッキーさんは確かに有名芸能人ですが、私たちの生活や思想信条に影響を与える活動は何もしていません。あくまで、メディアという舞台で芸能活動をし、私たち視聴者を楽しませることで収入を得て生活している、という人です。前回も書きましたが、そういう芸能人に私たちは、別に倫理やモラルを求めてなんかいません。そういう立場の人が「不倫」したからといって、その人が反論できない状況にあるのをいいことに、鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て攻撃するというのは、もう完全な「弱いものイジメ」であり、ヘイトスピーチと全く同じでしょう。「芸」そのものに対する批判なら、芸能人は甘んじて受けるべきですが、法に触れてもいない、犯罪行為でもないことについて、いちいち騒ぎ立て攻撃するのは、やはり私はおかしいと思います(ただし、芸能人でも、例えばニュース番組などに継続的に出演していて、政治・社会の事象に対して意見を述べているような人は、その発言が社会的影響力を持つことになりますから、ベッキーさんと同列に扱うことはできないのは当然です)。

ベッキーさんを叩けるほど清廉な人はいるのか?

 あえて言いたいのですが、ベッキーさんの「不倫」を「許せない」などと攻撃している人たちは、日々そんなに「マジメ」で「清廉」な、「間違ったこと・いけないこと」などしない人生を送っているのでしょうか? そんなわけはないでしょう。少なくとも私は違います(とほほ)。そういう「安普請」な人間が、えらそうに、弱い立場の人のしくじりを攻撃しまくるのって、なんだかとっても気恥ずかしい。厳しい批判の矛先を向けなければならない人は、別にいるでしょう。「人を呪わば穴二つ」と言います。自分にかかわりのない他人のことをいちいち気にする前に、社会をよくするために大切なことは何か、ということを多少なりとも考えつつ、自分の生き方をもう少しちゃんとしたものにしたい、とあらためて思う今日このごろです。

ブログでトグロ巻きR その4 ベッキー叩きとヘイトスピーチ(上)

2016-02-07 22:26:05 | Weblog
 タレントのベッキーさん、叩かれてますねえ。スポーツ新聞、芸能週刊誌やWEBニュースなどは、「水に落ちた犬は叩き殺せ」とばかりに連日大きく報道(と言うのかなコレ)しています。妻もいる今売り出し中の軽音楽バンド「ゲスの極み乙女」(すげえバンド名)のボーカルの男性と交際していることがなぜかばれ(「LINE」のやりとりを覗かれたとかいう話。ところでLINEって未だによくわからないんですけど。それおいしいの?)、週刊文春に大きく書き立てられた結果、他の芸能マスコミにも一気に食らいつかれ、やれ「不倫」だの「略奪愛」(これもすごい熟語。よくこういう言葉作るよね)だのと大騒ぎになってしまいました。で、ベッキーさんは潔くというか仕方なくというか記者会見を開いて「謝罪」した(させられた)わけですが、その後も文春が続報を打ち(またもや「LINE」のやりとりが流出したようですな。どうなってるんだ情報セキュリティは)、芸能マスコミは沈静化どころかますますヒートアップ。結局、ベッキーさんは休業を余儀なくされてしまいましたとさ。
 当然ながら、テレビのワイドショーなどもこの「事件」を「おいしいネタ」として取り上げています。そこでは、町ゆく人々に「ベッキーさんのこのたびの事件をどう思いますか」などとインタビューしていたりします。すると、「善良な市民」の皆さんは、言うんですね、こんなこと。
 「絶対に許せない」「反省の色がない」「不倫なんて信じられない」「奥さんがかわいそう」「もうベッキーの出てるテレビ番組は見ない」。
 おいおい。

「不倫」な人は世の中けっこういますよ

 そもそも、自分のお連れ合い以外の異性(もしくは同性)と「浮気」(不倫という言葉はなんだかイヤですねえ)している人は、私の身の回りも含めて結構いらっしゃいますよ。社会的に「まじめ・固い」と思われている教員業界でも、あのスバラシイ新潟業界ゴシップ誌「財界にいがた」でダブル不倫を暴かれ叩かれた方がいらっしゃいました(両方とも教員でした。そのほかにも私は実例を何件か知っています)。前の職場(新聞社)などは、勤務時間や休日が不規則なせいもあるのでしょうが、不倫や離婚などはどう考えても一般の平均値よりかなり高い値で発生していたはずです。となれば、テレビや雑誌などの芸能マスコミの方々などは推して知るべきでしょう。そういう、他人のことなど言えない人たちが、有名芸能人の「不倫」となると、かさにかかって責め立てる、というのは、まさに「天に唾する」行為でしょう。ぶっちゃけて言えば、「おめえら、人のこと言えねえよ。どの口でそういうこと言ってるんだ」ということです。
 でもまあ、芸能マスコミというのはそういう情報を扱う仕事なわけで、また、そのような情報に対する需要もあるわけですから、あんまり厳しく言い過ぎるのもよくないかな、とは思います。いや、彼ら彼女らはおそらく、そういうことを百も承知のうえで、あえてそういう芸能人のスキャンダルを暴く取材をしているのかもしれず、そうだとしたら、その記者さんたちはそれはそれで職業意識が高い、とも言えるかもしれません。

