じゃ またね・・・

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発音・・・ホッ!良かった・・・

2010-06-05 | Weblog
クォン・サンウ 荒い慶尚道なまりを 自然に駆使!


 

よく作った学徒兵 悲劇実話 「飽和の中に」
クォン・サンウ、チェ・スンヒョン演技力 論難一蹴 ‘好演’

1950年 6月 25日夜明け、北朝鮮共産軍の南侵で始まった。
6.25 戦争は 我が民族に共食いの悲劇と痛みを抱かれてくれた。
今年は 6.25 勃発 60周年だ。

1950年 浦項戦闘当時戦死した李根優学生身幅で発見された手紙で始める。
「飽和の中に」は浦項戦闘に参加した 71人の学徒兵を主人公にした実話映画だ。

当時 私たちの貧弱な軍事力を補うために自発的に軍隊に入隊した人々。
学徒兵は 歴史の悲劇の中で 一つ二つその光を明滅していった。


実は  6.25 みたいな 戦争を素材で映画を作ることは言葉のように易しくない。
特に 理念の均衡店で映画が ややもするとどの限り方へ少しだけ傾いても 非難を浴びることがそらぞらしいからだ。

「飽和の中に」では こんな危険を意識したように最大限均衡を維持しようと努力する。
監督の言葉通り映画は「戦争に参加した人々の話」を描き出すだけだ。

「私の頭の中の消しゴム」などで演出力を認められたこの監督と エンターテイメント産業の神話を創造したという情態院製作者のゾハブウロだけも 映画は期待を持つこと十分だ。

作品性と興行性を保障受けた「飽和の中に」だったが、製作に先立って 多い人々は 大きく二部分で憂慮を見せた。

一つは前述した均衡の問題で、他の一つは チェ・スンヒョンの演技力、クォン・サンウの発音問題だった。


しかし 実際に蓋を開けてみたら こんな心配は繕ったことが明らかだった。

クォン・サンウは荒い慶尚道なまりを自然に駆使したし、
チェ・スンヒョンも「アイリス」で見せてくれた心細い演技力は 陰も形もなく すべての演技を立派に消化した。

この監督も メロ映画専門監督という憂慮を払拭させるように どんな韓国映画より素敵な戦闘シーンを演出した。
特に 映画初盤市街戦は リアルながらも よほどスタイルリスィした場面を盛り出した。

スローモーションとフエード技法を主に使った前投資信託は一つの CFを連想させるほどだ。

この監督は 映画賞の展開を優先視して 学徒兵たちの個人事を果敢に排除する戦略を選んだ。
あれほど映画も淡泊になった。
学徒兵たちの過去話より 彼らが軍人で変わって行く過程に フォーカスを合わせている。

「飽和の中に」では どんな理念的論難もなしに今私たちが住んでいるこの地が 彼ら学徒兵たちの命をかけた犠牲で可能だったということよく見せてくれる。
‘よく作った戦争映画’「飽和の中に」は 16日封切りする。

発音・・・何言われるかと ドキドキしたけど・・・
良かった!!

上手く台詞 言えたんやね~

いろいろな意見

2010-06-05 | Weblog

[レビュー] ‘ナレーティブ’に 錫牲された ‘キャラクター’映画[飽和の中に]

朝鮮戦争の学徒兵実話をスクリーンで会う。


映画 [飽和の中に] 朝鮮戦争当時 学生の身分で戦争に参加した学徒兵たちの実 話を扱った作品だ。
特に 1950年 8月 11日起った浦項女子中戦闘を集中的に扱っている.。
記録によれば この戦闘に 71人の学徒兵が参加して 48人が戦死したと言う。

軍人ではない学生だったが 祖国のために命をかけた 48人の切ない死。
その中には 確かに限りない事情と事件が存在したはずだ。
しかし 彼らを忘れずに憶えようと話す [飽和の中に]は 逆説的にも徹底的に彼らを忘れてしまった。
ただ二人を 除いて言葉だ。

映画は 学徒兵 中隊長である五臓犯(チェ・スンヒョン)と 孤児出身の にせ物学徒兵グ・ガブゾ(クォン・サンウ)の 葛藤を中心に進行される。
戦闘経験があるという理由だけで 中隊長に抜擢した張犯を 認めないガブゾ 輩らの是非がつながる中に 北朝鮮軍 766袋大将薄霧と(チャ・スンウォン)が 徐々に これらを締め付けて来る。

切なくも 映画は劇中盤を経って 深刻な欠陷を現わし始める。
外部の巨大な敵に 対抗するために内部の対立者たちが団合するというこの慣れたナレーティブ構造が キャラクターを蝕み始めるからだ。

特に 五臓犯は前半部と後半部のキャラクターが全然違った人物に感じられる。
張犯は初めには 戦争の血なまぐささと悲劇性に目を開く純粋な少年と同時に 戦争の告発者だ。
実際朝鮮戦争当時 死亡した李羽根学徒兵の手紙を基盤に構築されたキャラクターだからでもある。

そうした彼が急に ‘行くぞ、飽和の中に’ という血書きを書く熱血軍人で変身する。
どんな理由がない。
敢えて理由を捜そうとすると 北朝鮮軍の威勢に押されて 陣地を離脱して 逃げだしたグ・ガブゾと対立される選択をするという点であるろう。

もう決まったナレーティブが キャラクターを道具的に活用した結果だ。
しかも 薄霧とはこれらに投降できる機会を提供した事がある。
それにもかかわらず 五臓犯は北朝鮮軍を向けて 先制砲撃をする。
急に ‘アンネ’が ‘ランボー’になった感じがする。

グ・ガブゾが 同志らを捨てて逃げだしている途中 また帰って来る理由も 全然説明されない。
五臓犯とグ・ガブゾの 機関銃撚糸場面のためだったろうか?
映画は朝鮮戦争という悲劇を徹底的に 何人の人物のメロドラマで作ってしまう.結果は亡者に対する深刻な欠礼だ。

一番中心になる二人の人物の内面に生ずる変化が表皮的に扱われるのにあげく 学徒兵たちは言うまでもない。
ただ ‘ある日急に’ 自分を犠牲する幼い少年たちに描かれているだけだ。
北朝鮮軍を扱う方式も とても暴力的だ。
二人の主人公の派手なアクションのために錫牲される ‘頭数’にだけ存在する。

失敗した話構造を支えている映像美学は空虚に感じられる。
スローモーションとクローズアップ、,敍情的音楽の全面的配置が どの瞬間から気ま ずさを催すからだ。
俳優たちの演技も 演出の押しを脱したように見える。

一方 映画の初場面である市街戦を含めて大部分の戦闘場面たちは リアルによく 描写されている。
113億という製作コストが納得するほど スケール大きい戦闘場面たちは 戦争の血 なまぐささと緊張感をよく描く。

[飽和の中に]異才した監督は 「同じ血を分けた人々どうし、理念の分断の中で戦地 に命をほうり出してお互いに鉄砲を狙う出たらめな悲劇を映像に盛りたいです」と明 らかにした

問題は 彼の考えと違いこの映画がまだ進行されている分断構図の中で 理念的疑 いから完全に自由なと言う点であるでしょう。

もしかしたら 朝鮮戦争は少数の為政者たちが作った ‘ナレーティブ’に 幾多の民衆たちが彼らの ‘キャラクター’を犠牲しなければならなかったという点で 悲劇かも知れない。
その点において朝鮮戦争と [飽和の中に]は 皆理念的だ。