バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

2012.1.28「ガクちゃん講演会・遊びが子どもを癒す」@豊田

2012-01-30 15:41:24 | プレーパーク
1/28(土)は、我が「とよたプレーパークの会http://tppk.exblog.jp/」主催のプレーリーダー・ガクちゃん講演「遊びが子どもを癒す」を開催しました。

前回のガクちゃん報告会の様子はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/banbiblog/e/57386dff9e47381b631f19ed22b32963

何度観ても泣けちゃう「あそびーばー」の動画はこちら。


朝、道中、子どもをいっぱい引き連れて、会場に向かうメンバーの姿を見てたら
「私の大好きな人たちが、同じところに向かってる」
って思って、涙がじわんと浮かんでしまった。
(という話をしたら「それ、おかしいから」って突っ込まれた)

プレーパークのメンバーってほんっっっとに温かくて素敵な人ばかりで、その存在自体に勇気づけられる。
みんなめちゃくちゃカッコイイ♡

「プレーパーク」というものがあると教えてくれたのはおぐちゃん(司会進行)。

おぐちゃんの優しい語りと内容は、一語一句、心に染みる。
おぐちゃんの司会は会場がとたんに柔らかな雰囲気になる。

今回、中心になって動いてくれたのは、けーちゃん。

いつも穏やかで温かいけーちゃんの存在は、メンバーの癒しです。

たくさんの親子が参加してくれました。


3.11以前から忙しかったガクちゃん、3.11以降はますます大忙しになり、翌日は長野で講演、九州からもオファーがあったそうな。
(一緒にスキー行けねーしー。泣)




学校の勉強、集団生活も大事だけど、遊びも大事。

授業で「鬼ごっこ」をやった。
子どもは先生に「先生!鬼ごっこ終わったら遊んでもいい?」と聞いた。
子どもたちが自ら「やろう!」と思ってやったことは「遊び」だけど、「鬼ごっこをしましょう!」と言った時点で「遊び」じゃない。

今の子どもたちが失くしたもの。
「時間、空間、仲間」

「◯日の△時からね」と約束しないと遊べない。
「どこで遊ぶ?」自由に遊べる空き地はなかなかない。
時間と空間、仲間を失った子どもたちは、「空いた時間に携帯ゲーム」をやるしかない。
これは子どものせいじゃない
よね?

「しま◯ろう」
「今やらないと間に合わない」と煽られる。
「3歳で英語を習わせなきゃ!」
これが「子どもの遊び」を奪っている。

遊び環境さえ整えてやれば子どもは遊ぶ。
全国に「プレーパーク」は270くらいある。
毎日開催しているところもあれば、月に1度のところもある。

ある程度の自然環境があれば、都会でも田舎でもできる。
プレーパークの最大の特徴は「誰でも来れる」こと。
「会員登録」とか「有料」とかはない。
(支援のための会員制度はあるけど)
遊ぶためにはお金がいらない。

プレーパークは子どもの「やってみたい」ができる場所。
プレーリーダーは「遊びの指導」はしない。
見てて、ちょっと手助けするだけ。
「あれダメ、これダメ」を言わないで「やってみたいことができる」を尊重する場。
ブランコ、鉄棒など、普通の遊具はない。
ままごとができる環境をつくったり
「作り替えること」「作り直すこと」ができる。

普通の公園では
「木登り禁止」」「良い子はここで遊ばない」「ボール遊び禁止」のところも。
カミナリ親父に怒られるならまだいいが、何かあれば「役所に匿名のクレーム」がいく。
更に、禁止事項の看板が増えていく。

「◯◯はやめなさい!」だけじゃなく、
「もっとどろんこになったら?」「せっかく来たんだから…」という声を聞く。
「もっと◯◯やりなさい」と言って遊ばせるのと、「塾に行かせる」のは方向が違うだけで一緒のこと。

例えば、どんぐりを焼いて食べる時、
「コナラは食べたら苦い」と分かってる。
止めたいが、「美味しくない」かどうかは食べれば分かる。
だから止めない。
他に美味しいどんぐりもあるけど、
「せっかく食べ始めたんだから、美味しいどんぐりを探して食べれば?」
と言いたいところをグッと我慢。

木に木材を貼付ける時、
ロープを使えば簡単に止まる。
でも、小さい子は「セロハンテープ」や「ボンド」でチャレンジ。
それじゃ無理だと分かっていててもやらせてみる。
その度に「ガク、テープ貸して」「ボンド貸して」と言われるし面倒だから、ロープを手渡した方がずっと楽だけど、敢えて言わない。

