独白

全くの独白

退位

2017-01-26 21:06:38 | 日記
アイドルは偶像、偶像は時に象徴である。「アイドル」たる「タレント」は個人であると同時に各のファンの理想像を象徴している。にも拘らず強い思い入れに依り心中で混同した上、個人としての側面をも私物化してしまった挙句に騒ぎを起こす者が稀に居るのは困った事である。
象徴は二面を有する。一面では他の者の為に在りもう一面ではそれ自体として在る。例えば高級車はステイタス・シンボル、所有者の地位の高さを示す為にある。同時にハンドルやエンジン、タイヤを備え、走る事が出来る。後者が車本来の姿であり、そこでは車は車自体として存在する。
天皇も象徴であると同時に個人、または個神である。人であれ神であれ個ではある。国の法は国民の義務と権利をも定めているが、そこでの国民は具体的な各の人ではなく抽象的な、総体としての国民である。隣の伊藤さんの権利義務、言動などの総てを国法で定める事等出来はしない事は誰の目にも一目瞭然である。
それなのに天皇に就いてはそういう事をしているから、法を変えようとしても無理が生じる。とんでもなく煩瑣で収拾の付かぬ事態を惹起するのも道理で、現にしている。
国は天皇の、ある意味で公的である象徴としての面に囚われて、個としての面を忘れて一から十迄法で雁字搦めにしている。
詰まりアイドルのファンは襲撃に依り、国は法に依って、同一の存在に於ける個と象徴との融合という安らかな事態に破綻を招来してしまった訳である。
皇室に纏わる事でも、国の関与すべき事とせざるべき事とがあると弁えるべきである。例えば皇室の予算に関する事では、場合に依り専門家や有識者の意見を参考にして、国が執行する事に成ろう。併し退位、後継問題等に於ける仕来り等皇室の私事であると言っても良い事に就いては、国の介在は無駄で在るばかりか不条理でさえある。
「内輪の事に容喙するな」と思っている方も在るかも知れない。
例えば憲法に、退位に就いては皇室典範で決めると在るならば皇室典範に「必要に応じて有職(ゆうそく)に諮問する等して皇室で決める」とでも追記すれば良かろう。

逃げる野菜

2017-01-22 15:15:19 | 日記
私は神経質で、ビス一本でも落として見えなくなると徹底的に探す。ある筈の物が無くなる事に我慢ができない。
車の床のように手が入り難い上に汚れる場所で見えなく成っても、殆ど見付かる迄捜す。それが夜なら、今でこそ翌日まで待つ様になったが以前はヘッドランプを使って捜した。妙な所に入り込んで故障に繋がるのが心配な所為でもあった。
屋内でも食物のかけらが落ちて然程弾みそうに見えない物なのに見失う事がある。遙か彼方で見付かる。ラグビーボール状の米粒等は勿論とんでもない所迄行ってしまって居る。米等は農家の苦労を思っても疎かに出来ず執拗に捜すが、床が白っぽかったりするとなかなか苦労させられる。屋内にも手を入れ難い所はある。見つからなければ冷蔵庫の下に棒を突っ込んで探る。車のような故障の心配こそ無いが、冷蔵庫の熱で長い間には炭化して軈て燃え出すのでは無いかとも思うので捜し捲る。諦めるのは百度に一回位である。
台所で野菜を切っていても、飛んで俎から落ちる事がよくある。然程良い包丁でもないが、トマト等が切り難くなると研いだりして気は配って遣っている。嘗て詰まった排水管に苦労させられた事があり、性分としても放置出来ず必ず探して拾う。食物を粗末にするのも厭なのでなるべく洗って使う。我乍ら面倒なので、そっと包丁を下ろし静かに押し引きする様にしている。それなのに無闇に飛ぶ。意思を以て逃げてでも居る様に繰り返されると次第に腹が立って来る。
儘に成らない世の中を、代表して私をからかっている様な気さえする。両方が忌々しい上に無くては成らない点で共通しているので、益々腹が立ってくる。

それにしてもブログを見たり付けたりするのに時間が掛かって、又新聞が3日分程溜まってしまっている。中毒らしく、困ったものである。勝手に遣っている事であるだけに猶更手に負えない。でも楽しい。

