オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった;

2015-10-27 | 映画
敗戦の一年前、1944年8月、とんでもない事件がオーストラリアの「カウラ捕虜収容所」で起こった。
『 シドニーの西にあるカウラという小さな街で1944年8月5日、日本人捕虜が暴動を起こし、1104名の捕虜による史上最大の大脱走は、オーストラリアでは誰もが知る有名な事件。日本では知る人は少ない。
2008年7月8日の21:00-23:18に、日本テレビ系列にて放映された実話を基にしたテレビドラマである。 エンドロールの後に「このドラマは佐藤憲司氏(現・87歳)の体験談をもと
に脚色した物語であり、設定・名称等は実際と異なります。」という一文と共に、佐藤と思われる軍服姿の若者の写真が画面に映された。この佐藤という人物は、脚本を担当した中園ミホの伯父であり、カウラ事件の体験者である。ドラマ冒頭部におけるオーストラリアでの現代のシーンは、中園が佐藤とのオーストラリア旅行の際に起こったエピソードそのものであり、このドラマが生まれるきっかけでもある。
 
かつて第二次世界大戦で兵役についていた朝倉憲一は、孫娘・舞に連れられ、オーストラリア・シドニーの西320kmにあるカウラ(Cowra)という小さな町にたどり着いた。事情を何も知らない舞は、憲一が何故今ここに来たのか、何をしに来たのかわからないまま、目の前に広がる何もない荒涼とした大地に呆然とする。憲一は“ある想い”を胸にこの地にやってきたのだった。その昔、自分が”捕虜”として過ごした地、カウラに。
 
 昭和19年1月。 九八五三部隊に所属する兵長の朝倉憲一は、上官の嘉納二郎伍長と共にニューブリテン島で連合国軍と戦っていた。悪化する戦況。食料も尽き、仲間ともはぐれ、何十日もひたすら逃げ続けることしか出来なかった2人の前に、ある日、連合国軍の海兵隊が現れる。ついに、ここで殺されてしまうのか。 それとも捕虜となり辱めを受けるのか。当時、日本政府は日本兵の捕虜は存在しないと公表していた。捕虜になることは“戦死”つまり、“死”として家族に伝えられていた。
「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
叩き込まれた「戦陣訓」が憲一の頭をよぎる。これからどんな苦難が待ち受けているのか、どんな残酷な方法で処刑されるのか。いっそ殺してくれ、と懇願する憲一だったが、その願いは聞き入れられないままオーストラリアへと連行されてしまう。そうしてたどり着いたカウラ第12捕虜収容所で、憲一は“思いもよらない光景”を目の当たりにする。野球、麻雀、花札をはじめとする遊びに興じる日本人捕虜たち。十分な食事、そして十分すぎる自由。捕虜に身をやつす自分が、この体たらくで良いのか。生き恥をさらしながらもおめおめと生きていていいのか、それとも潔く自決すべきなのか。答えのない自問を繰り返す憲一だったが、数ヶ月前までの激戦が嘘のように、ただただ、のどかな時間が流れていくのだった。ところが、ある日、黒木という軍曹たちが新たに捕虜としてやってくる。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
平和な日々の中で憲一たちが忘れかけていた、あの「戦陣訓」を声高に叫ぶ黒木たち。それまでの安穏とした日々が少しずつ、変わっていく。
 
 
大日本帝国の軍国主義に頭から爪先まで染め上げられ、120パーセント軍人教育に洗脳された軍曹や下士官らは、のんびりと捕虜生活を享受している者が許せない。「お前たち、それでも皇軍の兵士か」「皇国の掟に従えば、我々はすでに生きていてはいかんのだ」「大日本帝国の兵士に捕虜はいない」と、『戦陣訓』を叫ぶ。そして「恥を雪ぐために」脱走を主張する。そこで各班の班長が集まって会議を開いた結果、全員に賛否を問うことになった。
脱走反対派は「もう誰も殺したくないし、自分も生きていきたい」「死ぬところを助けられたのだから、また死ぬのはごめんだ」「死ぬことよりも生きることを大事にしたい」といったものだが、軍曹らは反対派の沖縄出身の漁師に「自決しろ」とナイフを突きつける。賛成派が支配的となるなか、投票が行われ、自由意思による選択とは名ばかり、実質的には「卑怯者、弱虫」と呼ばれたくないから○をつけることになる。「もう自分は帝国軍人ではない」「命が惜しい」と本音は言えない。
圧倒的多数が○をつけた中で、主人公を演じる大泉洋は×をつける。そして「生きたい」との思いを押し殺し、○を投じた戦友たちに、切々と訴える。
「僕は誰も殺したくないし、自分も生きたい」
トイレットペーパーに○×を書いて投票した結果、脱走賛成派が圧勝する。
 
8月5日午前1時40分、進軍ラッパを合図に1104人が一斉に鉄条網に向かって走り出す。投票では×を付けた反対派も加わった。監視所を襲う役目の者は武器が無いので、テーブルナイフやフォーク、野球のバットを振り回す。この戦争の歴史でも稀な愚行によって、日本兵234人オーストラリア兵4人が死亡した。それにもまして酷いのは、腕や脚がないため脱走・暴動に参加できない者20名ほどを、むりやり自決に追いこんだことだ。自決できないものは「介錯」と称して殺した。
 
