ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

note共通オブさんエッセイ プチ障がい者営業中②

2022-08-28 15:55:33 | Weblog
障がい者になって失ったものと得たもの①
 「プチ障がい者」になるはるか以前、「健常者」だったころは、もともと人並み以下な運動能力ではありましたが、下手の横好きで草野球やテニス、バドミントンなどを楽しんだりしていました。本格的なのはさすがにアレでしたが、日帰りの中低山の登山などはとても好きで、五泉市の菅名岳(標高909m)や新発田市の二王子岳(標高1420m)、村上市の日本国(⇐すごい名前だけど標高555m)などに登っていました。自転車も好きで、ランドナーやMTBなどに乗って阿賀野川の土手道や越後七浦シーサイドラインなどを突っ走っていたこともあります。まあ、どこにでもいるような「ちょっと元気な若者」だったわけです。
 そんな「健常者」のころの私が、もっとも夢中になってやっていたのは、フォークギターの弾き語りや作曲でした。上記のようなスポーツももちろん好きでしたが、とにかく私は子どものころから音楽というか歌を歌うことが好きでした。といっても、家庭環境の影響で、歌っていたのはもっぱら父親が好きな演歌・歌謡曲と学校の音楽の授業で習う唱歌、NHK「みんなのうた」で流れる曲ばかりで、中学や高校の友人の一部が好んで聞いていた欧米のポップスやロック、日本のロックなどはまるで聴いていませんでしたが。

 ギターを始めたのは中学2年のときです。当時流行し始めた日本のフォークソングに影響され、友人らとともに始めました。もちろん教えてくれる先生などはいないため、楽譜もまるで読めない状態で(これは今でもそうです)、市販の独学用教本を眺めつつ、コードを少しずつ覚えながら、当時人気だったさだまさしだのアリスだのイルカだの小椋佳だの松山千春だのの曲を歌っていました。これが楽しい楽しい。コード弾きしかできないくせにいっぱしのフォークシンガーになったような気分で、それからずっと、ヒマさえあればギターを抱え、何かしら歌うようになっていました。高校生の時は文芸部員でしたが、部室にギターを持ち込み、しょうもないオリジナル曲を作ってはヘタクソな演奏で後輩部員にムリヤリ聴かせていたような記憶もあります(ああ恥ずかしい)。あろうことか、将来はプロのシンガーソングライターになるんだ、などと厚かましくも考えていました(あああ恥ずかしい)。
 結局、中学生・高校生➡県職員(2年)➡大学(4年半)➡新聞社(1年半)➡高校教員と状況を変えつつ、ギターと曲作りは、飽きることなく続けました(でも結局コード弾きしかできませんでしたが)。私の人生にとって、フォークギターはなくてはならない大切なものになっていたのです。
 そんなお調子者のうかれ若者だった28歳の私に突如降りかかったのが、関節リウマチ発症です。なにしろ関節リウマチは自己免疫疾患で、自分の関節を異物と見なし、全身の関節が滑膜の異常増殖でイカれる病気なので、当然ながらギターを弾くために最も大切な手の指と手首にも容赦なく症状が現れます。手首は腫れて関節が詰まったような状況となり、コードを押さえるために曲げるとキツい痛みが生じます。そもそも十分に曲げることができません。指も腫れて曲がらなくなり、ギター演奏が徐々に困難になっていきました。
 自転車に乗れない、山登りにいけない、スポーツをやれないというのももちろん重大な事態なので、とにかく効果の高い治療法を施してくださるようドクターに強くお願いしたりもしました。しかし、私の場合病状の進行が比較的早く、薬の効果が追いつかないペースでどんどん関節症状が悪化していきました。
 それでも、何しろ当時の私にとってもっとも大切だったのは、ギターを弾いて歌うこと。曲がらない指や手首をムリヤリ曲げ、痛みをガマンして曲を作りギターを弾いて歌っていました。しかし、教員となって6年目の春のある夜、左手親指の腱がプツっと切れ、手術を余儀なくされる事態が招来。ついでに、変形や痛みがひどい他の関節の手術も行うこととなり、教員の仕事を休職して長期の入院をすることとなりました。
 最初の手術は、切れた左手親指の腱のつなぎ直し、左手手首の滑膜除去術ということでした。手術自体は順調に終わり、しばらくギプスで固め、傷が塞がってからリハビリ開始です。
 で、左手首は、というと、これが全く動かない。滑膜除去とともに、手首が動くことによる関節の痛みを防ぐべく、しっかり固定されちゃったのです。この時点で、私の(ヘタクソな)ギター演奏人生は、34歳の春にして、あっさり終わりを迎えたのでした。とほほほ。(つづく)