有名人の「浮気・不倫」は昔から

 こんなことは本当は言うまでもないのですが、有名人や芸能人の「浮気」や女(男)遊びというのは大昔から普通にあり、芸能週刊誌・紙も、それこそ戦前から、メインの記事の一つとしてそういうゴシップをよく載せていました。作家なら、谷崎潤一郎や有島武郎、太宰治などの女癖の悪さはつとに知られています。俳優なら、火野正平さんや中尾彬さんのプレイボーイぶりは有名です。彼らは独身だったろう、というなら、芸能人既婚者の「不倫」では、谷隼人と松岡きっこの「不倫交際」(古いね)、デーモン木暮閣下の二股交際(これも20年以上前になりますか)など、枚挙にいとまがありません。
 しかし、かつては、今ベッキーさんが被っているような、いわゆる「一般市民」から当事者に対する人格攻撃も含めた極端な非難、ましてや本人の「謝罪」会見など、なかったように思うのですが。というか、むしろ、そういうゴシップやスキャンダルは、その芸能人の「属性」の一つとして、私たちはそれなりに楽しく「消費」していたと思います。少なくとも、「許せない」とか「反省の色がない」などという非難をぶつけるようなことはなかったはずです。つまり、「『芸能人』というのはそういうものだ」という社会的合意が、何となく存在していたように思うのです。

「倫理」や「モラル」は芸能人から教わるものではない

 だいたい、私たちが社会の中で守るべきルールやモラルを、そのまま芸能人にも求める、というのはそもそも間違っているような気がします。俳優や歌手などの芸能人は、目立ってナンボ、多くの人に見られてナンボの世界に生きています。早い話が「カブキ者」の世界。それは、目立つのを必ずしも良しとしない「(日本社会の)一般市民」とは異なった価値観の世界です。だから私たちは、明らかな法律破りや犯罪行為は別として、芸能人には、一般市民にはない(できない)「夢」のような世界を表現してもらいたいと思っています。
 彼ら彼女らは、たとえば歌手ならば、「永遠の愛」だの「信じれば夢は叶う」だの、現実にはあり得ない(わははは)メッセージを私たちに伝えます。しかし私たちはそういう歌を聴き、つかの間にせよ心の平安を得るわけです(と言いきっていいのかな。ちょっと心配)。また、俳優ならば、彼らが出演するドラマなど、現実には許されない犯罪や殺人をテーマにしたものも数多く、私たちは、そういうドラマを見てカタルシスを得たりします。でも、そういう世界を「現実」に当てはめてしまう人はほとんどいません。なぜなら、それはあくまでテレビや映画・舞台の上の世界だと分かっているからです。で、芸能人の皆さんはそういう世界での活動を生業(なりわい)としている。そういう人たちに、私たちと同じモノサシを当てはめて非難する、ということに、私は強い違和感を覚えます。これもぶっちゃけて言えば、「倫理やモラルなどは、芸能人から学ぶものではない」ということです。

ベッキー叩きに感じる「ヘイトスピーチ」のニオイ

 もちろん、「不倫・浮気」をすることは、たとえ芸能人でも、あまり褒められたことではありません。直接被害を被る不倫相手のお連れ合いや家族などが怒ったり非難したりするのは当然です。しかし、そういった当事者でもない、単にテレビを見たり雑誌を読んだりしてこのことを知った人が、したり顔で「許せない」とか言っちゃうのって、どうなんでしょう。
 いちいち突っ込むのもバカバカしいですが、ベッキーさん、別に犯罪を犯したわけじゃありません。これといって法律違反もしていません。なのにこういう攻撃にさらされる。あげく、今回の件とは全く無関係な、ベッキーさん自身の「人間性」や「タレントとしての能力」について貶めたりくさしたりする人々も現れる始末(週刊金曜日2月5日号の佃野デボラさんの文章など)。なんでそこまで? と私などは思ってしまいます。
 というか、ベッキーさんご本人とは会ったこともない、従って、その人物像について知るはずのない人々が、「許せない」「反省がないぞ」「テレビに出るな」などと言いつのるのを見聞きするにつけ、「これって、ヘイトスピーチと同じなのでは?」という疑問が、私の心にふつふつと湧いてくるのですよ。(この稿つづく)