機関銃の弾丸に当たらず鉄条網を乗り越え300人ほどが脱走したが、ほとんどが捕まった。「大義」だの「名誉」だの「雪辱」だのと威勢の良い大口叩いていた割には、自決した者は脱走成功者の1割30名ほどであった。この事件はもちろん日本にも知らされたが、大本営は一切を封殺。オーストラリア人は「死ぬために脱走するなんて異常としか思えない。まったく理解できない」と呆れかえった。
生き残った日本人捕虜800人余りは、敗戦翌年の1946年3月にシドニーから帰国した。捕虜だったことには口を閉ざして生きた。
 
クレイジーな日本兵に嫌悪感を覚えながらも、カウラの人たちは死んだ日本兵のために墓をたててくれた。そのお礼の意味もあり、日本もそこを日本庭園にし桜を植樹した。
 
 
   日本軍の蛮行は同じ日本軍に対しても残虐なものだが、こんなバカげた信じられない話がまだあった。戦争の狂気がなせる業と思っても人間性のかけらもない愚行である。近頃、自民党の議員たちを見ていると、無知なノ-タリンがたくさんいる。戦時中でもないのに、この有様だから、戦争になったら、日本軍の愚行がまたぞろ始まるのかと思うと、身の毛がよだつ。
 大切な誰かを守ろうとして戦い、捕虜になった。捕虜になることが恥ずかしいとか、一億玉砕とか、一体どんな経過で国民は洗脳されていったのか。
 
戦局が絶望的となった1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に「もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ」との記載をし、1945年4月の戦艦大和の沖縄出撃では、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」との表現が使用された。
玉砕とは玉のように砕け散るという意味で、兵士の自発的な死を推奨する言葉だ。戦局の圧倒的な不利という状況があり、他方には捕虜になることの禁止という内面的要請がある。兵士は絶望的な状況の中で、名誉ある死を遂げるために、自ら進んで死地に赴く、それが玉砕という言葉で犬死ではなく、崇高な死に美化されたわけだ。配布された軍隊手帳には、戦陣訓として「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が記されていた。日本軍の兵士たるもの、捕虜になるくらいなら、自ら死地に赴き自爆して果てるべきだ、というのであるから、自殺の強要である。軍指導者は、兵士の自殺に崇高な意味を付与し、戦意の維持を図るために、日本軍の全滅という事態に直面するたびに、玉砕という言葉で祀り上げた。兵士の集団自殺を美化したのである。
 
大本営が始めて玉砕という言葉を使ったのは、昭和18年5月、アリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した際だった。全滅の報道の中で、大本営の報道官は山崎隊長以下アッツ守備隊全員の英雄的行為を称え、それが兵士たちの自発的な意思にもとづくものだったと発表した。ところが実際には、山崎隊長以下は、本土からの兵士や物資の補給を要請し続け、最後まで生きることにこだわっていたという。そんな彼らを大本営は切り捨てたというのが実情だったようだ。アッツ島におけるような軍隊の全滅という悲惨な状況は、すでに前年から始まっていた。ニューギニアのブナやソロモン諸島のガダルカナルで、日本軍は全滅あるいはそれに近い壊滅的な敗北を喫していたが、大本営はその敗北を国民に隠して、うそをつき続けていた。だがもうこれ以上うそをついてはいられないと悟ったとき、全滅という悲惨なイメージをカムフラージュするために、玉砕という言葉を編み出した。玉砕という言葉は国民に受け入れられ、死者の数はうなぎのぼりに増えた。日本はこの戦争で310万の死者を出したが、そのうちの大部分、200数十万人は、玉砕報道以降に死んだ人たちである。玉砕には、兵士の自殺を当然視する思想がある。その思想が一人歩きすると、兵士の命を軽んずる考え、つまり棄軍思想がはびこる。兵士の命を軽んずる考えは無論、国民全般の命を軽んずる思想につながる。ここに棄民思想が蔓延する事態になった。
大本営海軍部の将校(富岡大佐)は、ニューギニアの部隊の全滅という事態をとりあげて、あの軍は敗残兵なのだから、死ぬのはあたりまえじゃないかといったそうだ。こういう人間が指導者であるかぎり、日本軍が兵士や国民に責任をもった行動をとることなど考えられない。またそんな連中だからこそ、一億玉砕などという言葉で集団自殺を強要することができたのだろう。
アッツ島の玉砕では2600人全員が死んだと思われていたが、実際には27人の兵士たちが生き残った。彼等は戦闘中に重傷を追って自殺も出来ない状況のなかで、米軍によって捕虜にされ、結果として生き残った。生き残りの兵士のひとりは「運悪く生き残ってしまった」と後悔し、ひとりは「どうして生きてしまったのだろう」と自問し、もうひとりは「生きて恥をかいた」と自責した。
 
戦時下で、国の建前に異を唱えることは想像を絶する勇気が必要だ。場合によっては命すら奪われる。そして今、そのような時代に逆戻りしつつある。
戦争は個人生活の破壊であり、死を強いられるだけのものである。戦争は、国の政治を握る支配層の好むところであり、権益をかけたゲ-ムなのだ。そのゲ-ムの微小な駒に過ぎない国民の抵抗は自分の命を至上のものとし、他人の命を尊び、人権を無視する支配層に不断のNOを突き付けていくしかない。

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