「ままごとキッチン」を作った時、そこに絵を書きたがる。
「うんち」を描く子ども。

ぼくはその下にコーンを書くことしかできない。


…………気仙沼「冒険遊び場・あそびーばー」の話…………

※日本冒険遊び場づくり協会http://www.ipa-japan.org/asobiba/」が、SVA(シャンティー国際ボランティア会)と共に、気仙沼に「遊び場あそびーばー」をつくりました。

阪神淡路大震災の時、遊び場を作ったら「おまえら何やってんだ?」と非難されたが、今回は状況が変わってた。

津波で家を流された人がたくさんいた。
親が流された子、避難所で暮らす子もいる
ギザギザの「リアス式海岸」は、すぐに隣の家でも、「流されたところ」と「無傷なところ」がある。
たまたま水の流れで「残ってる家」と「残ってない家」…
避難所の人にとっては「家があるからいいよね」となってしまう。
子どもたちの人間関係にも影響が…
「避難所の子呼んでいい?」とお母さんに聞くと
「家に帰った後で『あそこの家は流されてなかったけど、どんな暮らししてた?』と聴かれるかもしれない
からダメだと。
逆に「家が残ってる子が避難所に遊びにいけない」ムード。
仲良しの子も「会えない状況」にあった。

遊び場をつくったのは「幼稚園、小学校、中学校」が同じ敷地にあるところ。
仮設住宅があるところ。

山を切り開き、オープンしたら「50~60人」くらい集まって来た。
工作や料理のように「何かをつくる」ことに子どもたちは打ち込む。
1ヶ月の間、「自分で料理をする」ことはなかった。
寝てるだけでご飯が来る生活。
これは(大人でも嫌だけど)子どもなんてもっとイヤなのだ。

あそびーばーでは「焼いたからこれ食べろよ」と、子どもたちがスタッフに持って来る。
愛知のプレーパーク会場で「料理をつくること」とは感覚が違う。

子どもたちはプレーパークに居れば現実を見なくて済むけれど、
帰り道では(津波で流された)ぐちゃぐちゃの状況を見ながら家路につく。

顔に絵の具で落書き~!
子どもは大喜びだけど、避難所には水がない。
「泥遊びしたい」欲求は非常に分かるけど、貴重な水を使って洗ってもいいのか?
「泥遊び」や「絵の具遊び」ができる環境を作ってもいいのか?
現場に行かないと分からないことはいっぱいあった。

オープン以来、毎日毎日、遊び場を開けた。
誰も来なくとも10時に開けた。
子どもたちは大人しくイイコちゃんになってた。
子どもに言われた言葉。
「ここができるまでどんだけ暇だったか分かるか?」


「地震のおかげでこんな遊び場ができて良かった…わけじゃないけど…良かった」…ごにょごにょ。
地元のおじいちゃん、おばあちゃんも散歩しながら来てくれた。
避難所でも子どもがうるさくなってきた。
「子どもたちがここで遊んで、笑って歓声上げてるのを見るのが、今の私たちの元気の素だ」
と言ってくれて、涙が出た。

ここでは基本的に「イベント」はしない。

最初、ガクちゃんは「どうせお前もすぐ帰るんだろ?」と言われた。
連続で「2週間入れる」人を探した。
有名な歌手の人たちが「わーっと来て」「わーっと帰る」。
そういう日々の繰り返し。
それも善意だし有り難いけれど、
各地から来て「がんばれ!」「くじけるな!」のメッセージ。
大人にとって有名人でも、子どもは名前を聞いても分からない。
「そういう状況に置かれてる」ことがわかった。

「こいのぼり」を持って来てくれた団体があった。
それは有り難いけれど、子どもたち集めて「ありがとうございました」はやらせたくない。

「シャンティ」は行政じゃできないことをやってる。
ニーズを調査して「個別ケア」
「毛布が足りない」「水を運ぶ労力が欲しい」etc…
徐々に「遊び場」だけじゃない話も見えてきた。
雑談の中でおばあちゃんに聴いた話を「シャンティ」に伝え、シャンティが個別ケアをする。
「冒険遊び場づくり協会」とうまく恊働していた。
「シャンティ」は週末にだけ大人相手に「青空カフェ」をやって交流が生まれた。

