独白

全くの独白

山と下界とのギャップ(紙一重である生死の②)

2017-01-18 15:17:52 | 日記
目覚めると雪が積もって居るらしくテントの幕が内側に撓んでいるが、それでも随分明るく、日はもう高く上っているらしい。
取るものも取り敢えずシュラフから抜け出て恐る恐る足を見てみると、あれ程気に病んだ広く濃い紫色は、綺麗に消え失せていた。あの時ほど肌の色が美しく見えた事は無い。鼻歌と共に外に出てみると、快晴に新雪が輝いている。下山を延ばした分時間はある、ゆったりと、登って来た笈が岳等を見渡し乍ら珈琲や茶と共に遅い朝食を摂りテントを撤収し、山々に拝礼し再来を告げてから、昨日と違う良く見知ったルートを辿って下りた。まだ下手にしか鳴けない鶯などの鳥の声を長閑に聞きながら麓に下りると、下界はすっかり春酣で、薄着になっても汗が出る。畑仕事の老婦人の傍らには、不似合いな秋田犬、それが立ち上がって、私の動物好きである事を嗅ぎ付けでもしたように、付き従うとも無く付いて来る。
毎年初めて山に入る時はそうなのであるが、重いザックにめげそうに成りながら、熊等いろいろな事物を警戒してオッカナビックリの初日でも、二日目、三日目と体力も付いて来る様で、又次第に大胆にもなって、険しい、カモシカの好むような斜面をこちらも好んで歩くように成って行く。従って、熊は(新しくはあっても)踏み跡しか見られないが、猿の群れやカモシカには良く遭う。そんな野生を取り戻した私に、犬も親しみを感じるのかな等と、一人悦に入ってみたりもするが本当の所は、ザックから食料の匂いでも洩れ出ていたのであろう。
それは兎も角私を取り巻く空気は昨日のものとまるで違う。私が足を切断しようと命を落とそうと、世の中は気にも留めず動き続け、春の陽気は些かも淀む事が無かろう。逆に見れば下界が如何に平穏であろうと、山では私でも誰でも、全身全霊を以て大自然と対峙し恰も人類を代表してそこに居るような昂揚した気概とそれに伴う自由さを、錯覚であれ感じる事が出来る。斯様なギャップが山、殊に早春の山の持つ醍醐味と言えそうである。(続く)

残雪の山(紙一重である生死の①)

2017-01-17 15:29:56 | 日記
世の中には骨折など大怪我をし易いタイプと、し難いタイプとがあるらしい。私は後者であるが大けがをし掛けたり死に掛けたりした事は何度かある。
或春に残雪の山を歩いて居た。冬の装備を持って居らず訓練を受けた事も無いので雪の上は春にしか歩かない。それでもピッケルは勿論、樏やスコップ、アイゼンも持参するのでザックは結構重い。春でも高い山は冬同然なので二千メートル位迄と決めている。それでも雪の降る事はある。その時も雪、当然霧も深く、良く知った山ではあるが間違えて降りてしまった。どこもかしこも雪なのでどこでも歩ける自由さが堪能できる代わりに迷い易いのである。下りるに連れて、登った時とは全く違う険しさに成り、上りでは聞こえて居なかった沢の音が大きく成って来るので、それがはっきりするという事が多く、この時もそうであった。
私は予備日を一日取る事にしているし、残雪の時期には良くある事なので別に焦りはしない。冬のように長く荒天が続く事も先ず無いので下山は一日伸ばす事にして上り返した。だが何せザックは重く険しさはひどく、殊にそれが無駄なアルバイトであるが故に、幕営に適した場所に辿り着いた夕刻には予想以上に疲労困憊して居た。途中、疲れて眠くなり前のめりに雪中に倒れ込んでみると、不思議に冷たくも寒くも無い。さわさわと顔に当たる風が寧ろ心地よい。此の儘にして居れば軈て眠り込んでしまって死ぬ事が「できそう」な気さえした。
ザックを下しても体は重く、やっとの事でテントを張ると靴を脱ぐのももどかしく中に入りコンロとランタンに火を点けた。そして乾いた服に着替えようと靴下を脱ぐと足が冷たさで濃い紫色になっていた。寒くて唇が、という時とは全く違うその色を初めて見たので、青くなってカイロをあてがったり懸命に撫でたりさすったりして居たが色は全く褪せない。軈て食欲の全く無い中、猛烈な睡魔に襲われて寝袋に潜り込むと、夢現に「切断か、とんでも無い親不孝をしてしまった」等と思い乍らもすぐに寝入ってしまった。(続く)

