美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

行水

2024-08-26 12:09:19 | 日々の呟き
 隣家の行水を屋根から覗いてしまった漫画サザエさんの波平は、久米の仙人よろしく屋根から転落。
 波平は台風接近で屋根に登ってそれに備えようとしていたのだ。

 「波平の胸中には、恥ずかしさ、情けなさ、怪我のつらさなど、さまざまな思いが渦巻いていたことだろう。」

 「サザエさんをさがして」、朝日新聞2024-8-24より

 小林伸行氏による同記事によると、昭和38年には、2037万7千戸のうち、浴槽のある家は約59%、昭和43年でも約66%に過ぎなかったらしい。

 日本人は、まだ、けっこう行水や銭湯を利用していたのだ。

 下宿の大学生なども銭湯に行っていたのだ。そういえば、神田川などの歌があったが、これは冬の銭湯の情景が歌詞に織り込まれていたな。

 先の漫画は、昭和29年8月24日のものというから、もちろん、ふつうの家庭での夏の行水は日常のものだった。

 茨城県の日立の画家、広原長七郎さんの優れたデッサンにも父親の行水を背中から描いた作品があった。

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中村彝「泉のほとり」と『古事記』をめぐる関連書簡

2024-07-12 15:43:16 | 中村彝

 中村彝の「泉のほとり 」は、単に「泉」とも画家自身によって(省略的に)呼ばれていた作品で、かつて今村繁三の所蔵であったものだ。今日ではポーラ美術館で見ることができる。

 この作品は、ある期間、根拠なくルノワールの模写作品とされていたこともあったが、大正13年1月8日の今村宛書簡に見られるように「素戔嗚命に題をとって勝手に想像で描いたもの」である。

 しかし素戔嗚命がどこに描かれているか、不明確であり、どのような場面かも今のところよく解らない。神話から題材を採ったのは明らかにルノワール晩年風の裸体群像画を描くための口実であろうが、まったく主題上の典拠がないわけでもないかもしれない。

 この作品は大正9年11月11日の洲崎宛書簡に言及されている15号の「カンバス」に「三人の群像をやり始めました」と記されている作品に当たる。当時病の床から這い出しても彝が描いてみたくて堪らなかった「例の裸体の『コンポジション』」であった。

 同年11月14日の『藝術の無限感』には含まれていない書簡では、雨谷美文が持っている『古事記』について触れている。「多分本居宣長の註解にかかるもので大部のもの三冊一組になっているもの」とある。そして洲崎にこの本を雨谷から買うように勧めている。そしてそのあと、「僕の想像画は餘りうまくいかないので悲観した」と書いている。

 彝がこの『古事記』を読んだとは書いていないが、「僕の想像画」とは、「例の裸体の『コンポジション』」に相違なく、この「コンポジション」とは「構想画」=「想像画」の意味で述べていることは明らかだろう。

 実は11月14日の書簡に関連した雨谷美文が彝に出した葉書(11月9日)が残されており、そこでは彝に洲崎が購入してくれるようにと頼んでいる。(※この葉書は松矢国憲氏が新潟県立近代美術館の紀要論文で紹介しているが、文脈から明らかなように「北府」は「水府」、「帰北」は「帰水」〈何れも水は水戸の意〉、「薬名」は「薬石」と読むべきだろう。)

 さらに11月27日とされる洲崎宛葉書で彝は、彼から返事がなかったためか、再度雨谷の『古事記』について購入を促している。雨谷はこの本を抵当に入れて借金していたので当時現金が必要だったのだろう。(※なお、27日の葉書の末尾の方は、「百日で結果を見られるだらうと思ひました」と書いてあるように読める。)

 しかし、これらの書簡類から彝が「泉のほとり」を描くに当たって、この本を以前に(彼から借りて、もしくは同種のものを)読んでそれを参考にしていたかというようなことは分からない。

 むしろ彝はこの本自体の概要はまだよくは分かっていないというような書き方をしている。

 ただし『古事記』の須佐之男(彝は素戔嗚の表記)に関する内容は一般にも広く知られているところであるから、今のところは、それほど直接的な典拠を示さなくてもよいのかもしれない。しかし、彝が描いた「泉のほとり」が素戔嗚のどのような場面か、それを特定しうるか否かは興味深い問題でもある。