自分の声は分からない

2017-01-21 15:52:08 | 日記
自分を他人がどう捉えているか、自身では解らない。気質などの内面は勿論、外面も同様である。顔や姿は鏡に映るがその像は飽く迄自身の主観であって、他人に依る客観ではない。
若い頃数人で雑談している時に、中の一人が私の喋り方が面白いと云って真似して見せた。瀬川瑛子のようである。まさかと思い、そう言って抗議もしたが、他に異議を唱える者は居らず皆笑って聞いている。納得しているのか?
あまりに意外であったので、常に脳裡に在るらしく、しょっちゅう思い出される。数年経って、原稿を朗読して録音する機会があり、再生してみても別に瀬川瑛子のようではない。尤も私は朗読が得意らしく、子供の頃授業中に教科書を読ませられても、殆ど間違えなかった。この時も原稿があるから普通に声が出て居るのかも知れないとは思ったが、わざわざ原稿無しで話して見て確かめようとは思わない儘、四半世紀が過ぎた。
電話に留守録というものが現れ自分の声で案内メッセージを入れようと「今、宇宙旅行に出かけてますので云々」と、短いから不要であろうと思い原稿なしで吹き込んだところ、ちょっとぎごちない気はした。再生して聞いてみると確かに瀬川瑛子である。
軽いショックを受けたので、爾後は少し早口で話すように心掛けたところ、少しどもるように成った。朦気に幼い頃軽くどもって居たような気もし始め、それを直そうと喋り方を遅くした為に瀬川瑛子に成ってしまったのかも知れない。母に確かめると吃音では無かったと言われたが、半信半疑で居る。
そう云えば、瀬川瑛子の今の声も同様の事情で出来上がったのかも知れない。瀬川さん、失礼しました。

人間という不完全なもの

2017-01-20 14:21:19 | 日記
最近こんな事があった。
ある町で本庁舎から少し離れた場所に分庁舎を建てる事に成った。そこには議会を移す事に成り、議会と執行部との間の一体感を保持し、往き来する議員らの身の安全を保障する為に、専用の通路を作る事にした。地中でもなく地上でもない空中に作ると、一旦決まったが、景観上などの観点から芳しく無いとの指摘があって、空中の通路は作らない事に成り、それに伴って議会の移動自体も取り止められた。分庁舎には他の部門が移る事に成ったがその際、空中が駄目なら安上がりに地上の通路はどうか?という話に改めて成った。するとある議員が「議会移転が無いなら通路など問題にもならない」と言ったらしい。
どんな部署であろうと本庁舎との懸隔は少ない方が良いに決まっている。安全保障面でも、普通の職員なら急用があれば走る事もあろうが、議員の走る姿は選挙中ででも無ければ見られまい。詰まり専用通路は議員より寧ろ普通の職員の為にこそ必要な物と思われる。にも拘らず専用通路の必要性を言下に否定した処には、此の議員の優越感が端無くも垣間見られる。そして七億も八億も掛かる空中通路は、議員だけの為に計画されたという事になる。此の議員が特に鼻持ちならない人であった訳ではない。議会にあれば回りの誰もが選ばれし者達である。人に依り強弱はあれ、優越感や特権階級意識のようなものが下意識には潜在していよう。そんな場で日々を過ごすうちに、それらのものの醸し出す空気は、鼻から皮膚から沁み込んで正常な神経を麻痺させ、軈て誰もがその空気を自然なものと感じるように成ってしまうのも無理はない。恰もアルコールで快適に酔った時に、余りの心地良さにそれが通常の状態であるかのように錯覚して「酔ってない、酔ってない」等と言ったり、極自然に運転して帰ろうとする様にである。
大臣等でも、内輪の会合の心算で叩いた軽口が外に洩れて騒ぎに成る事が有る様に、どんな社会や集団にも、その場特有の文化、秩序、正義等といったものが在る。誰しもその場に身を置く様に成って暫くすると、最初は客観視出来ていた、その人を包み込むそれら特有な事物はその人自身に染み付き馴染んでしまう事に拠って、それ等への意識も下意識に潜り込み沈殿してしまって見えなくなるのは、電通などにも見られる通りである。
斯々る事態は、大人が幼い頃を思い出す時に感じる限界に似ている。事実を思い出す事ができるに過ぎず、その事実を巡る自身の内面の在りようを皮膚感覚的に如実に思い浮かべる事は決してできない。多分、下意識に沈殿して居るのであろう、何でも無い時にフッと意識に上って来てすぐ又隠れてしまい、どう足搔いても引き戻す事が出来ないという経験は、誰にもあろう。皮膚感覚については、逆方向が解り易い。私なども多くの人同様、若い頃は年金のネの字に就いても考えてみもしなかった。あの頃は、今程年金というものに切実な親近感を持っていなかったのは間違いない。事程然様にあの頃今の皮膚感覚を、仮に持ってみようと思っても出来はしなかったろう。
又私は気質的にヴァガボンドである。今の地に住み着いて四半世紀、飽きは来ているが諸事情があり、流石に面倒でもあって引っ越す訳にも行かない。見慣れた此の地を、旅人の意識で見る事が出来れば新鮮で佳かろうと思うが、記憶をすっかり消し去りでもしない限り叶わぬ夢でしかない。
これを要するに人間なんて吾人が思う程、正しくも賢くも、決してありはしないものなのである。