(ガクちゃんは)最初に気仙沼に行った時、車に救援物資を満載で持ってった。
けど、2~3日でそれは違う、ということに気づいた。
遊び場は「もらえる場」ではなく「自分たちで何かつくる場所」「中立の場」にしたかった。
持ってった材料を使うことはあったけど、配給はしない。

朝9時から夕方5時まで手をつないでる姉弟(5年生と3歳)がいた。
3.11以降、避難所ができるまでは家族で一致団結してたのだろう、
話を聴いてないから分からないけれど「あんたが弟をみなさい」という空気があったのかもしれない。
手を離すと3歳の子がパニックになってしまう。
極限状態を一緒に暮らしてきたからか、兄弟がやたらと仲良かった。
お姉ちゃんだって本当は遊びたいだろうに…。

でも、7月に行った時は
「私、ちょっと遊んでくるから、ガク、この子みてて」
って言ってくれるようになった

あそびーばーでは
「津波ごっこ」
「地震ごっこ」
が見られるようになった。

避難所で大人は酒を飲みながら
「今、瓦礫、すげーけど、3.11にいたやつにしか分かんないだろーな」
と話してくれる。
どうやって逃げたか、どんなに悲惨だったかを酔っぱらってわーーっと話す。
大人は他人に話すことで自分を癒している。

でも、子どもは言葉にできない。
だから「津波ごっこ」になったり「地震ごっこ」になったりする。
「地震ごっこ」早いうち(4月頃)に始まった。
「津波ごっこ」はもうちょっと後だった。

人間役の子と波役の子がいて滑り台
「地震だ~流された~わはははは~」

阪神大震災の時、「地震ごっこ」は大ブーイングだった。

大人は「何て不謹慎な!!」と思うけど、子どもは遊びの中で自分を癒していく。
「受け止めきれない気持ち」を遊びを通じて自分に落とし込んでいく。
大人から「地震ごっこしようぜ!」とは言わないけど、子どもたちがやることは黙って見てた。
いろんな子がいるから、「落とし込める準備ができた子」「まだできない子」「見てて怖い子」も出て来る。
そういう時、「やめよう!」ではなくて、「怖がってる子」と「津波ごっこしてる子」を離した。
最初は怖がってたけど、一緒に遊び始めた子もいた。

6月までは水がなかったが、(ガクちゃんが)7月に行った時にはあった。
年末には津波ごっこは終わってた。

小学校のプールも破壊された。
幼児~小学生までみんな「あそびーばー」のプールで遊んでた。
この遊び場は、30分すれば「沼」になった。
普通、小4~6年になると、女子は「沼状態」のところでは遊ばない。
でも、ここではそこでしか楽しみがないから、大きい子たちも遊んでた。

仮設住宅は校庭にある。
だから、校庭はない状況である。

流された家の材木を使って木工を始めたり
「ざりがにをとって食べたり」と、子どもたちが野生化してきた。
いろんなものをひろってきて洗濯したり、
7月には、そこは「子どもたちの居場所」になってた。

工作コーナーでは怪我人続出。
名古屋や豊田のプレーパークでは教えてくれる子もいるけど、ここでは一斉に「わーっ」と工作が始まる。
でも…子どもが怪我をしても、家にお父さんがいないかもしれない。
聴くこともできない。

どうしたらいいのか…悩む。

「冒険遊び場」とか「プレーパーク」を求めてる訳じゃないんだ、と実感。
「ここまでオッケー」を(いつものプレーパークより)ちょっと下げる。
ある程度「安全」にしないといけない。

しかし、3ヶ月遊びに来てる常連は、手も切らずたくましくなっていった。

7月になると「水遊び」の合間に「五平餅」を作ったり、ギター弾いてても誰も聴いてなかったり(笑。遊びに没頭)。

午前中は「お母さんと小さい子の居場所になって欲しい」と思ったけどほとんど来なかった。
(多くの常設プレパでは、午前中は未就園児と母の時間)
気仙沼では、そんなことしてる暇ないからだ。
おじいちゃん、おばあちゃんの世話をしてたり、お父さんが亡くなってその代わりをしていたり…。

しかし、7月になると「親子で過ごす人」も増えてきた。
食パンやホットケーキを買って来てくれたり、お母さんたちが世話人みたいになってきた。

今、東北で遊び場が必要なところは「何百」とある。

8月の夏休み…子どもの身体能力や慣れもはすごい!
ターザンロープでダイナミックに遊ぶ女の子がいたり、
売れるくらい上手にべっこう飴を作れる子もでてきた。

地域のおじちゃんたちと話して気づいたこと。
田舎の子は「自然遊びをしてる」かと思ったら全然そんなことなかった。
情報量は東京と一緒。
ゲームソフトの所有率は東京よりもよっぽど多いかも。
今まで、そういうことでしか遊んでこなかった。