 かつて私は素戔嗚をめぐる三女神について、このブログで書いたことがあるが、それ以上は分からないでいる。

 ここでは「泉のほとり」をまさに彝が描いていたその頃に『古事記』の売買の問題が彼の親しい友人間に出ていたことが確認できたので、ここにそれらに関する書簡を整理したのである。

 

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中村彝の書簡に「ピュールテ」の語の使用例

2024-07-05 00:10:49 | 中村彝
 かつて私は、『藝術の無限感』の中の「中原悌二郎君を憶ふ」に「レピュテ」なる語が出てくるが(新装版、84頁)、これでは意味が通らないので、「ピュルテ」の誤植か、何らかの間違いではないかと書いた

 これに関連してその後、保田龍門宛の彝の書簡(大正7年4月10日)に「ピュールテ」なる語があるのを確かめた(同書、新装版、266頁)ので報告しておく。
 「線条と色彩のピュールテと光輝とキャラクターとはその部分的の力にあるのでなく…」

 この書簡によって、彝はやはり少なくとも「ピュールテ」というフランス語を遣っていたことが分かる。
 つまり、同書の初版及び新装版に「レピュテ」とあるのは、思い当たるフランス語も想定できず、「ピュルテ」の誤植か何らかの間違いである可能性がきわめて高いということがはっきりした。
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中村彝の書簡、「けれど私のソーニアは何処へ…」

2024-07-04 15:41:33 | 中村彝

 中村彝の友人洲崎義郎の著書『洲崎義郎回想録 進歩と平和への希求』(1984)の中に大正11年ころに撮られた家族写真がある。そこには義郎夫妻の他に二人の女の子と三人の男の子たちが写っている。

 そのうち女の子は章子(明治42年生まれ)と淑子(大正2年生まれ)の名が記されている。そして長年彝の書簡を保管してきて淑子は「次女」とある。

 しかしこの本の「年譜」を見ていくと、17歳で亡くなった章子は長女だが、淑子氏は「三女」とあり、以下年譜では若菜は四女、双子の万里英と百合英は、それぞれ五女と六女と記されている。が、なぜか次女の名前はどこにも記されていない。

 このようにこの本の写真のキャプションと年譜に違いが見られるが、次女を除く六女の名前まで記されている「年譜」と写真のキャプションと、果たしてどちらが正確な記述なのだろうか。

 そこで思い出されるのが、大正5年の彝の洲崎宛書簡である。

 この書簡は『藝術の無限感』では9月31日となっているが、新潟県立近代美術館では8月31日としているもので、少なくとも「裸体」の制作についての記述から、後者の日付が正しいと考えられるものである。

 この書簡は、何かの創作物についてでなければ、現実に彝が洲崎に哀悼の意を表しているものと読める。

「然し父としての経験のない私に何であなたの深い悲しみや思いが分かりましょう。あなたの手紙を読みながら、只胸苦しく涙ぐまれる許りで、慰めの言葉一つを申し上げる事の出来ない自分を今は情けなく思います。耳を澄まし心を緊(ひ)きしめて誠の声をききましょう。あなたの孩児(がいじ)は今も猶叫んでいる。否、永久にあなたの名を呼んで居ると心に思う事は出来ても、あなたの悲しい顔を思うと口に出す勇気がありません。『けれど私のソーニアは何処へ行ったの』と呼ぶあなたの声を聞きながら私は静かにあなたと母親の手を握って居たい。」

 もし先の本の年譜が正しいとするなら、彝がこの書簡で「ソーニア」と呼んでいる洲崎の幼女(次女)が大正5年の夏ごろに亡くなっていたと推測されることになる。

 しかしなぜ彝がその幼女を「ソーニア」と記しているのかは、分からない。ただ次のようなことを考えてみた。

 当時の彝の文化的環境の中で、ソーニアと言えば、先ず思い出されるのは、よく知られているところでは、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる罪人の主人公ラスコーリニコフに救いを与えるきわめて重要な女性だろう。が、ここでは彝が中村屋の相馬夫妻の四女を哲子と名付け、彼女をソフィアと呼んでいたことも思い出される。ソーニアはソフィアの愛称でもあるからだ。