note共通オブさんエッセイ プチ障がい者営業中①

2022-08-15 14:50:55 | オブさんエッセイ
微妙な動作ができなくなってイライラするのです

 手足の関節が何の触りもなくスムーズに動いて、身体のどこも全く痛くなかったころのことを、半分思い出せなくなりつつあります。
 私は中途障がい者なので、28歳まではいわゆる「健常者」でした。そのころは、まさか自分が「障がい者」になろうとは想像もしていませんでした。

 手指が曲がる。手首が動かなくなる。肘が曲がったまま伸びなくなる。肩が上がらなくなる。どの関節も少し動かしただけできつい痛みが走る。地面に足をつくだけで足首に強烈な痛みが襲う。顎関節が痛んで十分に口を開けることができない。頚椎が痛くて首が回らなくなる。原因は関節リウマチ。女性が多く発症する自己免疫疾患で、難病の部類に入る病気です。そのような病気に、よもや自分が罹るとは、全く思いもよらないことでした。



 やがて、入院・手術を余儀なくされ、立派(?)な障がい者と相成りました。肩の人工関節置換が決め手となり、1999年にはめでたく(?)身体障害者手帳の交付を受けました。障がい名は上下肢不自由、障害等級は2級。そして今日に至ります。
 主治医の先生方の治療のおかげもあってか、外見的には〝障がい〟があるようには見えないらしいのですが、実際のところ、日常生活ではできないことやうまくいかないことが多々あります。
 何しろ手足の関節がイカレる病気による障がいなので、そもそも基本的にあちこち痛いうえ、重たいものが持てないとか細かい作業ができないとか早く歩くことができないとか正座ができないとか胡座がかけないとか一度地面に尻をついたら自力では立ち上がれないとかいろいろあるわけですが、そういうのはまだしも分かりやすく、周囲から理解してもらえることも多いので良いのです。むしろ日常で困るのは、微妙な動作が意外なほどできない、ということです。
 ペットボトルの蓋が開けられない。コップの類を、大きさや形によってはうまくつかめず、両手を使わないと落下させる恐れがある。地面に落としたコインを拾えない。前開きのシャツの第一ボタンを止められない。靴下をうまく履き脱ぎできない。紐の靴をうまく履けない。ネクタイなどもちろん締められない。ハンバーガーなどを上手に食べられない。その他もろもろ。どうです、なかなか不便でしょう。
 変な話、日常生活では、メインの大きな不自由さより、むしろこうした細々とした微妙な不便さのほうにイライラするというか不愉快さを感じます。また、そういう不便さは、当然ながら他人にはなかなかわかってもらえない、ということにもなります。



 とはいえ、「障がい者」としての時間が「健常者」だった時間より長くなり、今となっては、障がいのある状態が私にとっての〝当たり前〟となりました。もちろん、私よりも厳しい困難を抱えている重い「障がい者」の方から見れば、私なんぞは「プチ障がい者」に過ぎないわけですが、そんな「プチ障がい者」の日常やグチなど、しばらくの間、のんびり書き綴っていこうと思います。(つづく)