自転車で前転(紙一重である生死の③)

2017-01-19 15:28:29 | 日記
昨夏にはこんな目にも遭った。自転車で長い急坂を下っていた。S字のカーブがあり、まず左へ曲がった。帽子はオージー・ハットで鉢の両側に三つずつ穴が開けられている。私はその穴に太い釣り糸(透明で目立たないので)を通して顎で縛って飛ばないようにしている。かなりの風でも飛ばないが急坂の向かい風は暴風のように暴力的で、ちょっと糸が緩んでいると、よく脱げてしまう。この時もそうで、手をハンドルから離したくないのは無論だが、糸の御蔭で飛びはしないものの脱げてしまったものを被りなおすのは意外に面倒であり、第一止まらなければならないので、つい手で押さえてしまう。続いて右カーブ、又脱げそうになり手で押さえる。ところがだんだん速度が増してくる所為もあり曲がれない。もっと思い切って体を倒そうとするところへ、片側一車線の道を対向車が来る。下手をすると曲がり過ぎてしまうかも知れず車に突っ込んでは却ってまずい。思うが早いか自転車は道を逸れつつある。溝があり、幅は普通でも深さがある。
瞬時に想像する。タイヤは溝に落ち左手は地上に、だが右手は溝の真上で空を切る、受け身はできず溝の縁のコンクリートの部分で頭を割るか首を折るか、いずれにせよ悪くすれば随意に動けない体になる、とんでもない不孝をする事に成ってしまうのか。併しスピードが諸刃の剣、わが愛車モーグは、スンナリ溝を渡ってくれた。だが一難去って又一難、左から小路が合流している。一停の標識はあっても越えて出てくる者は多い。権利義務を云々する前に取り敢えず私の方が痛い目を見るに違いないし、モーグとともに二度と動けぬ体に成ってしまうかも知れない。これも不思議と瞬時にそう思ったのである。
なんとしても止まらなければならない。私は右利き、右手は矢張りハンドルに、左手が帽子にある。私はこういう事もあろうかと常々自身に言い聞かせている。「絶対に右のレバーを先に握るなよ、右は前輪、つんのめるのは火を見るより明らかだからな」併し咄嗟の場合手は思い出してくれない、握ってしまったらしく私とモーグは共に前転していた。急いで散乱したものを拾い集め人目を避けて小路に入った。幸い土の上でありモーグにも私にも傷一つない。背に泥のこびりついたシャツだけは脱ぎ、淡々と又走り出した。異音も聞こえず安堵と共に家に帰り着き、いつものようにまず腕時計を外そうとすると無い!途中で時間を見ようとしなかったのは幸いであった。無い事に気付けば私の気質としては、遠く迄来てしまっていても捜しに戻ったに違いない。通常サイクリングのコースは毎回変えるのであるが、この時は二三日して又同じところへ出掛けた。見えにくい草葉の陰で、半分埋まって居たが見付ける事が出来た。案の定かなりの力が加わったようで、ベルトが切れていたがかなり前に買って無駄だったかと思っていた予備があり、十分程で交換する事ができた。詰まりこの時も被害は着古したシャツ一枚+αで済んでしまった。私のような者でも死んだりしていれば少しは騒ぎに成って居たろうが一歩ずれて生き延びてしまったが故に、こんな事は誰も知らない。他人にとっても私自身にとっても極些細な事でしかない。こんな経験をするたびに、人生は一見安全な氷を踏んで渉っている様なものであり、生死が紙一重の所にあるとの実感が深まる。
因に、爾来下り坂でハンドルから手を離した事は無い。