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オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

浅田次郎 エッセイ

2011-08-30 | 読書

浅田次郎のエッセイ集を読んでみた。三島由紀夫の自殺の数ヶ月前に偶然遇った(見た)ことで自衛隊に2年間入隊したり、親との関係がサバサバしていたり、着道楽だったり、饒舌家だったり、意外な側面を知ることになった。
近頃の小説はすぐ映像化されるから、映像化しやすいものが受ける。私小説を書いて神経症っぽい作家はまず生計を維持できない。多作でないとやっていけない。勢い、体力勝負になる。三島由紀夫が体を鍛えていたのはその辺を考慮してのことなのか?しかし、あえなく奇矯な自作自演の演出で自殺となってしまった。

ストーリーテラーでなければ小説家は長続きしないだろう。嘘八百をリアリティ豊かに面白がって表現できる才能を持ち合わせている作家はやはり太っている。健啖家で饒舌、悩みなしの楽天家とくれば、デブになるしかない。「デブの語源は何か」とデブばかりの酒宴で議論になったそうだ。デブチンから類推してダブルチン(二重顎)と言う英語からという説がもっともらしい。浅田次郎は自衛隊での訓練も相当楽しんだようだし、講演が大好きだし、図太い神経の持ち主だ。当代随一のプロ作家と言える。

映画俳優のように気障な両親で本人も父親似のダンディ振りを自慢していたようだ。今は?・・・・デブな面白おじさんと言うとこか・・・・・無類のギャンブル好きでもあるらしい。決してのめりこんだりしないが、日常性や書き終わった小説の思考をリセットするためにラスベガスのギャンブルを利用しているようだ。
 
坂本龍一とは1歳しか違わないが、血気盛んな坂本青年と比べると随分世慣れたおじさんだ。

これからも手当たり次第にジャンルを拡げて楽しませてくれるだろう。

坂本龍一 天童荒太 対談集

2011-08-28 | 読書

坂本龍一と天童荒太の対談集を見つけたので読んでみた。坂本龍一は1952年生まれ、子供のときから自由人だったようだ。都立高校で試験中に答案を破り歩いたり、学校に要求して通信簿や制服を止めさせたり、全共闘の影響を受けた高校生だったらしい。小学校のとき「将来何になりたいか」と言う質問に「ない」と答えたそうだ。中学のとき、母親に同じ質問をされて「働かないで女性を喜ばせていればいいから、ひも」と答えたそうだ。お母さんの反応は「サラリーマンより女性を喜ばすことの方が大変よ。」・・・面白いですね。でも、紐って言う言葉、男性差別だわね。女性なら専業主婦と呼ばれるわけだから、専業亭主(専業主夫というのはどうもしっくりこない)とか呼称変更すべきですね。

龍一さんの面白いところ
愛する家族が殺されたら、仕返しに行って殺してやると言う。加害者の親が謝らないことにも随分立腹の様子。へえー、随分熱いんですねえ。驚きです。自分にはそう言う感情は多分湧いて来ない。中学校くらいから、自分が何をしても親には関係ないと思っているし、自分の子が何をしても自分に責任があるとも思えない。親より友達や社会が子供を育てると思っているから、とても龍一さんの考えにはついていけない。

日本の借金は膨大で返せないと思っているところは同感。爆発するしかないよね。何時爆発するか?そのとき何が起こるか?日本を震源地とした世界大恐慌?イメージ湧かないね。アメリカ国籍も持っている龍一さんはそのときアメリカに逃げると言う。アメリカが駄目なら、気に入っているアフリカに逃げることも考えていそうな人だ。天童さんは逃げる気はないらしい。あまり生に未練はなさそうだ。
龍一さんは自分は17年蝉だと言う。17年間地中にいて2週間の地上の命だから、速く済まさなくちゃと焦るそうだ。ご飯食べるのも速いし、セックスも速く済ませて子孫残さなければ・・・・と考えるそうだ。
逃げるときのイメージも細かい。グランドピアノを購入したとき、ネーム入りにするのを断ったそうだ。アメリカやイラクの将校に売ることもあるかもしれない。そのときネーム入りでない方が高く売れる。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えて面白がっているらしい。

「白線までお下がりください。」と言う駅のアナウンスにも「下がらなくて轢かれても俺の勝手だから、文句つけるな」とむかっ腹をたてる。「事故があったら、私ども会社も皆さんにも迷惑がかかりますのでお下がりください。と正直に言えば、言うこと聞くのに」・・・・裏返せば、命を心配しているアナウンスに聞こえるわけだ。そんな風に聞こえるなんてナイーブだね。