それぞれの世界(関係と選択の⑥)

2017-01-16 14:54:59 | 日記
然様に不完全なものでしか無いにも拘らず、まるで人間が地球の主ででも在るかのように思い違いをしている者も多い。
併しそれも無理からぬ事で、世界の本当の姿は誰にも解らない。何かこうで在ると断ずるものが在ったとしても確かめる事ができない以上解らないと断ずるの他は無い。
人の目に移る世界と例えばトンボの目に映る世界とはかなり違うらしい。もしトンボに内面というものが在ればトンボは自身の見ているものこそ世界の姿であり、そこの主人は自身であると信じて疑うまい。如何に不完全な人間の不完全な目に映るものであろうと、人間にとっての世界は人間の目に映る世界でしか在り得ない。
それは黒い瞳を持った日本人が日本という国を治めているのにちょっと似ている。勿論瞳が青ければ世界が青っぽく見えるという事は多分有るまい。けれども内面の瞳でも在る考え方やその底の概念や論理といったものは使う言葉に伴って異なっていると考えて良かろう。
詰まりほぼ単一の民族から成る日本では、そういう民族とそういう民族に治められる国の姿とが相乗的に相俟って、今の両者を作り上げてきたように、例えば多民族から成る合衆国では、多種多様の内面の瞳を持つ事に依って今見られる独特の米国人と米国の姿とが創り上げられて来たといって良かろう。(続く)

分岐点

2017-01-14 20:31:24 | 日記
厳しい寒波の下、センター試験があった。生徒達は今日、どうかすれば一生を左右するような重大な別れ路に立って居る様に思う人も多かろう。
だが私には取分今日がそのような日であるとは思われない。只たまたま同じ時間に何十万人もが一斉に似たような場に立っているが故に目立って、そう見えるに過ぎない。実際は総ての人が昨日も今日も明日も、時々刻々見通しの利かない分岐点を通り続けている。
例えば今朝蕨駅で目の不自由な人がホームから落ちた。彼は正しくあの時運命の岐路に在った。何せ彼は亡くなってしまったのである。

堂々巡り(関係と選択の⑤)

2017-01-13 15:24:38 | 日記
抑同国人同士に於いても「これは赤い色である」と複数の人が言った時、各々の内面にある「赤」が全く同じ色である保証などありはしない。正常な色覚を持つ人と異常な色覚を持つ人とで異なるのは当然であり、それほど極端で無くとも微妙な差異がある事は十分考えられる。
色に限らず言語でも同様で、「関係」でも他の言語でも、それがそれぞれの人の内面で成して居る形、即ち言語という紙の裏面である概念や論理が完全に同一である事など、寧ろあり得無いと云って良かろう。ただ実用上殆ど同一と見做して良かろうとの類推に依り吾人は、紙の表面である言語を使って会話し、議論し、論考し、読み書きして居るのであろう。
併しその類推自体も又一枚の紙の裏表の様なものである言語や論理などを使ってするしか無いので、それではその類推に使う言語の同一性は(?)と考えて行くと限りない堂々巡りに陥ってしまうのでどこかで断ち切らざるを得ない。詰り不完全と解っている言語や論理ではあるが、吾人のよすがとすべきものはそれら以外に無さそうである。この面からも人間というものの不完全さをつくづくと思わせられるのである。(続く)