オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

国のために死ねるか

2016-07-24 | 読書
自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (伊藤祐靖 著)
 
特別警備隊の先任小隊長として、その創設に関わったが、きっかけとなったのは、1999年の能登半島沖不審船事件だった。
日本人を拉致している最中である可能性が高い不審船を発見、追跡。自衛隊史上初めて「海上警備行動」が発令され、激しい威嚇射撃の末、ついに不審船を停船させた。停船させたあと、不審船に立入検査隊を送り込む必要があったが、当時の海上自衛隊には、特殊部隊も立入検査の訓練もなかった。防弾チョッキさえないという状況だった。相手は北朝鮮の工作員である可能性が高く、立入検査隊を送り込めば、「全滅」するはずだった。
 
「自分たちが行くことに意味があるのか」と質問してきた部下に「つべこべ言うな。今、日本は国家として意思を示そうとしている。あの船には、拉致された日本人のいる可能性がある。国家はその人たちを何が何でも取り返そうとしている。だから、我々が行く。国家がその意思を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないとしたら、それは我々がやることになっている。その時のために自衛官の生命は存在する。行って、できることをやれ」と命じた。
ただ、その気持ちを押し付けるつもりはなく、当然、相手も反論してきて、議論になると思っていた。
ところが、彼は反論するどころか、「ですよね」と、粛々と立入検査の準備を始めてしまった。
むしろ、わたしのほうが、「それだけかよ……『ですよね』だけで行っちゃうのかよ」と思うと同時に、彼の人生すべてを背負ってしまった責任の重さに戸惑いました。
ある隊員などは、防弾チョッキの替りのつもりなのか、『少年マガジン』をガムテープで胴体に巻きつけていました。とても滑稽な姿なのですが、わたしは、その清々しく、美しいとしか言いようのない表情に見とれていました。彼らは、命令を下されてからわずか10分の間に、この世のことはすべて諦め、“わたくし”をすべて捨て去ったのです。
あの時、わたしは、70年前に特攻に向った先輩たちも、きっと同じ表情をしていたのだろうと感じました。
この時は、不審船が、再び猛スピードで動き出し、北朝鮮の領海に逃げ込んだため、実際に隊員たちを送り出すまでには至らなかった。
 
こういう任務には、「向いている人」と「向いてない人」がいるということを痛感した出来事でした。立入検査隊員たちは自分の死を受け入れるだけで精一杯で、いかにして任務を達成しようかということまで考える余裕はありませんでした。ところが、世の中には、「自分が死ぬのは仕方ないとして、どうやって任務を達成しようか」と考える人間もいるんです。そういった特別な人生観の持ち主を選抜し、特別な武器を持たせ、特別な訓練をさせなくては、任務を達成することはできない。そのことを痛感しました。
 
わたしに言わせると、そういった人間は100メートル先にいてもわかる。特殊部隊に「向いている人」の多くはコントロールが効かない人なんです。
 
コントロールの効く人とは、言い換えると枠の中にいる人です。そして、普通の人を枠の中に入れるには、飴と鞭を上手に使えばいい。たとえば、子どもなら、これをしたら廊下に立たせますよ、これをしたら親を学校に呼び出しますよ――これが鞭です。罰則と言ってもいい。大人になっても、罰金とか懲役とか、極端な例では、これをしたら死刑になりますよ、というのがそれです。それに対して、これをすれば褒めてあげます、もしくは名誉が与えられますというのが飴です。こういうことを繰り返していくうちに、人は枠の中に入っていきます。ただ、ほとんどの人は、その罰則が正しいのかどうか深く考えて受け入れているわけではない。ただ親が、世間が、上司が、役所がそう言うからそうしている。自分が本当は正しいと思うことをしたら罰則が待っている。それでもやるのか、やらないのか――そういった葛藤をしたことがないと思います。
 
ところが、世の中には、飴にも鞭にも関心がない人がいる。彼らは、「枠」、つまり外側から与えられた価値観では決して満足できない、自分自身の価値観に忠実な人間です。罰則があろうとなかろうと、自分が正しいと信じたことをやる。そして、共通して思っているのは、「満足して死にたい」ということ。金持ちになってベンツを乗り回しても、満足できない人たちなんです。ただ、こういう人は、だいたい不器用で、組織の中では居場所を見つけられないんですね。自衛隊は、ある意味、究極の“お役所”ですから、こういった人たちは、そこからはみ出していました。こういう人たちこそ、自分の命を投げ出してでも、公のために奉仕したい、という強烈な思いを持つことができるのです。最初に隊員を集めた時、よくもまあ、これだけはみ出し者ばかりを集めたものだと言われましたが、彼らがいたからこそ、特殊部隊はできたのです。
 
普通の軍人と違って、特殊部隊は一人でいろんなことができなくてはなりません。射撃も、爆破工作も、格闘も、潜水も、パラシュート降下も……例えるなら、陸上の十種競技のようなものです。十種競技の選手は幅跳びも、短距離も、砲丸投げも、個別の競技で抜群の成績はとれなくても、満遍なく好成績をあげる力があります。特別秀でているものはなくても、すべてそこそこできるという資質、場合によっては器用貧乏と言われたりもしますが、それが特殊部隊には向いているのです。さらに、いろんなことをやるためには、まず勤勉であること。次に器用であること。そして飲み込みが早いこと。若干飽きっぽいところも大切です。これらはすべて日本人の性質に合っているんです。
 
能登沖不審船事件に戻りますと、立入検査隊員を送り出さんとする時、伊藤さんは、「“わたくし”を捨てきった彼らを、それとは正反対の生き方をしているように見えてしまう政治家なんぞの命令で行かせたくなかった」と、書いている。命令を拒否する可能性もあると言い、その代わり、命令を拒否する根拠の中に、“わたくし”の文字は一片もない自信があると言う。だから、拒否しますし、部下にも私の命令を拒否しろと言っていた。
 