発想が面白い。笑わせてもらいました。ありがとう。

いろんな型破りな人がいて型破りな生き方をしている人が多くなれば、社会通念に縛られることも少なくなるから生き易くなる。
「人は生来、他人が怖いと言う感情は自然なことなんだ。他人とコミュニケーションをとるのは簡単なことじゃない。」
「アメリカでは人間と人間が分かり合えるなんて誰も信じていない。だから、法律や契約を整えて話し合える土俵を作る。話し合いすらできないのが人間なんだ。言葉だって通じない場合が多々ある。」
「日本では家族や友人は分かり合えるんだ、と言う幻想を持ってしまっている。」
「人は怖いと言うのが当たり前で自分と言うものを守るためにも成長していくためにも、対話していく他ないと諦めた方がいい。」・・・・同感です。
日本は画一化した国だから、その規範から少しでも外れると辛い生き方を強いられるんだよね。インドやアフリカは何でもありだから、「自分は画一的な人間じゃない。」と悩んでいる余裕なんて、まるでなさそうだ。

家族狩り 文庫本5巻

2011-08-06 | 読書

 
引きこもって家庭内暴力を振るっていた子供が両親を無残なやり方で殺して自分も死ぬと言う一家無理心中事件が起きる。
 刑事の馬見原はどうしても子供がそんな残酷なやり方で両親を殺すことができるとは思えない。2件起こった同じような事件を一人手繰っていくと、共通点が見えてきた。
 
5巻に及ぶ長編はこの2件の事件を軸に重い過去を背負った登場人物の心の揺れを織り交ぜながら、悲劇の大団円に導いていく。
 
引きこもりや家庭内暴力、児童虐待などの重い問題が題材なので、気が滅入って読み進めなかったが、第3巻当たりから「家族罪仕置人」みたいな様相を呈してきたので、フィクションと割り切ってすらすら読み進めることができる様になった。
 
刑事、馬見原は、愛息子を亡くし、娘からは罵倒され、妻も精神病院に入退院を繰り返している。愛人、綾女とその連れ子を守るためにやくざな夫を別件逮捕したり、警視庁の情報を流してやくざから袖の下をもらったり、自分の信念のためには手段を選ばない所がある。人間は所詮一人ぽっちであることを骨の髄までわかっている人物だ。
高校教師・巣藤浚介は、恋人と家庭をつくることに強い抵抗を感じていた。自分の周りで起きる事件にも、意識的に関わらないようにしていたが、自分がおやじ狩りにあったり、生徒の犯罪に巻き込まれていくにつれ、傍観者でいることに耐えられなくなっていく。優柔不断で優しく、自信がない。一番親近感を感じる人物だ。
児童心理に携わる氷崎游子は、虐待される女児に胸を痛めていた。迷い、疲労困憊しつつも、理性的に問題を解決しようとする。
 
女子高生による傷害事件が運命の出会いを生み、3人は絡み合いながら、それぞれに人生を模索していくことになる。
 
子供による親の殺害、親による子供の殺害など、家庭内の崩壊が原因らしい事件も珍しくなくなった。
ニュースを通じて流れてくる情報は表面的なもので、そこから事件の真相なり、経過なり、動機なりを読み取る事は難しい。特別な家庭に起こることではない。地域社会が崩壊して、核家族による密室化で、事態が深刻になりやすいように思える。登校拒否や引きこもりも長い間放置しておくと、取り返しのつかない、とんでもない状況に悪化してしまうことがある。あまりに長い期間、引きこもりをさせておくのは本人の社会適応力を奪ってしまうから、少々、荒療治でも、引っ張りだした方が良い場合もある。ケースバイケースで万能薬のような処方箋があるわけではないから難しい。
 
現代の不条理な事件を、奥深くまで掘り下げて、問題提起した作品と言える。
このような家族の不幸が普通の家庭に起きる原因は価値観が平板で貧弱、多様性を欠いていることにある。その一元化した価値観から振り落とされたものは劣等感を持たざるを得ない。親も子もエスカレーターに乗って振り落とされないように必死なのだ。当事者たちには他の世界が見えなくなる。見えても勝者の世界とは思えない。確かに職業に貴賎はあるし、かなりの部分お金で支配される世の中だ。
 
馬見原の妻が夫に従属的であることを止めて自分の価値観でこれからの人生を歩んでいこうとすること。巣藤と游子が理性的に結ばれて、相手に依存することなく、ともに歩んでいこうとする姿勢。馬見原と娘の和解。女子高生、亜衣の自立と新たなる出発。そんな変化に希望が見える。それは遠い光に違いないが、相手の気持ちを思いやること、社会に関わり続けること、自立すること、多様な価値観を持ち続けること、そんな風にして社会のあり様を変えていくしかないだろう。
 
これだけの人数の登場人物がそれぞれの物語を持ち、心理もきちんと描写され、考えさせられる小説だった。人生の敗者になったと感じ、自暴自棄になった青年たちが通り魔的事件を起こしたり、薬物に溺れたり、自分を傷つけるだけでなく他人にも危害を加える場合がある。短絡的に考えると、この小説のような解決策もありうるだろうが、人間は何かのきっかけで変わると言う希望を持ちたい。
 