 そして、その哲子(ソフィア)は大正4年の12月に幼くして亡くなったばかりだった。

 彝には、洲崎の孩児を、相馬夫妻の孩児、哲子(ソフィア)に重なるように思え、「ソーニア」と呼んだのかもしれない。あるいは、洲崎の孩児も「哲子」のように「ソーニア(ソフィア)」に通じる名前を持っていたのかもしれないが、洲崎の本に何も記されていないので、そこまでは分からない。

 ただ、いずれにせよ悲しみにある洲崎を救ってくれる存在として、当時、洲崎自身も(ラスコーリニコフのように)「ソーニア」を必要としていたことが書簡内容から想像されるかもしれない。

 「『けれど私のソーニアは何処へ行ったの』と呼ぶあなたの声を聞きながら私は静かにあなたと母親の手を握って居たい。」このように彝が洲崎への(おそらく返信として)これを書いているからだ。

 

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中村彝の洲崎義郎宛書簡(大正9年1月18日)《きい》か《トウ》か、それとも…(続き3)

2024-06-18 11:53:10 | 中村彝

 中村彝の洲崎義郎宛、大正8年6月18日の書簡で、彝はそこに出てくる婆やを、「奴」とか「彼奴」などとも呼んでいると述べたが、実は、大正9年1月18日の書簡でもそこに出てくる婆やを《ばァや》のほかに、《奴》と《彼》と呼んでいる。

 「奴が倒れてから…『自分のと彼の分』とを三度三度始末するのは僕にとって可なりの重荷の様な気がする。」

 この婆やは、「可愛い、偏屈な」婆やであり、腎臓病で倒れ、実家に帰れない事情があるので、彝に入院の心配をさせることになった。(因みにこの婆やが《きい》なら家に帰れない事情などない。)そして彼女が病院で「癒るか死ぬか、出来る様に」と彝に祈らせることになった。

 先の書簡(大正8年6月18日)の婆やも自ら「不行届で病身」であると言い、ヒステリー持ちで、「暇を呉れ」とか「出るの入るのと」彝を悩ませていた。

 おそらくこの二つの書簡に出てくる婆やは、同一人物なのではなかろうか。

 ところで彝のアトリエでの「洲崎義郎の肖像」制作を見ていた人物がいた。その人は、やはり鬼山と言った。鬼山米吉である。川崎久一氏によると彼は明治23年生まれで昭和49年に亡くなった。

 彝の書簡、大正8年7月15日の洲崎宛に「鬼山君の研究所入学につい色々御問合せでしたが…」とあるのは、彼が家業の和菓子屋を捨て、確かに画を描きたいという願望があったことを示すものだ。しかし彼は、志半ばで2,3年後には帰郷し、ペンキ屋を開業したという。

 この「鬼山君」と、大正10年2月5日の手紙に出てくる「丁度鬼山のバアサンの様に…」の「鬼山のバアサン」とはどのような関係かはっきりとは分からないが、親戚・家族関係にある人かもしれない。

 とすれば、洲崎の肖像画が描かれた前後に彝の所に奉公していたバアヤ、すなわち、大正9年1月18日と大正8年6月18日の書簡に出てくるバアヤというのは同じ人であり、この鬼山のバアサンのことではなかろうかと思われるのである。

 「鬼山君」が、洲崎の口添えで彝の画室に入れたのも、あるいは、このバアヤが既に彝のアトリエに奉公していたからかもしれないと想像できる。

 もしそうなら、ヒステリー持ちのバアヤは、少なくとも大正8年6月18日の2,3か月前から、時には神田のオバサンが来て「苛められ」つつも、また、彝の平磯行前には匙を投げられそうになり、いったんは帰郷したかもしれないが、おそらくは洲崎の肖像画が描かれた頃には、(再び)画室で奉公していたのではなかろうか。そして、大正9年1月18日頃、腎臓病が悪化して入院するに至ったと思われる。

 以上が、大正8年から9年にかけての一連の関係書簡から《バアヤ》について推測できることである。

 

 

 

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