
ちょっと前ですが、写真のDVDを買ってきて何回か見返す機会があり、思うところがあったので、記事にしようかと思った次第。
まず、この映画、アニメの良さは絵コンテ、つまり実写でいうところのカメラワーク、これが素晴らしい。これは見ればわかる。
三枝成彰の音楽の作り方も面白い。サントラを聞くとわかるんですが、まずメインテーマ曲を作り(これは映画の冒頭にその一部が使われている)、これをアレンジする形で複数の曲を生み出している。
これは主題歌の曲をアレンジして複数の曲を作るという、テレビアニメ音楽の手法を踏襲している。
さて、ファンの間では有名な話だが、もともとこの「逆襲のシャア」は1985年の劇場公開を目指して制作されるはずだったが、その年にテレビで「機動戦士Zガンダム」の製作が決まったため、実際には3年遅れの1988年の劇場公開となった経緯がある。そのためか、両作品には類似点が多い。
「逆襲のシャア」でロンドベル(主人公アムロがいる組織)が孤立しているように「Zガンダム」でエゥーゴ(主人公カミーユがいる組織)も孤立している点、両作品とも最強のモビルスーツがビット(ファンネル)を装備している点、そして両作品とも主人公が悲惨な結末を迎える点がそうである。
つまりこの「逆襲のシャア」という作品は「Zガンダム」とよく似ており、実はその内容、つまり扱っているテーマは同じなのではないか。
もし最初の「機動戦士ガンダム」の続編として、当初の予定通り1985年に「逆襲のシャア」が劇場公開されていたならば、つまり両者の間に「Zガンダム」と「ZZ(ダブルゼータ)」という作品がなければ、クエス・パラヤやハサウェイ・ノア、あるいはギュネイ・ガスといった性格の人物は登場しなかっただろうから、やはり私のような旧来からのファンとしては余計な夾雑物を見せられた感は拭えない。
しかしこうした夾雑物、つまり作品を見る者にとってあまり共感を呼ばない人物の登場と、作品の評価は別である。所詮彼らは脇役に過ぎないのだし、「Zガンダム」や「ZZ」の残滓だと思えば、この「逆襲のシャア」が当時の一連のガンダム作品の集大成であることを鑑みれば、受け入れざるを得ない面も当然出てくるし、溜飲も下がるのではなかろうか。
さて、私はこの「逆襲のシャア」を劇場へ2回見に行った。1回目は初日の舞台挨拶のときで大変な熱気だった。なぜ2回も行ったかというと、これでアムロと宿敵シャアの物語もいったん終わりだな、幕引きだなと思ったら、もう1回見に行っておくかという気持ちになりました。
1988年の劇場公開ですので、私は当時17歳でした。で、見たときの感想というのは「富野監督はガンダムで純文学したかったのかな」というものでした。当時高校生だった私は漠然とそう思ったんですが、どうもそれは当たりだったようです。
今はインターネット時代ですから、いろいろと調べられます。そうしたら、やっぱり生きた人間を描きたいというような趣旨の発言がどうやら監督からあったようで、やっぱりそういうことなのかと。
監督がこの作品でニュータイプ論に蹴りがついたと発言したことからもそのことがはっきりします。
つまりはニュータイプといえども人間であると。人間である以上、喜怒哀楽があり、愛憎から逃れることはできない、逃れるのは至難の業であると。ニュータイプだからといって浮世離れした人間であるなんてことは絶対にないと。
この「逆襲のシャア」という映画は、人間シャア・アズナブルを描く、描き切った作品と解釈するのが正しいんじゃないかと思います。
もちろん、そんな話なんか別に見たくない、そんなのは文学だけで十分だ、そう言いたい気持ちはよくわかります。しかし、もともと「Zガンダム」自体が「全人類がニュータイプになる、その道のりは厳しく、その苦しみを描く」という趣旨の作品ですから、「逆襲のシャア」もそれを踏襲する形を取る、取らざるを得ない。だから筋は通っているのです。
それと、こうした生きた人間を描くというのは古今東西、フィクションにおける不変の真理ですから、こればっかりはどうしようもない。戯作者は皆それを目指すということです。
とはいえ、それを「逆襲のシャア」という作品で正面切ってやるにせよ、そのやり方に問題がなかったとは言いません。むしろ問題だらけと言っていいかもしれません。
シャア・アズナブルの情けないところ、見っともないところ、純文学で言うところの「心のひだ」を前面に出すという手法が、果たして「機動戦士ガンダム」という作品に合っているのかどうか、大いに疑問ですし、そうした手法だけで人間を描けるのか、描いたことになるのかというと、そういうわけでもないでしょう。
個人的に問題だと感じるのは、アムロやシャアを大人に見せるために、わざと子供っぽい、奇矯なキャラクター、つまりはクエス・パラヤですね、を登場させるというのはどうなのか。
これは推理小説で言うところの、名探偵にミスをさせるに等しく、方法論としては下の下ではないでしょうか。もっと他のやり方があるはずです。
