一番下の孫が小学校1年生の時 もう二人の女の子、小学3年生と中学生3年生の女の子の3人を残して 家を出て行った私の娘
当時 35才だったと思います。
あれから二年が過ぎました。
あんなに母親が好きで甘えん坊で 泣いてばかりいた孫も3年生になり こんな手紙を 私にくれるようになりました。
夫婦の 深~いところは 周りの者には 全く分かりません。
父親とて 踏みいる事の出来ないことも有ります。
勿論 夫婦仲良くしてほしいと言う 理想は誰にもあります。
せめて自分の家族だけは幸せであって欲しい 全ての人はそう思うでしょう。
しかし、世の中はそんなに甘いものではありません。
話は変わります。
台湾でのお話です。
1920~1930年代 当時世界で三本指に入るような 大きなダムを造り 農作物のまったく育たない場所へ水利を開き 大きく台湾の農業に貢献した 八田興一氏、
今でも 毎年 5月には慰霊のお祭りが盛大に開催されているようです。
しかし 終戦近くにアメリカの攻撃を受けた船と共に 50代半ばで命を落としております。
それを悲しんだ奥さんは 40代前半で身投げをして自ら命を絶っています。
また、外務省の反対を押し切ってビザを発給し 6.000人ものユダヤ人の命を救った松原千畝(ちうね)氏は
戦争を終え帰国したのですが 間もなく外務省を首になり その後 辛い生活をしいられました。
80代半ば迄 頑張って生きられました。
しかし、その功績が認められたのは 没後十数年経ってからの事でした。
それも外国の大使館の方からの 色々な出来ごとから分かってきたことでした。
日本では ずーっと知らぬふりを通していたようです。
本人が健在でいらっしゃる時に 功績を認めてあげたかったものですね。
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