当初、子どもたちは「ギスギス」してた。
これは震災のショックだけじゃなくて、公園で遊んでない、集団で遊んでないからだと思った。
あそびーばーで「集団で遊ぶ」…だからもめる。
「他人を認めない」というところもあって、ぎすぎすしてた。
違う小学校の子が来ると「俺らの遊び場だ!帰れ!」と言う子もいた。

時間が経過すると、友達同士でモメながら、けんかしながらやっていくことで
遊びは派手で野生化していったけど「心はおだやか」になっていった。
8月には常連の子も、違う学区の子たちを受け入れるようになった。
最初、ボランティアに向けて言ってた「おまえら、いつ帰るんだ!」って言葉も、8月には言わなくなった。
とげとげしさがなくなっていった。

ある日、枝野さんが遊びに来ることになった。
子どもたちは「知らない~」と言ってたが、お父さんに「偉い人」だと聞いて来た。
SPが4人、テレビ8台、新聞記者、地元の会長、県会議員…スーツ来た人がぞろぞろ。
子どもたちはビックリして、全員、森の中に隠れた。
「偉い人だって!水かけちゃおうぜ!」と水鉄砲を用意。


(「枝野さん、鼻毛出てますよ。抜きましょか?」byガク)

「カブトムシ」をプレゼントしようとしてた少女。
途中で「こりゃ、おめーにはもったいない」と。
「これももったいない」と品を替え、5回目に「あげる」と出したのは小クワガタ。

枝野さん「見てるだけでいいよ」と。
子どもたち「あげたんだから持って帰れよ!」

枝野さんが「あそびーばー」に興味持ってくれ、知ってくれたことは良かったかな。

子どもたちは帰る時、
「また明日な!死ぬなよ。」
「絶対死ぬなよ、ガク」

と言って行く。
「3/10」までは日常だったが、「3/11」以降、いつもと同じ明日がまた来るとは限らない感覚。
明日も同じ日常が「来るはずだった」けど「来ない」…感覚的に経験した。
愛知の人にこの感覚はないだろう。

東北の人は「いつもの日常が明日も来る」とは限らない、と思うようになった。
これは、悪いことじゃない
この痛みを武器にして成長していけたらいい。
…けど、愛知ではこんなことを言う子どもはいない。

本当は「あそびーばー」を7月でやめるつもりだった。
でも撤収なんて絶対できない。
募金を集めて継続していくことにした。
気仙沼にアパートを借りてプレーリーダーになった子がいた。
「ここを守っていこう」という状況になって、気仙沼の地元の人が「プレーパークをつくって行こう!」となってくれるといいな。

地域との交流も盛んになってきてる。
冬に近づき、早く陽が暮れるようになって「遊び場に電気をつけるか」悩んだ。
遊び場は明るくても、子どもが帰る道に街灯は少ない。
だから電気をつけるのはやめた

冬休み、大晦日だろうがお正月だろうが開けた。
(年末年始、気仙沼に行ったガクちゃんに)「ガク!久しぶり~!」とかはない。

「おぉ、ガク、ちょうどいいところに来た。これ持って」
「ガク、鬼ごっこ入るか?」


昨日会ったかのような感覚。
仲間にしてくれてありがたい。

近所のおじさんたちが「畳」や「こたつ」を持って来てくれる。

やっぱり寒い。
遊ぶ場所で生活してる感じ。

薪割りしていたら、ポツリと
「震災の時、じいちゃんと割ったもん」と。
信頼関係ができてから話してくれる

「そこに家があったんだ」
わざわざ聴くことはしないけど、話してくれたら「うんうん」と聴く。

年末年始、毎日、10人前後は遊び場に来た。
池の氷などで遊んだ。
お正月は毎年、親戚の家に行ってた。
「けど、今年は行かないんだ」
集まる場所もないし、仮設住宅の隣に住んでるから。

「あそびーばー」が必要な子が1人でもいれば、この活動を続けていきたい。

今年のお正月は「明けましておめでとう」と書いていいのか難しかった。
「めでたいモード」でいいの?
拾って来た炭で試したら墨汁になった。
みんなで習字を書いた。

被災地の方は「助けて欲しい」ではなく「どこかで思ってて欲しい」と思っている。
「言葉で伝えて欲しい」


東北への支援は、もう「支援物資」ではなく「お金」。
漁師が網を編み直してハンモックにして売る。
そのための販路をつくる、といった支援。
「新しいプロジェクトを立ち上げる」などの、被災地の方たちが前に歩んで行くための後押しが必要。
コンビニの募金箱に入れるなら、募金が行く先を見てから送って欲しい。
そうすると気になって繋がっていける。

