五十を過ぎてはじめて、満州について調べたり読んだりするようになった。
たった13年間の栄光と滅亡が面白かった。そうするうちに、ぜひとも自分の生まれた土地へ行ってみたくなる。
大連で一泊、翌日瀋陽(旧奉天)へ到着。観光客御一行様は、すぐバスに乗せられた。バスは中山通り(旧浪速通り)を行く。
で、分かったのだ。私たち家族が住んでいたという建物が。三階建ての茶色の建物の前をバスは通り抜けていく。あれだ! と、わたしは確信した。虚弱な幼児で外へ出ることはあまりなく、一日中座っていたという、にもかかわらず。
観光コースは、ひとまず東陵へ、後金(のち清朝初代)ヌルハチの墓がある。
北稜、二代目ホンタイジの墓。愛新覚羅を名乗る。
大体似た形、悲しみを表す三日月形。立派な建造物である。
この本「若き兵士の日露戦争日記」のある個所を思い出す。
仙台から動員され、韓半島を通り、遼陽の戦闘、沙河会戦を経て奉天へ。
そのときの軍司令官の達しとして
「奉天は清国宗廟の地、清民の最も尊守する所にして、皇陵の点在するもの少なからず。故に将来奉天付近に進入するに当り、之が霊地を犯すが如き事あらば、公徳無視の謗りをまぬがれず。長く清人の恐れを受くるに至るべし。止むを得ざるの外は、之を犯すが如き所為断じてあるべからず」と書かれている。
この司令官、戦闘のさなかにも、他国の遺産と民の思いを大切にする心意気に、武士の魂というか武将の鑑に思える。その後の南京アトロシティや数々のジェノサイドを、同じ日本人として、とても残念に思っていたからである。
2日目は、満洲事変のあった柳条湖へ。見出し写真の9・18記念会館である。日中15年戦争の始まりとなった日を忘れるなかれと、暦の形になった。「見たくないでしょ」と中国人ガイドさんが言い、中には入らない。
石原莞爾らの謀略で、列車を爆破、中国人らの死体を置き、中国の仕業だとして、張学良の守る北大営を襲う。全満を攻略し、翌年には、紫禁城を追われていた愛新覚羅溥儀を連れ出して、満洲国の傀儡皇帝にした。
そして、翌日は生家の近くへ。そこは壊されていて、大きなビルにかすかに記憶があった。さらに終戦前から引揚げまでいた浪速通りの家へ、ガイドさんが案内をしてくれた。
それは以前に書いたので、ここでは省略。
奉天に二泊して、三日目、朝市に出かけた。
湿気のない、すがすがしい朝だった。そのときである、この大気こそ、わがふるさとの空気、この風こそが、以前私が息をしていたものだ、と痛切に感じた。私はここで、この大気のなかに、この風のなかにいたことがある。それは理性からくるものではなく、感性からきたものだった。
なぜ、ここでしつこく説明するかというと、郷愁を感じるようでは歴史を直視していないと非難されたからである。
でも……(つづく)