またこれはガンダムファンならではの話になってしまいますが、シャアの「全人類は地球に住まず、宇宙に、つまりスペースコロニーに住み、地球そのものを聖域化する」という思想は、シャアの父、ジオン・ズム・ダイクンの提唱したものですが、これは裏設定で(私は「機動戦士ガンダム記録全集」で知ったんですが)、これを前面に出すなら、劇中で何らかの説明があってしかるべきじゃないかなあと。ちょっと違和感がありました。監督にそんなつもりはなかったでしょうが、ファンなら皆、そんなこと知っているよね、という内輪のノリが感じられて正直嫌でした。
この「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」が名作かどうかはわかりません(ガンダムファンの間ではそういう扱いになっているみたいですが)。ですがこの映画、2時間だったんですね。私、ずっと1時間半だと思ってました。ということは見ていて時間の経つのが早いわけで、そういう意味でもなかなか良い作品だったんじゃないかと思っています。
富野監督自身はわかりにくい作品で申し訳ないと言ったそうですが、確かに、私のように事前に小説版を読んだ人でも、結構物語の展開が早く、ちょっとついていくのに大変だった記憶があります。とはいえ、懇切丁寧に、つまり順を追って説明し出すと、2時間半になってしまうので、これはこれでいいんじゃないかと。物語の大筋は見ていてわかるわけで、細かい点が気になるようなら、繰り返し見るしかなく、そんなに気に入ってくれれば、監督として本望でしょう。
この映画の終わりにTMネットワークの「BEYOND THE TIME メビウスの宇宙(そら)を越えて」という歌が流れるんですが、よく聞いてみると、この作品の主題をよく表していると気づきました。ちょっと驚きです。よく作品意図を汲み取ったものです。
未だにこの「逆襲のシャア」は人気があるそうです。それは起承転結のある物語と、ちょっと悲しい結末にその秘密があります。またそれとは別に、この作品、どこか元気がないんですね、口ではうまく言えないんですが、そんな雰囲気が、物語の悲劇性と相まって、見る者を感傷的にさせる、それが思い入れを深くさせるのだと思います。
以上、ちょっとの記事のはずが長文になってしまいました。お読みいただきありがとうございました。
付)考えてみると、劇場用ポスター(この記事の見出し画像に同じ)の中央には「ν ガンダム」ではなく「ララア」がいないといけないんですよね、本当は。でもってその下に「アムロ」と「シャア」が向かい合い、手前に「ν ガンダム」と「サザビー」が戦っている姿を大きく描けば、この作品の主題をよく表したことになったと思うんですが。
まず、この映画、アニメの良さは絵コンテ、つまり実写でいうところのカメラワーク、これが素晴らしい。これは見ればわかる。
三枝成彰の音楽の作り方も面白い。サントラを聞くとわかるんですが、まずメインテーマ曲を作り(これは映画の冒頭にその一部が使われている)、これをアレンジする形で複数の曲を生み出している。
これは主題歌の曲をアレンジして複数の曲を作るという、テレビアニメ音楽の手法を踏襲している。
さて、ファンの間では有名な話だが、もともとこの「逆襲のシャア」は1985年の劇場公開を目指して制作されるはずだったが、その年にテレビで「機動戦士Zガンダム」の製作が決まったため、実際には3年遅れの1988年の劇場公開となった経緯がある。そのためか、両作品には類似点が多い。
「逆襲のシャア」でロンドベル(主人公アムロがいる組織)が孤立しているように「Zガンダム」でエゥーゴ(主人公カミーユがいる組織)も孤立している点、両作品とも最強のモビルスーツがビット(ファンネル)を装備している点、そして両作品とも主人公が悲惨な結末を迎える点がそうである。
つまりこの「逆襲のシャア」という作品は「Zガンダム」とよく似ており、実はその内容、つまり扱っているテーマは同じなのではないか。
もし最初の「機動戦士ガンダム」の続編として、当初の予定通り1985年に「逆襲のシャア」が劇場公開されていたならば、つまり両者の間に「Zガンダム」と「ZZ(ダブルゼータ)」という作品がなければ、クエス・パラヤやハサウェイ・ノア、あるいはギュネイ・ガスといった性格の人物は登場しなかっただろうから、やはり私のような旧来からのファンとしては余計な夾雑物を見せられた感は拭えない。
しかしこうした夾雑物、つまり作品を見る者にとってあまり共感を呼ばない人物の登場と、作品の評価は別である。所詮彼らは脇役に過ぎないのだし、「Zガンダム」や「ZZ」の残滓だと思えば、この「逆襲のシャア」が当時の一連のガンダム作品の集大成であることを鑑みれば、受け入れざるを得ない面も当然出てくるし、溜飲も下がるのではなかろうか。
さて、私はこの「逆襲のシャア」を劇場へ2回見に行った。1回目は初日の舞台挨拶のときで大変な熱気だった。なぜ2回も行ったかというと、これでアムロと宿敵シャアの物語もいったん終わりだな、幕引きだなと思ったら、もう1回見に行っておくかという気持ちになりました。
1988年の劇場公開ですので、私は当時17歳でした。で、見たときの感想というのは「富野監督はガンダムで純文学したかったのかな」というものでした。当時高校生だった私は漠然とそう思ったんですが、どうもそれは当たりだったようです。