やはり家族や恋人に依存することで手に入れた幸せはもろい。相手次第で幸せは崩壊する。幸せは自分の手で作り出し自分で守らねばならないものだ。
 
 
最近、周囲で震災のボランティアに出かけたり、原発反対のデモに参加したり、自分の気持ちに沿った行動を気軽にする中高年が増えてきた。周りの思惑に敏感になったり、斜に構えて行動の意味を問うたり、自分の力不足を卑下したりしないところが良い。自分の内部から湧き起こる気持に素直に従って行動に移す姿はすがすがしい。自己満足でしかないと思いつつも行動を起こすことは大切なことだと思う。
 
人生の達人、中高年が私利私欲から離れて社会にコミットしていけば、この世の中はもっと住みやすくなるに違いない。

再び、永遠の仔

2011-07-10 | 読書


この本は児童虐待の他にもこれからますます深刻になりそうな問題を提示している。
老人介護の問題だ。私が思い至らなかった新しい考え方や老人に対する思いを書いている。

「子供は社会の財産と言って近所や学校、保護者のネットワークなどで見たり育てたりする考えがある。老人にも同じ考え方が必要だと思う。」
「お年寄りの笑顔も素敵です。中には子供に戻られて無垢な笑顔を見せてくださる方もいらっしゃる。生きていればたとえ寝たきりになったとしても、痴呆症になったとしても亡くなった人には与えられない多くのものを持っていると信じられる笑顔です。」

年寄りは社会の財産。なかなかなじめない考え方だ。考えてみれば、老人も弱者である。テレビで憎たらしい政治家をたくさん見ているから、そんな考えはついぞ思いつかなかった。確かに老人虐待の話もちらほらニュースで流れる。自分も関わっていく重い問題だ。

母にネグレクトされた主人公の一人モウルは母親を見返してやりたくて、母親に褒められたくて、弁護士になり、アルツハイマーの母親と再会する。子供に帰った母は彼をお父さんと呼んで甘える。
見返したり、復讐したかったのではなさそうだ。母親に認めてもらいたかった、褒めてもらいたかったのが本意のようだ。母の情事の最中、押入れに閉じ込められていたのが原因で暗がりを恐がり、性的不能になったモウルがなお母の愛情を求める虐待の深刻さを感じた。母は男運が悪く、男を変える度にモウルへの抱擁と遺棄を繰り返していた。遺棄を繰り返されても戻ってきたときの母の優しさは彼にとってかけがいのないものだった。

一方、よい子でなかった罰として母にタバコを押し付けられ、無数の火傷が体中にあるジラフは親を切って捨てているように見える。刑事になって性的虐待を受けた子供に犯人への憎悪の気持ちを吐き出させようと誘導する行為からも親に対する憎悪を抱き続けているように見える。

母原病やアダルトチルドレンという言葉が一時流行し、若者の不登校や引きこもりが親のせい、特に母親のせいにされた時代があった。カウンセラーも治療に当たって、患者が「自分がこうなったのも母親が原因。」と気づかせて治療していく傾向が見られた。回復したという患者自身が書いた「パニック障害」という本を読んで、彼女の母親は普通の人だと思ったが、彼女はひどく恨んでいた。母親は亡くなっているようだし、母親を悪者にすることで本人が回復すれば万事まるくおさまるとは思ったが、釈然としない気持ちは残った。

親と子供の関係は難しい。仔という字は人に寄り添う子という字がふさわしいと思って作者が選んだようだが、親がいなくても育っていく動物とは違って、人は愛情を注がれなければ、強く育っていけないものであることをつくづく感じる。そして、一生、人は寄り添う人を必要としているのかもしれない。自分もこれから身近な人を支えていけるか、寄り添っていけるか、試練のときを迎えるかもしれない。

この小説は日本推理作家協会賞を受賞している。推理小説?サイコサスペンスのジャンルなのだ。こんな重い問題をエンターティメントとして推理小説として書くことに違和感を感じた。多くの人に読んでもらうために推理小説の形をとったのか?確かにベストセラーとなり、多くの人から反響があった。
しかし、読んでみて、取ってつけたような犯罪には思えなくなっている自分を発見した。どの犯罪も必然性があり、起こるべくして起こったように思えているのだ。
天童荒太にいかれてしまったらしい。彼は主人公たちに気持ちを添わせて悩み苦しみながら書いている。だから、この小説は傷ついた人たちを癒す言葉に溢れている。


永遠の仔

2011-07-09 | 読書


主人公の3名は、子供のころ、児童虐待を受けてきた。久坂優希は父親から性的虐待、長瀬笙一郎(モウル)は母からのネグレクト、有沢梁平(ジラフ)は身体的虐待を受けてきた。その3人が病院で出会い、事件がおきる。17年後、再会してまた事件がおきていく……

