独白

全くの独白

挙げ足を取る

2017-04-27 15:53:42 | 日記
復興相辞任に就いて菅さんが言った「大臣、副大臣、政務官は呉々も発言に注意を」。
平の議員なら軽い気持ちで何でも言って良いのか?
二階さんに到ってはカメラを指差し乍ら、「マスコミが騒ぎ過ぎる。首迄取ろうとしなくても良かろう」。
あんなもの、そんなに騒ぐ程の発言か、と言って居る様に聞こえる。
これが例えば尼崎脱線事故でマスコミに責め立てられたJRの誰かが、仮に心中でそう思ったとしても、
「首迄取ろうとしなくても良かろう」等と口に出すものであろうか?
普通の情を持った者なら、誰に何と言われようと、顔を上げる事すらできまい。詫びるとはそういう事であろう。
今私は挙げ足を取っている。人間誰でも挙げ足取りが好きである。
相撲でも「かわる」立ち合いはあまり褒められない。にも拘らず遣る者は後を絶つ事が無い。壺に嵌まると当人にとっては痛快だからである。
その上相手が、「足を取ってくれ」「是非かわってくれ」と云はむばかりの姿勢を見せるのだから、止せという方が無理である。
彼等は長屋住まいの傘張侍では無いのである。武蔵か卜伝かと云う様な人達が隙だらけの姿勢を取ろうか。
二階さん等よく新しい議員たちに「常在戦場を旨とせよ」と言って居る様である。
一流の武士が平時を戦時と弁えた時には当然、平時でも隙だらけの姿を見せたりはしまい。
私如きに挙げ足を取られるような油断を、菅さんや二階さんのような立場の人がするのは如何にも不味かろう。
油断は無論弛み緩みの結果であり、劣勢にある敵の目には驕り昂りの結果とも見える筈で、忌々しさに戦意は彌増す事であろう。
油断の結果である失言の駄目押しの様な菅さん、二階さんの失言が、首という恥の上塗りに繫がる事の無い様、自民党の為に祈って置く、
挙げ足取りのせめてものお詫びの印として。

正義の戦争と爽やかな強奪

2017-04-23 15:44:16 | 日記
三億八千万円強奪犯が、被害者の顔に噴射したのは、芥子の熊よけスプレーかも知れない。
周到な準備をしたらしいから、事前に名古屋で二人の女性に使ってみて、効果を確かめたのかも知れない。
黄色の液で、掛かった顔が熱く成ったというので思い浮かんだのである。
名古屋事件の後、類似の犯行が無いのも、そう解釈すれば得心が行く。
単なる興味本位での犯行なら、続けて遣りそうなものである。
私は熊よけスプレーを持っており、誤って噴射してしまったことが在るので、色や匂いが解る。
彼等はそういう経験が無いので、スプレー缶を壊して内容物に触れては見たものの今一つ効果を実感し得なかったので、他人の顔を借用したのかも知れない。
何せ相手は、熊を撃退しようというもの、なかなか犬猫や鳩、況して自身の顔を使う気には成れないものである。私が噴射したのも飽く迄誤ってであり、顔に掛かってもいない。
強奪犯も手口は荒っぽいが、銃や刃物を使っては居ない処にそこはかとない優しさが仄めいている処から、小動物に使ってみる事が憚られたのであろうと推察されるのである。
併し本番で使う相手は人間であり、予行の対象も人間である事は、必須として要請された訳である、已んぬる哉。
斯様な大強盗事件が多くの人の興味を惹くのは、多くの人に一攫千金への憧れがあるからであろう。
その上私のように不謹慎な一部の者には、それを然したる人的被害を出さずに実行した事に、小気味良さを感じてしまう処さえある。それで斯様に不要な穿鑿をあれこれしている訳である。
併し対象は飽く迄犯罪である。小気味良く思ってしまう点を反省してみた結果、以下のような結論を得た。
戦争して勝てば快かろうが、それは破壊や殺戮を不快に思わない者であり、私を含めて多くの者は心底からの快感を抱き得まい。
理不尽な破壊や殺戮が悪であるなら、正義の名の下の戦争は、悪を伴った正義という矛盾したものである。
一方強奪は、悪事という名の不正義であって謂わば純粋である。人間は一攫千金へのそれ同様に、純粋さへの憧れをも持っている。
従って正義の旗の下の戦争に於ける勝利への快哉が在るなら、殆ど無傷での強奪に感じる小気味良さもあって強ち不自然ではない。
数値化してみる。正義の戦争は+1-1=0、強奪という不正は-1-1=-2が基本にある。そして「戦」は0-1(矛盾という不純)=-1、「強」は-2+1(純粋性)=-1、更に「戦」は-1-1(好戦性)=-2、「強」も-1-1(一攫千金への浅ましい執着)=-2という事に成り、両者は同値である。
即ち比較的に穏やかな強奪を小気味良く思うのが芳しからぬ事であるならば、正義の傘の下の戦争での勝者への讃辞も同様に非難せらるべき事と言わざるを得ない。