今はインターネット時代ですから、いろいろと調べられます。そうしたら、やっぱり生きた人間を描きたいというような趣旨の発言がどうやら監督からあったようで、やっぱりそういうことなのかと。
監督がこの作品でニュータイプ論に蹴りがついたと発言したことからもそのことがはっきりします。
つまりはニュータイプといえども人間であると。人間である以上、喜怒哀楽があり、愛憎から逃れることはできない、逃れるのは至難の業であると。ニュータイプだからといって浮世離れした人間であるなんてことは絶対にないと。
この「逆襲のシャア」という映画は、人間シャア・アズナブルを描く、描き切った作品と解釈するのが正しいんじゃないかと思います。
もちろん、そんな話なんか別に見たくない、そんなのは文学だけで十分だ、そう言いたい気持ちはよくわかります。しかし、もともと「Zガンダム」自体が「全人類がニュータイプになる、その道のりは厳しく、その苦しみを描く」という趣旨の作品ですから、「逆襲のシャア」もそれを踏襲する形を取る、取らざるを得ない。だから筋は通っているのです。
それと、こうした生きた人間を描くというのは古今東西、フィクションにおける不変の真理ですから、こればっかりはどうしようもない。戯作者は皆それを目指すということです。
とはいえ、それを「逆襲のシャア」という作品で正面切ってやるにせよ、そのやり方に問題がなかったとは言いません。むしろ問題だらけと言っていいかもしれません。
シャア・アズナブルの情けないところ、見っともないところ、純文学で言うところの「心のひだ」を前面に出すという手法が、果たして「機動戦士ガンダム」という作品に合っているのかどうか、大いに疑問ですし、そうした手法だけで人間を描けるのか、描いたことになるのかというと、そういうわけでもないでしょう。
個人的に問題だと感じるのは、アムロやシャアを大人に見せるために、わざと子供っぽい、奇矯なキャラクター、つまりはクエス・パラヤですね、を登場させるというのはどうなのか。
これは推理小説で言うところの、名探偵にミスをさせるに等しく、方法論としては下の下ではないでしょうか。もっと他のやり方があるはずです。
またこれはガンダムファンならではの話になってしまいますが、シャアの「全人類は地球に住まず、宇宙に、つまりスペースコロニーに住み、地球そのものを聖域化する」という思想は、シャアの父、ジオン・ズム・ダイクンの提唱したものですが、これは裏設定で(私は「機動戦士ガンダム記録全集」で知ったんですが)、これを前面に出すなら、劇中で何らかの説明があってしかるべきじゃないかなあと。ちょっと違和感がありました。監督にそんなつもりはなかったでしょうが、ファンなら皆、そんなこと知っているよね、という内輪のノリが感じられて正直嫌でした。
この「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」が名作かどうかはわかりません(ガンダムファンの間ではそういう扱いになっているみたいですが)。ですがこの映画、2時間だったんですね。私、ずっと1時間半だと思ってました。ということは見ていて時間の経つのが早いわけで、そういう意味でもなかなか良い作品だったんじゃないかと思っています。
富野監督自身はわかりにくい作品で申し訳ないと言ったそうですが、確かに、私のように事前に小説版を読んだ人でも、結構物語の展開が早く、ちょっとついていくのに大変だった記憶があります。とはいえ、懇切丁寧に、つまり順を追って説明し出すと、2時間半になってしまうので、これはこれでいいんじゃないかと。物語の大筋は見ていてわかるわけで、細かい点が気になるようなら、繰り返し見るしかなく、そんなに気に入ってくれれば、監督として本望でしょう。
この映画の終わりにTMネットワークの「BEYOND THE TIME メビウスの宇宙(そら)を越えて」という歌が流れるんですが、よく聞いてみると、この作品の主題をよく表していると気づきました。ちょっと驚きです。よく作品意図を汲み取ったものです。
未だにこの「逆襲のシャア」は人気があるそうです。それは起承転結のある物語と、ちょっと悲しい結末にその秘密があります。またそれとは別に、この作品、どこか元気がないんですね、口ではうまく言えないんですが、そんな雰囲気が、物語の悲劇性と相まって、見る者を感傷的にさせる、それが思い入れを深くさせるのだと思います。
以上、ちょっとの記事のはずが長文になってしまいました。お読みいただきありがとうございました。
付)考えてみると、劇場用ポスター(この記事の見出し画像に同じ)の中央には「ν ガンダム」ではなく「ララア」がいないといけないんですよね、本当は。でもってその下に「アムロ」と「シャア」が向かい合い、手前に「ν ガンダム」と「サザビー」が戦っている姿を大きく描けば、この作品の主題をよく表したことになったと思うんですが。
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