東北の避難所は混乱が少なかった。
なぜか?
地域のコミュニティが残ってたから。
「誰かのじいちゃんが」とか「あの嫁は」とか。
いいことも悪いことも含めて顔が見える関係」にあった。
これが、いざ避難所になった時に役立ったと思う。
もし、東海大震災など、町中で災害が起こったら、東北よりも大変なことになるだろう。

一つの方法として、遊び場は「地域コミュニティ」になる。
子どもを中心としつつ、おじちゃん、おばちゃんが一緒に触れ合えるスペースが「プレーパーク」。
全国に270箇所ある。
これでは足りない。
「遊び場環境」がもっと増えるといいな。

愛知の子に「心の闇」はないんだろうか?
先生とのこと、学校のこと…
イライラが溜まってどかーんと出たりする
日々、遊びの中で、ストレスやもやもやを発散できれば、カウンセリングなんてなくても子どもたちはどうにかできる。
自分でどうにかすることができない環境になってる。
こういうタイプの遊び場は絶対に必要だと思う。

「勝手に育つための環境づくり」をやっていけば変わって行く。



午後からは、座談会。


一人一人、自己紹介と、講演の感想など。
質問にガクちゃんが答えてくれました。

Q.子どもたちの5%が障がい児だと言われてる。障がいを持ってる子はどうしてるのかな?普通の公園でも、障がい児に会うことが少ない。当たり前に公園にいる、という状況になればいいな。
A.「ネットワークオレンジhttp://blog.canpan.info/orange-orange/」が週1くらいであそびーばーに子どもたちを連れて来ていた。
でも、他の地域ではフォローできていない状態だと思う。
障がいのある子たちには「がーっと走る」ことをさせてあげたい。
障がいを体験しようということで「軍手をはめて折り紙を折る」ワークショップなどもある。
そういうことが交通安全教室のように、ごく当たり前に学校で体験できるといいと(ワークの主催の方が)言っていた。

Q.気仙沼の遊び場では放射能は大丈夫なのか?
A.最初は「放射能」の「ほ」の字も出なかった。
それどころじゃないから「心配なら来なきゃいいじゃん!」で終わってしまった。
でも今は、検査をしていて、今のところ大丈夫と言われている。

Q.プレーパークの活動を知ると、教師として苦悩してしまう
A.本当はもっと学校も緩くなるといいけど、学校にしかできないこともある。
「子どもを預からないプレーパーク」だからできること、「子どもを預かる学校」だからできないこともある。
プレパの理念を分かった上で、できる範囲で、子どもに関わっていけれたら十分。
(ガクちゃんの奥さん「えみちゃん」は小学校の現役先生)

◯プレーパークに携わってる大人は、モーレツに面白い人がいっぱい
◯愛知県長久手町の市長は、マニファストに「プレーパークを作る」ことを掲げていた
◯子どもだけじゃなく大人もこういう居場所(プレーパーク)を欲しているのでは?
◯ちびっ子がいると田植えがはかどる。手伝ってくれるわけじゃないけど疲れを忘れさせてくれる。
◯被災地では「いい子」を演じないといけなかったけど、自由に遊ぶことによって「ドロドロした部分」を吐き出すことができた。
子どもは「環境」さえあれば自分でどんどん育っていく。
「こうあらねばならない」をとっぱらいたい。
◯田舎ほど深刻な問題。ゲーム所有率は高いし、公園がないからボールを投げたらどこかへ飛んでってしまう。


…………活動を継続するための募金のお願い…………
http://www.ipa-japan.org/asobiba/modules/news/article.php?storyid=284

<口座名義:特定非営利活動法人 日本冒険遊び場づくり協会>
・郵便振替口座 00130-9-149441
・ゆうちょ銀行 世田谷支店(〇一九店)当座0149441(銀行やインターネットからの振込も可能です)
クレジットカード払い
http://www.playpark.jp/asobibasien/
………………………………………………………………
…………

私の自慢の仲間たち「とよたプレーパークの会」メンバー♡

世話人と、プレーリーダー(有給)随時募集してます!

おまけ画像。
「カンチョーの指の作り方」

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