オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

海賊と呼ばれた男

2013-09-14 | 読書
 
異端の経営者、出光佐三をモデルにした人物が主人公の本書が、第10回本屋大賞の第1位に輝いた。読者の多くが「人は何のために働くのか」「働くとはどういうことか」を考え直したという。映画化は間違いないだろう。

1885年(明治18年)、福岡県に生まれた国岡鐵造は、神戸高等商業(現神戸大)卒業後、神戸の酒井商会での丁稚奉公を経て、満25歳で独立。1911年(明治44年)に福岡県門司市に機械油を取り扱う国岡商店を開いた。神戸高商在学中に東北の油田を見学していた鐵造は当時日本に200台程度しかなかった石油発動自動車は今後増え、「いずれ日本の軍艦も石油で走る時代が来る」と思っていた。鐵造は、日邦石油から機械油を卸してもらい、独自に調合した機械油を明治紡績に売ることに成功。また、門司の対岸の下関で37隻の漁船を持っている山神組(現・日本水産)に軽油を売ることになる。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしないという協定があったが、鐵造は、伝馬船(手漕ぎ船)を使って、海の上で、山神組の船に軽油を納品した。日邦石油の下関支店に抗議が殺到し、支店長の榎本誠が鐵造を呼び出す。鐵造は、海の上で売っているのだから協定違反ではないと開き直る。「この気骨ある若い男の芽をこんなことで摘んではならない」と感じた榎本は、黙認。国岡商会の伝馬船は「海賊」と呼ばれ、関門海峡を席巻した。
 しかし、縄張り意識が強い日本市場に新参者が食い込むことは難しい。鐵造の目は外国へ向いていく。国岡商会は、アメリカのスタンダード石油が牛耳っている満州に進出し、満鉄で、スタンダード石油のシェアを奪う。アメリカは石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため、米英に宣戦布告。日邦石油や日本鉱業など4社の石油部門が統合され、国策会社・帝国石油が誕生した。鐵造は日章丸というタンカーを造ったが、1度も運行することなく、日本軍に提供した。国が転覆する時に、一企業の利益などなんの意味もない。日章丸はほどなく海の藻屑と消える。敗戦により、鐵造は、海外の資産全てを失い、膨大な借金だけが残った。鐵造は既に還暦を迎えていた。
 
 鐵造は「国岡商会のことよりも国家のことを第一に考えよ」という信念を貫く。
 官僚的な石油配給公団や、旧体質の石油業界に反発しながら、タンクを購入し、タンカーを建造する。日本の石油会社は株式の50%譲渡など屈辱的条件で外資の傘下に入り生き残りを模索していた。鐵造には、外資が入っていない民族資本の国岡商会がなくなれば、日本の石油業界は外国に支配されるという危機感があった。やがて、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地となり、反共の防波堤として、日本に製油所施設や精錬能力が必要とされるようになった。
 鐵造は、バンク・オブ・アメリカから400万ドルという巨額の融資を受けて、石油業界と金融業界の度肝を抜き、「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれる石油業界のメジャーの目を盗み、外国からガソリンを輸入。「アポロ」と名づけて、全国の国岡商会の営業所で驚くほどの低価格で販売する。 そんな鐵造のもとに、イランの石油を買わないかという申し出が舞い込む。1950年代に、イランの政治家・モサデクを委員長とする「石油委員会」が議会にイランが悲惨な状況から抜け出すには石油国営化しかないと答申し、議会は石油国有化を可決。利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕。イギリスは、「イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言する。 イランにタンカーを送る会社はなくなった。 1953年、イギリスによるイラン石油の禁輸措置を無視し、出光興産が自社のタンカー日章丸二世をイランに派遣した。日本には、サンフランシスコ講和条約によって主権回復することになったものの、まだ進駐軍が居座っていた。日本政府はアメリカやイギリスの顔色をうかがわないとやっていけない。そんな時代に小さな石油会社が戦勝国のイギリスに一泡吹かせた大事件であった。イランへ原油を引き取りに行った日章丸の新田辰男船長も、イランとの契約を成し遂げた佐三の弟や重役も、それを支え抜いた部下たちも、とにかくすごいツワモノだ。当時の東京銀行、東京海上火災保険、通商産業省があえて法律違反を犯してでも出光の決断を支える。あえて出光を助けてやろうという、国を思うサムライたちが、銀行にも保険会社にも官僚にもいた。積荷の所有権を巡ってイギリスは出光興産を提訴したが、出光が全面的に勝利し、戦勝国に対する毅然とした姿勢が日本国民を勇気付けた。
 こんなすごい男がいたのか。出光について知っていたのは名前ぐらいだった。この本のクライマックスというべき日章丸事件についてはまったく知らなかった。当時の新聞には連日1面トップで報道されていたという。
 確かに出光は昭和20年代には奇跡としか言いようのないすさまじい働きをしたが、出光だけが頑張っても日本が復興できるわけがない。当時、私欲を捨てて国民のために働く経営者がたくさんいた。だから奇跡の復興につながった。その後の高度経済成長も、数知れぬ「無名の出光佐三」がいたからできたことだろう。