しかし、考えてもみてください。人間に対して、「死んでこい」と命令を出すのだから、納得できるだけの理由を示す、というのはおかしなことでしょうか? あれだけの苦痛を毎日積み重ね、その時のために、心と身体を整えている者達に、すべてを捨てさせる訳ですから、それにふさわしいロジックと情熱と、できればオーラをもって、命じるべきです。これは、シビリアン・コントロールうんぬん以前に、最低限の“礼儀”だと思います。自衛官は奴隷ではありません。「死ななくてはならない」理由が、「上がそういっているから黙って行け」とか「規則で決まっているから仕方ないだろう」で行かせる訳にはいきません。その代わり、命令権者自身に私心がなく、心から正しいと思う理由を示すのならば、何だってやるのが我々です。そんなことをしたら、規律が成り立たないじゃないか、などと言う人は、軍事組織のことをよく知らないのだと思います。
 
特殊部隊員の適性と同じことで、罰則に縛られて正しいと思うことができない人間は信用できません。信用できない人間の命令は受け入れることも、作戦行動を一緒にとることもできません。これは、今の自衛隊の組織でもそうです。私が言いたいのは、そういうことなのです。
 
戦前が善で戦後が悪、戦前が悪で戦後が善、いろいろ言われますが本質的には何も変わってないと思います。典型的なのが責任の取り方で、太古以来、この国では「個人の責任」が育ちにくい土壌があったと感じています。軍隊で言うならば、全員スタッフ(参謀)で、責任を取る指揮官が誰なのかを明らかにしない。
もちろん傾向としてですが、1000年以上前から、矢おもてに立ってしまうようなこと、責任をとることは、天皇陛下一人にお任せして、他の者はいい意味で重圧より解放された状態で、どうあるべきかを考えることができていた。そうすれば能力を発揮する人が多い国民性があるような気がするんです。こういった日本人の気質に基づく長い習慣と他国のいいところを融合させた今からの国の形を創らなければならない時期だと思います。
本書は、我々はどういう国家・国民になるべきで、それにはどうしたらいいのか考えるきっかけにして欲しいという想いの本なのです。
 
昨年、安倍首相はテレビ番組に出演し、『私はお国のために死ねる。○か×か?』という質問に△のパネルを挙げていた。
「たかじんのそこまで言って委員会」で本当に△を挙げていた。「いや、そういうことは軽々しく言えないです」と言っていたらしく、津川雅彦が親切に「総理になった時に死ぬ覚悟は出来てるでしょ?」と確認してあげたのに、「死ぬ覚悟が出来てるなんて言っても嘘っぽく聞こえてしまうだろうなと思うので」と逃げたという。
一国の首相であり、自衛隊の最高責任者が「国のために死ねる」と嘘でも明言できないなんて、驚異的だ! 守るのは自分の命であり、国家の命運ではないということを心しておかねばならない。
 
「国のために死ぬという愛国心をどう教育するかが非常に重要だ」と頭を悩ましている政治家は多いだろう。愛国教育の先にあるものは、国家のために死ねということだ。その先にまっているのは徴兵制。国防と言ってみたところで、本土防衛のための国防軍ではない。 世界に展開する米軍の傘下で動員される軍隊だ。従って、何のために死ななければならないの? という問いに答える必要が出てくるが、それが「愛国教育」だ。財界や米軍のために死んでくれと言えないから、天皇の元首化が必要になる。
 
しかし、今の若者に通用するとは思えない。日本だけでなく、世界中の若者に国のために死ぬなんて言うメンタリティを植え付けることができるとは思えない。 伊藤さんの言うように、自分の特殊な価値観を持っていて、その価値観に忠実な人だけだろう。それは時に狂信的に見えるかもしれない。
 
海外の反応
何で死ななくちゃいけないんだ。 他の国に移住するわ。(ノルウェー)
  
 戦うわ。 まぁ常に滅亡の危機にある国だしな。(イスラエル)
  
 俺はやるぜ。何しろカスみたいな人生だからな。(ノルウェー)
     
 国のためには死にたくない。 愛する人々を守るためなら死んでもいい。(ドイツ)
  
 その時、守るものがあるかどうかで決まる(ベルギー)
 
 正直、”No”が現実的な答えだろ(チリ) 
 
 俺はムリ。 俺が戦うのは楽しみを求める時だけだ。(アゼルバイジャン)
   
 本当にどうしようもなくなったら、まぁな(アメリカ)
 
 ゴメンだね。 このクソみたいな国の平和のために死ねるか。(スウェーデン) 
 
 ↑
 おいおい、そしたら誰が移民たちを守るんだ?(フィンランド)
 
 自分の国はゴメンだが、彼女の国のためになら戦ってもいい(イラン)
   
 やってやるぜファシズムの連中め(ロシア) 
 
 俺の命はこの国より重いと思ってる(フィンランド)
   
 ファック、Noに決まってる(アメリカ) 
 
 国のためじゃなくて、もう少し違うことのために戦いたい(チェコ)
 
俺の生命 > その他世界の全て(ドイツ)
 
日本の反応
こういうのは幸せなやつがやるべき。 俺みたいなやつが他の幸せなやつを守るために戦うわけないだろ
 
国というか家族のためだったら戦うってやつはいると思う。
 
 
狂信的だけど、 そんな人がいる国のほうがいいだろうね。 今は政治家も官僚も私服を肥やすことしか興味がない。 愛国心さえあればもっとマシになったかも
これいいね。確かに・・・・国民を愛国教育する前に、まず自分たちが愛国心を持つべきだよ。必要なら、自衛隊に入隊して性根を入れ替えてもらったら???

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