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関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文取りやめ

2017-09-03 | 政治
東京都の小池百合子知事が、9月1日に市民団体の日朝協会などが主催する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、都知事名の追悼文を送らない方針を決めた。都知事は例年、追悼文を出してきたが、小池氏は今春、見直しを示唆していた。主催者からは「突然の方針転換は納得できない」と非難する声が上がっている。
追悼式は毎年、日朝協会や日中友好協会などが、都立横網町公園(東京都墨田区)で開いている。1923年の関東大震災時には「朝鮮人が暴動を起こした」といったデマが広がり、多数の朝鮮人や中国人が虐殺された。式典では、その犠牲になった人たちも追悼している。都や式典の主催団体によると、式典には例年、石原慎太郎元都知事らが知事名で追悼文を寄せてきた。小池氏も昨年、「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などとする文を主催者に送っている。だが今年は、主催団体が5月に追悼文送付を要請したところ、担当する都建設局が今月、送付中止の方針を伝えたという。
その理由について同局の担当者は「毎年9月1日に都慰霊協会の主催で関東大震災の犠牲者全体を追悼する行事があり、知事が追悼の辞を寄せている。個々の追悼行事への対応はやめることにした」と説明した。小池氏は3月、都議会で自民都議が、主催団体の案内文に虐殺の犠牲者数が「6千余名」とあるのは根拠が希薄などとして問題視し、追悼文送付を見直す必要性を指摘したのに対し、「毎年慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁して見直しを示唆した。都建設局はこの答弁などを受けて追悼文の送付中止を検討し、その方針を小池氏も了承したという。
日朝協会都連合会の赤石英夫事務局長(76)は「天災による犠牲と、人の手で虐殺された死は性格が異なる。一緒に追悼するからという説明には納得できない」と話している。(朝日新聞デジタル 2017年08月24日 12時45分)
 
 
 
小池氏も日本最大の右翼組織「日本会議」の国会議連に所属しているから、当然と言えば当然だ。
 
虐殺という被害に遭った朝鮮人及び中国人を特別に追悼する意味は、歴史の汚点として謝罪し、反省するためである。天災被害者と同レベルで扱うことが許されるのなら、ナチのホロコーストを特別扱いせず、大戦で亡くなった人を等しく追悼しましょう、と言うのと同じになる。
 
「朝鮮人が武器を持って暴動を起こしている」、「井戸に毒を入れている」などといった流言が広まり、日本人によって多くの朝鮮人が命を奪われる事態になった。では、なぜそのような流言が広がり、朝鮮人の虐殺に繋がっていったのだろうか。そもそも地震の時に外国人が暴動を起こすという、発想自体に違和感がある。
 
関東大震災時に単なるパニックで流言が飛び交ったのではなく、行政が流言を広めてしまったらしい。
震災直後の9月2日に山本内閣は戒厳令を発したが、その日早くも埼玉県では内務省(警察・地方行政)の指示により、各町村に「東京の大震災に乗じて、不逞な朝鮮人多数が川口方面から流入してくるかも知れない。また過激思想の者が朝鮮人と一緒になっているとも聞く…」という通達を出した。3日には、全国の府や県の知事に「東京における朝鮮人暴動」を打電している。根拠となる事実は皆無であるにもかかわらず・・・・・。朝鮮人と左翼を、まとめて抹殺する謀略と言えよう。
 
さらに、南京大虐殺と同じように、虐殺自体を否定しようという輩も近頃目立ってきた。
 
虐殺によって殺された人々(朝鮮人と、誤殺された日本人、中国人)の数は、震災全体の死者数の1%から数%に上るだろうと内閣中央防災会議の報告書が明らかにしている。当時震災で死んだ人は10万5000人、1%はほぼ1000人。これは、歴史学の常識であって、まともな歴史学者の範疇に入る人で、「朝鮮人虐殺はなかった」と言っている人は一人もいない。また、震災後の2年後に出た警視庁の報告でも、「朝鮮人が暴動を起こした」といった話が流言であって事実ではなかったということを前提に書かれている。そうした流言がどのように発展し、どのように広がっていったのかということも分析している。
 
ジャーナリストである徳富蘇峰も、「かかる流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば、残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず」と書いている。要するに朝鮮人虐殺が実際にあったこと、朝鮮人暴動などデマだったことは当時から常識だった。今になって、暴動はデマじゃなくて本当にあった、虐殺はなかったというようなことを言い出すのは、90年経って当時を知る人がもはやこの世にいなくなったのをいいことに、歴史を改ざんしようとする人々が増えたということだ。
 
 
虐殺の現場は凄惨を極めたらしい。惨たらしい証言が多数あるが、ここに記述するのがためらわれる。女性に対する差別意識もあって、性的に辱めを受けるような殺され方もしたらしい。多数で少数のものをいたぶると惨たらしくなりやすい。惨殺する過程自体を楽しむ様相になるからだ。自警団の論理の中では、政府やメディアが煽っているのだから、国のために異分子を殺す英雄的な行為と思ってやっていたものもあるという。警察署で保護されている朝鮮人を襲って殺したりしている例も多いと言う。
 
 
しかし、日本人すべてが狂気に駆られて、虐殺したわけではない。テレビでも放映されていたが、こんなヒュ-マニズムにあふれた警察官も存在していたという事実に嬉しくなった。
 
『警察史』から抜粋すると、『二日夕、自警団員が四人の朝鮮人を鶴見署に突き出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒いだ。当時、46歳の大川署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」瓶の中身を飲み、暴徒を納得させた。翌日、状況はさらに緊迫。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護する。群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えた。しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言った「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。すると大川は「その場合は切腹して詫びる」と答えた。そこまで言うならととうとう群衆は去って行った。保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上る。保護された朝鮮人・中国人は合わせて301名に増え、9月9日鶴見警察署から横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移しその後海軍が引き受けて保護した。保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したという。大川常吉氏は1940年(昭和15年)死去。墓地は東漸寺にある。死後13年目の1953年、関東大震災30周年を機に石碑が建立され大川常吉氏の遺徳を刻んだ。
 
大川常吉氏は後年「警察官は人を守るのが仕事、当然の職務を遂行しただけ」と語ったという。あの当時、あの状況下で、多数の暴民に取り囲まれながら、 署員30名で多数の朝鮮人らを守り抜いた大川常吉氏の行動はヒューマニズムの原点である。「日本のシンドラー」といわれ6000人のユダヤ人にビザを発給し続けた杉原千畝・駐リトアニア共和国代理領事とともに、日本人の誇りでもある。
 

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