オータムリーフの部屋

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エジプト・ムルシ支持派があつまるラバア広場を歩く

2013-08-19 | 政治

「シーシ(軍総司令官)によるムルシ大統領解任は革命かクーデターか」で分裂するエジプト。カイロの中心地タハリール広場から車で約30分に位置するナスル・シティーのラバア広場はムルシ前大統領支持派の拠点となっている。軍・暫定政権支持派の中にはラバア広場を非常に危険な場所として認識する人々もいるが、実情はどうか。ラマダン明けのイード・フィトゥル(断食明けの祭)初日のラバアを訪れた。(安江 塁) 

 ラバアに行く前に、タハリール広場周辺にいる軍・暫定政府支持のエジプト人の友人たちと話した。彼らは口を揃えて「ムルシ(前大統領)はエジプト全体のリーダーではなく、自身の出身母体であるムスリム同胞団にばかり利益供与を謀った」とムルシ政権を批判した。それだけでなく、「ラバアには絶対に行くな。危険だぞ」と言う。「ラバアにいるムスリム同胞団は銃を所持し、メンバー以外の通行を阻んでいる」「入場には許可書が必要である。ムスリム同胞団の知り合いが入れば中に入れる可能性があるものの非常に危険である」など警告した。
 「あそこはテロリストの巣窟だ。奴らのせいでエジプトは分断されてしまった。早く軍がラバアにいるテロリスト全員を殺して祖国に平和を取り戻してくれることを祈る」という過激な意見は珍しくない。「お金とお菓子で子どもを呼び寄せて人間の盾にしている」といった話や「外から人を連れ去って身分証明書を取り上げ、牢屋に入れて拷問をしている」「銃火器をカーペットの下に隠している」などの噂もある。タハリール広場の人からするととにかく物騒な場所らしい。私はそんな話を聞いて、ラバアに行って大丈夫だろうか心配になった。
 ラマダン明けのお祭りイード・フィトゥルの初日の8月8日、ムスリム同胞団のメンバーでラバアに出入りするムハンマド・ラマダンさん(34)に案内してもらう手はずを整えた。ガラベーヤ(伝統的な長衣)を来たヒゲの長い初老の男性が迎えに来てくれるのだと思っていたが、彼はスキンヘッドでヒゲはなく、襟付きのシャツにジーンズを履いたハンサムな男だった。
 ムハンマドさんが「日本からカメラマンがラバアでの生活の様子を撮りに来た」と説明するとボディチェックと荷物検査だけで入ることができた。他の入場者を見る限り、身分証明書の提示と荷物の簡単な検査だけで、数十秒も待たずに中へ入っていく。証明書や許可書の類を提示している人は1人もいなかった。
 道を進むと早速数人が寄ってきて「ラバアへようこそ。今日はイードなので存分に楽しんでいって下さい」と笑顔で歓迎してくれた。危険な雰囲気などどこにもない。道に並んだ各テントでは20~30人ほどの男性がブルーシートの上に寝転がって休んでおり、その上には洗濯物がぶら下がっている。コーランを読む人やあぐらをかいて紅茶を飲みながら談笑している人もいる。「まだ日差しが強いからね。エアコンもないし扇風機もないから昼間はこうしてテントで休んでいるんだよ」と男性が寝転がったまま説明をしてくれた。道では子ども達が一生懸命水鉄砲で水をかけていたが、どうやらこれは納涼と狭い区域に暮らす子どもの遊びを兼ねているようだった。
 ラバアでの生活パターンは5種類に分けられる。第1は、ラバア広場のテントに住み着く人で、その多くはシナイ半島やアスワンなど遠方の出身者のようだ。第2は、家とラバア広場を往復している人々で、カイロ近郊在住の人が多い。第3は、家族がラバアに住んで一人で仕事に行く人。第4は、家族と一緒にラバアと家の間を移動する人。第5は、少数だが、家族を家に残して単身で数日間をラバアで過ごす人もいる。