この作者が世界的に起こっている悲惨な事件の原因が家庭にある・・・親子関係にあると思っているらしいことは想像がついた。親子の問題もいろいろあるだろうが、永遠の仔では児童虐待に焦点を当てている。

最近、柳美里が自分の子供を虐待することでカウンセリングを受ける番組を見た。恐ろしいことに彼女も父親から虐待を受け、その父親もまたその親から虐待を受けていた。虐待の連鎖が起こることはわかっていても、その連鎖を断ち切る方策がなければ虐待は親から子に受け継がれていく。

いじめも由々しき問題だが、一番守ってくれるはずの親からの虐待は子供に深刻なダメージを与える。子供のとき、まだ、ナイーブで抵抗できない年頃に受けたダメージはおいそれとは癒えない。

昔からいじめや虐待はあったのだろうが、現代ほどに表面化してくることはなかった。いじめが高じた殺人、被害者による仕返しの殺人、親殺し、子殺し、悲惨な事件は後を絶たない。

何故これほどまでに荒廃してしまったのだろうか?

核家族は他人に干渉されない快適さを与えたが、密室で繰り返される虐待の温床にもなってしまった。現象だけ見ていると子供が圧倒的な被害者だが、親も追い詰められている。生活苦や仕事での悩み、夫婦仲の悪化、それらを解消する術がないから、手近な子供、自分の所有物である子供にストレスをぶつけてしまう。いじめと同じく相手が無抵抗なほど虐待はエスカレートする。本来人間は群れて暮らすのが自然だった。育児や介護の負担も家族全員に分散されるし、人目があるから、極度に非人間的になることもない。育児期間が長い哺乳動物の人間には大家族と言うシステムは合っていたように思う。より快適さを求めて、より自由を求めて核家族に移行した人間は、それとともに心を進化させなければならなかった。だが、心の進化は一人の人間の一生で終わってしまう。幼児性の残る人間に生きてゆくストレス、核家族のストレスをコントロールする術はない。子供にそのしわ寄せが行ってしまうのは避けられない。兄弟も少ないから子供の社会性も育たない。親に細かいところまで管理されてしまうから子供の世界も展開しない。

虐待の連鎖を断ち切る方策が欲しい。この本も問題提起だけに終わっている。生活苦は政治がよくなれば、改善される。しかし、心の問題は今のところ解決策がない。寄宿制の学校を増やして親と子供の濃密過ぎる時間を減らすとか、社会が子供を育てるシステムを作るとか・・・・子供をこのまま親に預けておくと、事態はますます深刻になるような気がする。子供にとって誤った親の愛情ほど迷惑なものはない。そして一旦壊れてしまった心は立ち直るのに長い時間がかかる。人間は、無条件に今ある自分を受け入れてくれる限りなき優しさに包まれている時期がなければ、心を開けない、優しくなれない、そんな気がする。虐待に至らなくても、今の子育てが競争になってしまっている現実がある。勝ち残る子は傷は少ないが、脱落する子の傷は深い。


痛めつけられたり、劣等感にさいなまれて育っていくと、人を信用できないし、リラックスもできないから、必要以上にストレスが溜まってしまう。それがまた子供に伝染し、負の連鎖が永遠に続いていく。

最後の「生きていてもいいんだよ。」作者の優しさ、繊細さが伝わってくる。そう、「役に立たない無価値な人間は死んでもよい。」という社会からのメッセージは私たちの心に深く刻み込まれてしまっている。効率重視の社会の中で弱者が生きていけるスペースは悲しいほど狭い。

永遠の仔はベストセラーにもなり、テレビドラマ化もされた。小説としてミステリー仕立てで、面白い。社会に提起した問題は大きいが、センセーショナルにミステリーとして放映され、深刻に受け止められなかったきらいがある。「家なき子」に始まる一連の殺伐としたテレビドラマの流れで捉えられてしまった感もある。あの時代、私はテレビドラマに嫌悪感をもよおし、テレビはニュースしか見なくなった。今もその流れは続いている。


あふれた愛 後2作

2011-07-04 | 読書


やすらぎの香り
奥村香苗(29歳)は、両親の期待に沿って頑張ってきた優秀な子であった。2流の大学しか出られなかったことや、離婚をするなど親の期待に添えないことが原因で、強迫神経症にかかった。秋葉茂樹(28歳)も死んだ姉の分まで頑張って両親の期待に応えようとするが、いくら頑張っても両親の愛情を感じることはなかった。カンニングや就職先での出来事が重なり、神経症にかかる。