不毛なるもの、戦闘

2017-04-12 15:07:28 | 日記
先日岸田外相が、G7外相会合に就いてのインタヴューに応じて妙な事を言っていた。
「シリア政府が、化学兵器を使ったか否か確認は出来ていないが、わが国として米国の決意は支持する」と言うような事をである。
これでは裁判官が「被告の犯行か否か確認できないが、検察の決意を支持して有罪とする」と宣告するようなものである。
私も選挙中のトランプ氏のように、自分の言い分だけを喚き散らして押し通す餓鬼大将のような遣り方を好まない。
品位に欠けていて無粋でもある。
又我国民のシンタリティとして慎み深く婉曲な表現を好み、曖昧だと詰られても微かな笑みを湛えて、以心伝心の成立をじっと待つといった所があり、そういう所は私のパーソナリティにもある。
況して問題はデリケートな国際関係であり、軽々しく直截的な事をズバズバ言って居れば良い訳ではないのも解る。
それで言葉を選び過ぎた結果として、この様に筋の通らない言表と成ってしまったのでもあろうか。
併し曖昧な言表にして置きたいからと言って、整合性に瞑目して良い事には成るまい。
「我が国の能力では確認できないが、米国の情報機関の優秀さに鑑みて、その判断を信じてその結果としての米国の決意を支持する」とでも言えば良かったろう。
ま、そう言ってみたとしても、飽く迄自国独自の確認と判断に拘泥するという事を、しなかった点での怠慢への謗りを免れはしまい。
理由は何であれ、米国のミサイルが何人もの人を傷付け、多くの物を破壊した事実は動かない。
その事実の基である決意を支持するなら、それは吾人が同様の報復を受ける覚悟を持って居るとの言明であると受け取る者がきっと居る事であろう。
核、化学、生物兵器と通常兵器との違いは、規模のみに過ぎまい。否、今尚語り継がれる東京大空襲等に思いを致せば、規模に於いてさえ変わる処は無い。
泡を吹いたり痙攣したり、皮膚が爛れたりと言った惨状に比べて、脳味噌や腸を抉り出されたり、手足を吹き飛ばされたり、腹の皮一枚で辛うじて体が繫がって居たり、丸焼けに成ったりといった有様の方が増しで在る等と言えようか。
犠牲者の中の弱者の割合等も、殆ど偶然の産物に過ぎない。
尤も私のように御託を並べて居るだけでは、物事は何も解決しない。
核兵器を手に入れたスペクターを検挙するには、MI6に依る情報蒐集も軍隊に依る制圧も必要に成ろう。
SFが嘗ては誰も予想しなかった早さで現実化しつつあるのに歩調を合わせるように、荒唐無稽な絵空事も思い掛け無く、スペクターがISと成りシリアに成りボコ・ハラムや北朝鮮と成って、現実化してしまっている。
どうしても武力に頼るしか無いのであろうか、憂き世である。

