山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

答えは明確だ。全原発を廃炉ヘ!

2018-03-08 08:45:19 | つぶやき

 まもなくあの3月11日がやって来る。大地震、大津波という我が人生の中で、最大の天変地変に係わる事件だった。そして人災という面でも原発がメルトダウンを起こすという人類史上最悪の事態も付随している。大自然の前では、人間の浅知恵などは何の役にも立たないことを見せつけられた事件でもあった。生きている間にこのような驚嘆を覚える現象に遭遇するというのは、滅多にあるものではない。それは幸運というよりも不幸というウエイトの方がはるかに巨大なものだった。しかし現実は受け止めなければならない。

あの日から早や8年目を迎えることになる。その後の活動において、一体どれほどの復興を見たのか。学んだ教訓はどれほど活かされているのか。課題は今なお山積しているようだ。これらについては日々の報道の中でも様々な角度からの報告がなされているが、安堵をおぼえるようなものが少なすぎる感じがする。

あの大震災に対して取り組んでいる為政者の姿の中で、最も杜撰な扱いとなっているのは原発に対する取り組みではないか。為政者とこの国を牛耳っていると思い上がっている一部のエネルギーに係わる事業者は、原発の再稼働を前提に世論が鎮まるのを待ってじっと無為の姿勢を保ち続けている感がある。

経済効率を考えた場合、現状及び近い将来の必要電力エネルギーを賄うためには、原発に依存せざるを得ないというのが為政者サイドの考え方であり、また関係事業者の主張なのであろう。この考えや主張は、原発の絶対的な安全性が確保できるのであれば、決して否定はできないと言えるかもしれない。

しかし、原発に関しては、絶対的な安全性など幻想にすぎないことを証明したのが、先の震災による原発事故の顛末だったのである。原発の絶対的安全性というのは、事故が発生して放射能が飛散した時に、その放射能を消滅させる手段・方法が確立されていることが前提とならなければならない。それは対象療法的にヨウ素を配るなどというレベルの話ではない。もっと根源的に放射能を消滅させる力を持ったものでなければならないのだ。しかし、未だ人類にはそのような力は備わってはいない。だから、原発は絶対的安全性が保証されない存在なのだ。何よりもこのことを忘れてはならない。

国家全体の現状からは、人命よりも経済的効率の方が優先すると考えるのなら、原発の再稼働は必要だし、新たなプラントの設置も必要となる。それが現在の為政者の考えの様であり、エネルギーに係わる事業者の大意の様でもある。絶対的安全性が保証されなくても、既存の安全対策を強化し、原発を有効活用することによって国のエネルギー政策を保持することの方が優先すると考えているのであろう。

これは「損得」の物差しでの判断である。事業者サイドがこの物差しをひっこめるには勇気が必要だと思うが、為政者はこの物差しを使ってはならないのだ。為政者というのは常に「善悪」の物差しで世の中を運んでゆかなければならない。損か得かではなく、善いか悪いかの判断が求められるのである。事業者と同じ発想なら、例えば現在のアメリカのような国の行き方となってしまう。アメリカの現在の政治は損か得かにこだわって余りある感じがする。今のまま進めば、大国アメリカの孤立化は必然であり、世界の信頼を失う方向に向かうに違いない。国の経営は利益追求を第一とする事業経営とは根本的に違うのではないか。

原発は国民にとって「悪」の発電装置である。それがどのような悪なのかを、今は国民の誰もが知ってしまっている。「人命は地球よりも重し」というのが人間社会の安全に対する理念というものであろう。しかし、原発事故のもたらす放射能という電磁波は、一瞬にして多数の人命を奪い、地球そのものから人類を駆逐するほどの危険な存在なのだ。しかもそれは大自然がもたらすものではなく、人間の力で創り出されたものなのである。しかし、創り出すことはできてもそれが生み出す負の部分に対しては、人間はお手上げ状況なのだ。このアンバランスさが原子力利用の持つ危険性の際立った特徴なのだと思う。ただ破壊するだけなら戦争用具としては優れているのかもしれない。しかし、戦争が一時の勝敗をもたらしたとしても、終わった後の原子力による破壊は、敗者のみならず勝者側においても等しく非常なる多数の人命を損なう現状が招来するのである。

つまり、原子力というのは、それをどのような形で用いようと、最終的にはその負の部分が人命を損ない、人類の破滅に向かわせるほどの危険なものであるということなのだ。爆弾であろうと平和利用の原発であろうと、そのコントロールを失った時には、人類は今までにない異質の甚大な被害を蒙るのである。(その被害の実態を、原爆と今回の福島の事故で体験しているのは、まさにこの国なのではないか!)

コントロールが問題となる。為政者は原子力規制委員会を設けて安全基準を一層ハイレベルにすればコントロールが可能と考えているようだが、それはむなしい。再稼働を前提にした安全基準など到底信ずるには値しない。大自然は想定外の事件を常に起こし続けている。人間の能力の及ぶところではない。原発は、放射能の処理対応の手段が確立するまでは、どんな方策を講じても安全は確保されないのであり、これは原点に戻って、止めるしかない。しかも廃炉の道も未知なのである。これほどお先真っ暗な危険な装置を、必要悪として継続して善いものなのか。答えは明確だ。全ての原発は廃炉へ、という意思決定である。為政者は何をしているのか。答えは明確なのだ。