 境遇の似た二人は親しくなり、6ヶ月と区切ってアパートを借り生活をする。約束の6ヶ月まで、後3日となった。彼女は、婚姻届けの用紙を武蔵野市役所に取りに行くが、用紙が欲しいと自分から言い出せない。気を利かせた女性職員が婚姻届けを渡してくれた時、緊張と安堵から気を失い病院に運ばれる。そこで自分が妊娠していることを知らされる。子供を育てていく自信がなく、気が滅入って何もする気が起きない。約束の6ヶ月目、病院に院長を始め、茂樹の両親と香苗の母と弟が集まり、結婚の承諾を与えようとしていた。後は香苗が婚姻届にサインするだけであったが、彼女はどうしようもない不安に襲われ、病院を一人抜け出す。後を追ってきた茂樹に妊娠の事実を告げる。二人で支え合って子供を育てて行こうと決意した時、彼女が倒れ出血する。子供を失ったショックで茂樹は再度入院してしまう。彼女は、彼には責任がないとかばい、立ち直らせようとするが、彼の症状は改善しない。「私だってつらい、良いときだけ、やさしくかっこいいことを言わずに、苦しい時こそ支えてほしい。」初めて彼女は、自分のいいたいことを思いっきり言った。彼女の愛が彼を少しづつ積極的にし、3ヶ月後退院した。退院した彼を駅に迎えに行くが、以前と同じように傘を取られても何も言い返せない。これでやっていけるのだろうか?と不安になった時、駅に降り立った茂樹がやさしく抱いてくれた。それは不安を取り除く、『やすらぎの香り』だった。

この作品が一番いい。二人の感情の起伏も手に取るようにわかる。いい子で育った子、我慢して育った子。楽に生きられるようになるにはいくつものハードルを越えなければならない。自立の道は遠く長い。少々の後戻りに落ち込まないで一日一日を生きていけば、きっと自立のときはやってくる。

親になる前に読んでおきたい本だ。母子手帳をもらうだけでは親になれない。
母親のちょっとした冗談で私は自分が継子であると思い、両親の顔色を伺って育った経験がある。親の何気ない一言にも敏感に反応し、気に入られようと努める。強迫神経症的想念が起きやすいのは経験上よくわかる。私の場合はその後本来の自分を取り戻し、人の思惑など気にしなくなったが、あのまま大人になっていたら、つらい人生だったと容易に想像がつく。

喪われゆく君に
保志浩之(19歳)は、コンビニのバイトをしていた。恋人の有本美季(19歳)は、美容師の専門学校にかよっている。クリスマスの夜、浩之がコンビニでバイトをしていると、男性が、店に入ってすぐ倒れた。あわてた浩之が救急車を呼んだが、すでに急性心不全で死んでいた。しばらくして、この男性の妻宮前幸乃がコンビニに浩之を訪ねてくる。救急車のお礼と、その時の様子を聞くためだった。彼女の夫のコンビニでの様子を話し、彼女からは、夫との思い出話を聞く。二人は旅行と写真が趣味だった。アルバムには二人の記念写真が一杯あった。恋人を誘って、彼女と夫の想い出を辿ってみようと決意する。嫌がる美季を無理に誘い、想い出の写真と同じ場所で自分達も写真を撮って、その報告に、幸乃を訪ねる。そんなことを繰り返しているうちに、浩之は、幸乃に惹かれていった。気づいた美季は、彼と二人で旅行をすることを拒否する。仕方なしに浩之は一人で旅をし、幸乃に会いに行く。自分のせいで浩之とその恋人に亀裂を生じさせてしまったことを知り後悔する幸乃は、彼の前から姿を消した。しばらくして、彼女から手紙が来た。そこには、浩之と恋人がたどってくれた想い出のおかげで、夫との確かな年月を確認し、夫を喪ったという、実感を受け入れることができた。これで、再出発できると感謝の言葉が綴られていた。この手紙で、幸乃が夫を深く愛していたことを知り、浩之は美季と生きていくことを決意する。

身近な人の突然の死は人を茫然自失させる。自分たちの生きてきた証を再確認することで人は死を受け入れ、再出発することができるのかもしれない。

読むとつらくなる作品が多いが、素通りできない作者である。彼が生まれる前に自殺した叔父。その叔父や死んでいった親友に今なお話しかけると言う。世界で起こっていること。日本で起きている悲しい事件。その根っこが同じであると言う認識。そして原因だけでなく、和解と再生もどこかで繋がっていると信じている作者。

しばらく、彼に付き合ってみようと思う。何が見えてくるだろう。

 

あふれた愛 天童荒太 前2作

2011-07-04 | 読書


天童荒太はとても繊細な作家だ。
心の機微を的確に描写し、人間を見る目がとても優しい。

この4作の短編集は精神を病んだ人を書いているが、誰もが心に抱えている危うさ、精神のバランスの不安定さを表現しているように思えた。

とりあえず愛
妻の「今日、なつみを殺すところだった。」という告白に慌てふためいて、支えるどころか返って妻を追い詰めてしまう夫の姿を描いている。妻はその後、自殺するまで悪化するが、実家の支えもあって回復する。そして「一番貴方を必要としていたときに私を追い詰めた貴方とはもうやっていけない。」と離婚届を突きつけられる。もともと腎臓の悪かった夫は職場で倒れ入院する。徐々に自分の身勝手さに気づき、介護をしてくれる元妻との仲も改善していく。