矛盾を抱えた答弁書

2017-04-06 15:52:10 | 日記
地方紙の4/4付けの夕刊の記事に面白いものを見付けた。
「政府は四日の閣議で『森学』への土地払い下げ問題を巡り、前理事長の問い合わせを受けて財務省に照会した首相夫人付きの政府職員の行為は、公務に当たらないとする答弁書を決定した。『公務員として丁寧に対応したものだが、職務として行なったものでは無い』とした」と言うものである。
面白過ぎる答弁書である。「公務員として対応する」と「(公務員が)職務として行なう」と言う同じ事を、矛盾と強弁しているようで、言葉遊びをして居るとしか思われない。
憲法九条と、武力を保持してそれを使った訓練もして居る自衛隊の保持との関係を連想させる、前半後半両者の関係である。
確かに例えば、丁寧で熱意ある公務員なら休日でも勤務時間外でも公務に関する行動や考察をする事があろう。そういう時に「照会」もするかも知れない。
併し財務省であれ村役場であれ苟も役所たるものが、職務を離れた一個人としての某からの問い掛けに、国有地の払い下げの事に就いて親切に答えてくれようとは思われない。
そこで職分を明らかにすればその時点で、その行為は公務である事になろう。
例えば非番の警官が偶然の成り行きで、現行犯逮捕をする事に成ったとする。手帳を見せる等して職業を明かした方が何かと好都合であろう。するとその時からその人は、一民間人ではなく警官と見做される事に成ろう。換言すればその行為は其の時から、(警官と言う)公務員の公務と言う事に成ろう。
ところで人間は誰でも幾つもの顔を持っているが、ここで問題にしているのは公務員の、公務員としての顔と、そうでない者としての顔の二つだけである。
公務員も又民間人の一人という、公務員で無い人でもある。詰まり公務員を、公務員でも公務員で無い者でもある人と称する事は出来よう。併し公務員でも、公務員で無い者でも無い人とは称し得まい。それでは幽霊に成ってしまう。
即ち民間人としてした照会で無いならば、公務員が(職務として行なった)紹介であるに決まっている。
因に駄洒落やもっと複雑な言葉遊びを好むのは万国共通、詰まり人間の本質的性向の様ではあるが、この答弁書と、自衛隊と言う存在を有した上での憲法九条の出来は、誰が見ても上出来とは言えまい。
説得力に欠け居り、見聞きする者を唸らせたり笑わせたりする力が無い。
ま、嘲笑う者は居るかも知れない。

面影

2017-04-04 15:36:37 | 日記
見ず知らずの相手と、メールやブログで語り合っていると、自身の年齢も意識の外に出て行ってしまうのと逆に、相手のイメージは何と無く意識の中に出来上がって来てしまう。
私の場合その像には容姿が無く、精神だけで出来ている。
ここから連想するのは、同窓会などである。長らく会って居なかった友達はすっかり容姿も変わっていて、暫くは同定さえ出来ないが、会話等を交わすうちに様々な思い出と共に当時の面影も今の表情の上に鮮やかに甦えって来る。
この様な時の会話の相手は、その人の精神の心髄であり又真髄でもある。
それは「三つ子の魂、百迄」の「魂」であり、「雀百迄踊り忘れず」の「踊り」である。
「軸」と言っても良く、嘗て備えていた物より遥かに大きなスクリュープロペラを船尾に付けて、高速で遥か彼方へ行ってしまった様に見える友と雖も、軸は恐らく三歳位で出来上がってしまった物を其の儘使って居るのであろう。
癌で他界した伯父を末期に見舞った事がある。見慣れた伯父とは違う人がそこに居た。足は象のように浮腫み、前歯は何本も抜けた儘、煩わしくて入れる気にも最早成らぬと言う。正視に堪えず立ち尽くして居ると、横に為って居た伯父が「ちょっと起こしてくれ」と言う。
背中や腕に手を添えて起こして居ると「御棺に入れる時もこの要領だぞ」と言い乍らニカッと笑ったその顔は、元気だった頃と少しも変わらず、紛れも無く懐かしい私の伯父のものであった。
因にその時、母(伯父にとっての妹)が浮腫んだ足を摩ってやると、「(触られると)痛いんだぜ」と言った。詰まり伯父は泰然として居る様に見えて実は、苦痛と闘い乍ら横たわって最期の時を待って居たのである。それなのに然程でもない遠路を訪ねて行った私を、冗談でねぎらってくれたのである。