国岡鐵造は今の経営者たちと対極にある。社員をかけがいのない家族と考えている。タイムカードなし、出勤簿なし、定年なし、一方で労働組合も残業手当もない。近代の企業の経営理念とは相いれない。「社員を信頼して任せているのだから、業務を達成してもらえばよい。なんら社員を拘束するものはない」という考え方だ。しかし面白いことに、今欧米のITの先端企業では、一部そうしたやり方を取り入れている企業もある。
今の経営者と決定的に違うのは、社員を会社の財産だと考えるところにある。終戦直後、人員整理しかないと進言した幹部社員に「何をがっかりしている。一番の財産がまだ残っているではないか」と励ました。60歳で財産を失った男が全社員を鼓舞し、事業を立て直した力強さと勇気に驚嘆する。戦中までの出光は海外事業がほとんどで、敗戦ですべてを失った。大財閥会社が軒並みリストラを行っている中、出光は馘首しなかった。「家族だからどんなに苦しくても切れない。同時に、最高最大の財産を手放すわけにはいかない。」新人を新しい子供が生まれたと考え、自分の睡眠時間を削っても自立を促すべく教育した。社員を消耗品・コストとしか考えない今の経営者には考えられない発想だろう。

日本経済はバブル崩壊後、右肩下がりで低迷が続いている。世界的金融危機リーマンショックが追い打ちをかけた。「100年に一度の大不況だ」と言う。そこに東日本大震災が襲った。日本は大きな痛手を受け、一種のあきらめムードが広がっている。しかし、敗戦のときの痛手に比べたら、それほど悲観することもない。敗戦後、30年足らずで欧州の国々を追い越して米国に次ぐ第2の経済大国として復活した。そうできたのは、土壇場の勝負師、破天荒な実行力を持つ祖父世代が頑張ったからだ。その底流に流れているのは人材を財産と考える経営哲学だった。日本の企業文化の真骨頂がここにある。出光佐三の95年の生涯が今こそ、日本の経営者のモデルになるべきだと思う。

 彼は生涯闘い続けた男だ。国と闘い、官僚や同業者と闘った。組織の下僕・官僚にとっては嫌な男だったろう。日本の石油会社のほとんどがいわゆるセブンシスターズにのみ込まれていく中で一社だけ違うことをやる。人に対する信頼という彼の信条はいつの時代にも通用する。その心情に惚れた人脈がピンチを救い、彼を支える。男が男に惚れると言うことはこういうことなんだと合点が行った・・・・・

「99人の馬鹿がいても正義を貫く男が一人いれば、間違った世の中にはならない。そういう男が一人もいなくなった時日本は終わる。」

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