熟年離婚の一番の原因は夫の気づきの遅れだと思う。離婚届を突きつけられて茫然自失する鈍感な夫、妻の気持ちに頓着しない独りよがりの夫は世の中にごまんといる。離婚するだけではなく、その後のケアがあるこの短編。作者の目は温かい。

うつろな恋人
想像の中の恋人との絆でかろうじて精神のバランスを保っている桐島智子。その智子に横恋慕して彼女に残酷な現実を突きつけてしまう塩瀬。智子は精神のバランスを失って自殺を図る。回復過程にある智子にまだ未練がましく会いに来る塩瀬。塩瀬自身も離婚を突きつけられて不安神経症を病んでいた。

これも超鈍感な男の物語。性的不能だった塩瀬が智子の架空の恋人の創作するベルレーヌの超みだらな詩に性欲を回復していく過程は笑いを誘う。
しかし、考えてみると、私たちも自分で勝手に思い込んだ幻想の中で精神のバランスを保っていると考えることもできる。何事もなく平穏に過ごしている幻想の中に予期せぬ真実が露呈してきたら・・・・平和な家庭は修羅場に変わり、脆弱な幸せは一瞬のうちに悪夢に変わる。昔見た「幸福」と言う映画を思い出した。「幸福」は女性監督ヴァルダの代表作で、女性監督作品の原点といわれている。
愛し合っている若い夫婦がいる。可愛い二人の子どももいる。日曜日毎に公園にピクニックに出かけ午後のひとときを楽しむ。ある日、夫は愛人がいることを妻に告げる。妻はだまってほほ笑んでいるだけだった。次の日曜日、いつものように公園の木陰で情熱的な時間を過ごした後、昼寝からさめた夫は妻の姿がみえないのに気づく。人が集まっている方へ行ってみると、池に落ちて妻が死んでいた。事故だったのか、自殺したのか? それから数ヶ月がたち、公園でピクニックを楽しむ幸福な一家があった。違っているのは死んだ妻に代って、愛人が子どもたちの母親になっていることだけだった。
若いときこの映画を見て相当な衝撃を受けた。そう、幸せなんて脆弱なものなのです。若いときは夫に怒りを感じたが、今は一見無責任な夫の態度も受容できる。そう、悩み苦しむより再度の幸せを享受する方が弱き人間にはふさわしい・・・・・

珍妃の井戸

2011-07-03 | 読書


「蒼穹の昴」の続編なので期待して読んだが、つまらなかった。期待が大きすぎたからかもしれないが・・・・・
小説の技法としては芥川龍之介の「藪の中」と同じミステリー仕立て。
歴史ものにミステリー仕立てなの???しかもどの証言者も嘘ばかり言っている感じで、まともな証言は一つとしてない。やはり歴史の通説、西太后が命じて殺したと言う説がしっくり来る。
歴史的に見て珍妃が殺害されたのがそれほど重大事件とも思えないし、個人的にも誰に殺されようが、興味はない。

これってコメディなのかもしれない。
イギリス・ドイツ・ロシア・日本の列強のお偉方4人が喧嘩しながら仲良く聞き取りに行く様子が馬鹿馬鹿しく描かれ、中国人が人を食った証言をして、お偉方たちを煙に巻くしたたかさを描こうとしているのかもしれない。最後の証言は当のお偉方が殺したなんて言われるんだから、笑ってしまう。

皇帝と側室の夜の風習も笑ってしまう。その夜お呼びがかかったら、素っ裸で袋に入れられて、皇帝の部屋に運び込まれる。側室達がお互い嫉妬しないようにという配慮らしい。皇帝を暗殺しないようにという配慮なら理解できるが・・・・嫉妬防止とはね?ありえない話だ。

この続編もあるらしいが、蒼穹の昴で打ち止めにしたい。

永遠のゼロ

2011-07-01 | 読書



日本軍敗色濃厚ななか、生への執着を臆面もなく口にし、仲間から「卑怯者」とさげすまれたゼロ戦パイロットがいた…。人生の目標を失いかけていた青年・佐伯健太郎とフリーライターの姉・慶子は、太平洋戦争で戦死した祖父・宮部久蔵のことを調べ始める。祖父の話は特攻で死んだこと以外何も残されていなかった。元戦友たちの証言から浮かび上がってきた宮部久蔵の姿は健太郎たちの予想もしないものだった。凄腕を持ちながら、同時に異常なまでに死を恐れ、生に執着する戦闘機乗り―それが祖父だった。「生きて帰る」という妻との約束にこだわり続けた男は、なぜ特攻を志願したのか?健太郎と慶子はついに六十年の長きにわたって封印されていた驚愕の事実にたどりつく。はるかなる時を超えて結実した過酷にして清冽なる愛の物語。