 ムハンマドさんが「ここにはなんでも揃っている」と言うように、机にコップとお湯と紅茶の葉だけを並べた簡易カフェ、お菓子やコーラを売るキオスク、スナック菓子感覚で食べる豆屋、服屋、ジュース屋、持ち帰り専用レストランもある。ゴミを捨てる場所が定められており、集まったゴミはトラックに積んで外へ運び出される。路上に落ちているゴミは少なく、小さなコミュニティを自分たちで維持するための規律を感じられる。
 殉教者追悼のためのテントでは、ラバアへの攻撃で命を落とした人の写真とともに銃を持った警官やブラックブロック(全身を黒服で覆った若者中心の武装集団)の写真も掲示されている。多くの人が携帯電話でそれらを撮影していた。他にも居住テントと同様の野戦病院のような外見だが病院や簡易医療施設、薬局も設けられている。
 タハリール広場に集まってくる暫定政府支持の若者達から、「ラバアに行くことをやめろ」とさんざん脅かされた後で、ラバアの道を歩いてみると、きつねにつままれたようだった。すれ違う多くの人が挨拶をし、イードのお祝いを言ってくれる。人々がリラックスして見える。ギスギスした雰囲気のタハリール広場に対して、ラバア広場にはかつてのおだやかなエジプトの雰囲気を感じることができる。
 「これこそが本来のエジプトだ」とファリードさん(52)は言う。「ここにいるのはエジプト人だ。エジプトの人口は約8,500万人。そのうちムスリム同胞団のメンバーはエジプト全土で100万人から200万人程度だ。ここにいるのは、ムスリム同胞団だけじゃない。自由主義者もいれば民主主義者もいる。我々はエジプト人としてここにいる。革命で手に入れた自由と民主主義を守り、この国を良くしたいと思う人がここに集まっている」
 ラバアの出口付近のカーペットに座っている6人の男性に夕食に招かれた。「エジプトのメディアが嘘ばかりを報道するせいで、民衆がラバアを恐れるようになってしまった」と1人が声を挙げる。「誰でもチェックポイントで検査を受ければ入場できるし、武器なんてありはしない」と言って立ち上がりカーペットをまくって見せた。
 お金と食料で子どもを誘拐していると主張する現政権支持派もいる、と話すと全員の顔色が変わった。「タハリールの人々はだまされている。嘘つきだ。嘘ばっかりだ」とムハンマドさんが呆れた声で言う。「ここにいるのはその辺の子どもじゃない。私の子どもだ。そんな場所で銃を撃ちあうわけがない。そんな場所に家族を連れてきたりはしない」とフランス語通訳のタハ(46)は笑いながら言う。
 夕方のお祈りの時間を迎えたラバア広場では、人々が国旗やムルシ前大統領の写真を持って集まっていた。「エルハル・ヤー・シーシ!ムルシ・ライーシー!(シーシよ、出て行け!ムルシは我々の大統領だ!)」のシュプレヒコールが始まった。ニュースで朝から晩まで流れる映像が、この場所の平穏な日常生活のごく僅かな部分でしかないことを思い知らされる。
 
 タハリール広場とラバア広場は約15kmしか離れておらず、人の行き来もある。「ラバア広場はとても穏やかで、盗みもないし殺人もない。みんなで分けあって生活している。人々は自分の足で来て、自分の足で出て行く」との彼らの弁は確かだろう。では、この情報の解離はどこから来るのか。マハムード・アリーさんの考えはこうだ。「タハリールの若者はエジプトの国営チャンネルしか観ない。直ぐにだまされて軍や警察にいいように利用されている。自分たちが国を動かしているという錯覚による高揚感につけこまれているんだよ」
 ムルシ派の人たちは「自由と民主主義」という言葉を繰り返し使う。「2011年1月25日のエジプト革命で我々は軍政に終止符を打ち、自由と民主主義を手に入れた。1月25日革命はムバラク体制の頭であるホスニ・ムバラク(元大統領)をすげ替えることには成功したが、その身体である軍・警察・司法・メディアはそのままだ」「ムバラクは刑務所に入っているのに、同じ罪を犯した人々がまだ権力を持ったままだ。これでは国は変わらない」とタハ氏は両手を上げた。革命時も昨年6月の大統領選挙時もタハリール広場で叫ばれたスローガンは「軍政を終わらせろ」だった。
 「我々も革命の時には一緒に自由と民主主義を求めて闘った。今やエジプトは民主主義国家だ。民主主義国家でクーデターなんて許されない。私たちは今も自由と民主主義のために、そしてエジプトの団結と平和を求めてここにいる。祖国の時間を巻き戻さないためにここで戦っているんだ。」
 テントの下で寝転がって、食後の紅茶をすすりながら、民主主義を熱く語り合う人々を見て、改めてラバア広場の穏やかな空気を感じた。
 
ムルシ派のデモが強制排除された14日以降、一連の衝突による死者は800人を超えた。暫定政権のベブラウィ首相は17日、「血に汚れた手で武器を持つ者と和解はできない」として、ムルシ前大統領の出身母体「ムスリム同胞団」に対し、解散命令を出すことを検討していると述べた。
 同胞団は2011年のムバラク政権崩壊まで、長く非合法とされてきたが、福祉活動などを続け、貧困層を中心に支持を集めてきた。実際に解散命令が出たとしても、それを受け入れる可能性は低く、一層の反発を招くのは必至だ。事態の長期化とともに、暴力のさらなる激化が懸念される。
 同一民族でも亀裂は深い。一方的な報道をうのみにして、相手の実像を知ろうとせず、憎しみだけが増幅していく。
山歩きの帰りの電車にペンライトを持ったギャルが大勢乗りこんできた。聞くと、韓国の人気男性グループのコンサートだったらしい。マスコミの偏った報道に影響されず、自分の肌で感じた好悪を信じた方が確実だろう。どの国にもいろいろな考え方の人はいる。日本を含めてどの国にも親しく付き合いたい人もいれば、近づきたくない人がいるのは当たり前のことだ。何国人すべてが嫌いと言うのが異常なことなのだ・・・・・この偏狭な考え方が戦争勃発の温床になる。
 

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