特攻隊の話は悲しい美談として語られることが多く、積極的に読みたいとは思わない。今回、友達や児玉清さんの推薦もあり、読んで見ようという気になった。読み始めると一気に読んでしまった。
若い世代が特攻で戦死した祖父のルーツを探る話だが、若い世代との考え方の対比が笑いを誘う場面もある。
「あいつは臆病者で戦場から逃げ回っていた。」「それって素晴らしい考えだと思います。みんなが逃げ回っていれば戦争なんか起きないと思います。」逃げ回っていることが可能なら、素晴らしい考え方だわね。そんなことしていたら味方から殺されたでしょう。大体、特攻のシステムを考え出した男が憎い。自国の若い未熟な青年を煽って無駄死にさせたのだから八つ裂きにしても足りない。
9.11のテロリストと同一視されるのも迷惑な話だ。行為は似ているが、モチベーションは全く違う。少なくても特攻は宗教は絡んでいない。
「特攻隊員は英雄でも狂人でもない。逃れられない死を受け入れ、その短い生を意味深いものにしようと悩み苦しんだ人間だ。散華のヒロイズムに酔った人間はいなかった。仮に死を受け入れるために死のヒロイズムに身をさらしたからと言って誰が非難できるのだ。」

宮部は臆病でありながら、飛行技術は素晴らしいものだった。敵機を深追いして自分がやられることを避けたが、それは命をつないで次の機会に勝つためだった。勇敢に命を落とすのでは熟練した搭乗員と貴重な戦闘機をともに失うことになる。パラシュートで降下中の敵のパイロットも機銃掃射で殺した。非難を浴びたが、「彼は優秀なパイロットだった。生かしておけば、何人の日本人が殺されるかわからない。これは戦争なんだ。」
日本兵は熟練パイロットから死んでいった。戦闘機を無駄にしないために、まず熟練パイロットから過酷な任務に就いたからだ。ガダルカナルの戦いは素人が見ても最初から負ける戦だった。奢った精神主義だけで勝てると思っていた大本営の無能が露呈した戦いであった。兵站の計画もなしに戦闘員を送り込み、殆どは餓死で死んでいった。狂気の沙汰だ。
犠牲は大きかったが、この戦争は負けてよかったと本当に思う。軍部がこのままのしていたら、日本はとんでもない国になっていただろう。

「俺はゼロ戦を作った奴を恨む。8時間も滑空できるのは凄い戦闘機だ。しかし、乗っている人間のことは考えられていない。ゼロ戦故にパイロットには過酷な作戦が計画実行された。」
戦闘能力は抜群だったが、防御や無線機能は使い物にならなかったと言う。他方、アメリカのグラマンは数発の被弾ではびくともしなかったらしい。

そして15000人の餓死者を出し、熟達した搭乗員2362人と戦闘機839機、艦艇24隻を失って撤収したガダルカナル後、戦争は二年も続く。このとき降伏していれば、原爆も落とされずに済んだのに・・・・悔やまれてならない。

軍人の幹部を「高級官僚で自分の点数を上げることに汲々として詰めが甘く、決して責任を取らされることがない。」と評しているのも現代的な見方で小気味よい。真珠湾奇襲も前の晩、パーティで飲みすぎて日曜出勤が遅くなり、宣戦布告が遅れ、「日本人は卑怯者」のレッテルを貼られることになった。こんなチョンボにも誰も責任を取っていないのだから驚く。責任取らされるのはいつも下っ端だから、かえってかわいそうかもしれないが・・・

特攻は志願兵と思っていたが、当時志願拒否はできない雰囲気にあったのも頷ける。「宮部さんは特攻拒否の態度を貫いた。本当に勇気のある人だ。」こんな認識がこの本を読んだ人に伝わるのは嬉しい。
「大西中将は終戦の翌日に切腹して責任を取ったと受け取るものも少なくない。多くの前途ある若者の命を奪っておいて老人一人の自殺で責任が取れるのか?死ぬ勇気があるなら何故特攻に反対するといって腹を切らなかったのだ。」
「宇垣司令官は終戦を知った後、17名の部下を連れて特攻した。死ぬなら一人で死ねばいい。」
「美濃部少佐は特攻に真っ向から反対した。自分の隊から特攻を出さなかった。ジャーナリズムの怠慢でこのことはあまり知られていない。美濃部のように断固拒否した士官もいたが、その数はあまりにも少なかった。」


「桜花」というグライダーよりお粗末な特攻機を製作したと言う話も驚きだ。懸吊で現場にもっていき、急降下して打撃を与えるだけ!!!実戦では目標のはるか手前で捕捉され、母機もろとも撃墜され戦死者は150人。着陸のための車輪も付いていないという。よくもそんな非人間的なものを設計したものだ。現場では使い物にならないことはわかっており、実際にはポンコツ戦闘機や練習機が使われるのが主流だった。終戦前日まで桜花に続く特攻専用機を開発中だったという。これに関わった人間は戦犯として裁かれたのだろうか?多分答えはノーだ。自国の若者に死を強いるのも戦争犯罪だと思うのだが・・・・しかし、人間の命が安い時代だったのですねえ・・・・・・ガンジーの7つの社会的罪----人間性なき科学者の罪だ。
設計者は当初「技術者としてこんなものは承服できない、恥です」と強硬に反対していたそうだが、軍部の圧力に負けてしまったのだろう。桜花の設計主務者の一人、三木忠直は最初の新幹線0系の設計者で、桜花設計に関ったことが鉄道技術者に転身するきっかけになったこと等がプロジェクトXで放映されたと言う。
「とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ。」


茨城に桜花公園があって桜花のレプリカが展示してあるらしい。「わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故郷である。」こんな風に美談にするから腹が立つ。スミソニアンにも桜花は展示されている。付けられていた名前は「バカボム」。馬鹿爆弾。強烈な揶揄だ。こんな恥ずべきものを日本で展示しているなんて・・・・どういうつもりなんだろう。
調べてみると、・・・埼玉県入間市にある航空自衛隊入間基地内の修武台記念館にも一機保存されている。この記念館は2005年12月に閉館したが、2010年度にリニューアルを行って再開館する予定であり、リニューアル時も桜花は展示されるという。また、靖国神社で実物大模型を見る事が可能であるらしい。本当ですか?
修武台記念館の桜花 
靖国神社の桜花

この本は知らなかった多くのことを教えてくれた。できるだけ多くの人がこれを読んで、たった一人でもノーといえる人間が増えることを切実に願う。

そして、最後のどんでん返し。涙が溢れるのを禁じえなかった。




霧笛荘夜話 浅田次郎

2011-06-07 | 読書


港町の古アパート「霧笛荘」。「霧笛荘」には、アパートを管理する纏足の老婆が住んでおり、六つの部屋が用意されている。老婆に案内されて一つ一つの部屋をめぐり、かつてそこに住んでいた人々の人生の物語を聞かされる。

「港の見える部屋」は無気力なホステス千秋がいた部屋。自殺願望がありながら、うまく死ぬ事ができない。
「鏡のある部屋」は美貌の眉子がいた部屋。
家族にも恵まれた裕福な社長婦人だったが、同窓会に出席した事をきっかけに自分の願望に気づき、恵まれた生活から身一つで家を出る。千秋が失敗した睡眠薬自殺で自らの命を絶つ。
「朝日の当たる部屋」は頭の弱い、人情家の日雇いカンカン虫(船腹についたふじつぼをのみとハンマーで削り落とす仕事)鉄夫の部屋。人の罪をかぶって服役したこともある。四郎が罪を犯すのを避けるため、身代わりになって再度、警察に捕まる。
「瑠璃色の部屋」はミュージシャン志望の青年、四郎の部屋。足の不自由な美貌の姉の助けもあって上京。アパートの仲間からかわいがられながら、唯一、日のあたる方向をめざしていく。
「花の咲く部屋」はオナベのカオルの部屋。男になって武装しなければ、生きていけなかったカオルは何者かに殺される。
「マドロスの部屋」は終戦で死にそびれた特攻隊員園部の部屋。自分が遺書代わりに書いた手紙のせいで、許婚が自殺した。
「ぬくもりの部屋」は管理人の老女の物語。五億円積まれても霧笛荘を手放さない。それはここを死に場所と決めているからだ。


尋常じゃない人ばかりの話であった。人間には多様な部分がある。その一部を極端に強調してバランスを欠いた人間の生き様を描いているように思った。
共通しているのは優しさ・誠実さ。自分の身を捨てても他人を助ける。自分は絶対幸福にならないと決心しているような生き方。人間は不幸であれば、人の不幸にも敏感になれるのかもしれない。この世に執着もない。死は永遠の安息だから、その日が来るまで、この世で時間つぶしをしているのかもしれない。何も持たないから、一切妥協がない。自分に真正直に生きているとも言える。

「みんないいやつらだった。無一文で偏屈で頭がおかしかったけれどね。世の中を上下ひっくり返したらどいつもこいつもひとかどの人物には違いない。人間を馬鹿にしてはいけないよ。馬鹿なやつほど馬鹿力を持っているもんだ。利口なやつにはそれがない。」・・・・なるほどね。

深刻な話が多いが、当の住人たちは天涯孤独、世のしがらみから解放されてサバサバしている。世間体や虚栄心、虚飾から解放されれば、人間の真の姿は限りなく優しく、慈愛に満ち、俗世間の尺度から離れて強く生きていけるのかもしれない。