独白

全くの独白

王様の耳はロバの耳①

2018-04-27 15:13:26 | 日記
 確かに人間は天の邪鬼である。秘密は暴露される為にあると思っている様でさえある。
意地も悪い。暴露される秘密が重大なものである程、し甲斐を感じるものである。
 併しかの理髪師が「王様の耳はロバの耳だ」と口に出さざるを得なかった理由の第一は恐らく、「おぼしき事言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける」事自体であろう。「大鏡」でも、この後には「だから昔の人も、何か口に出したい事があると、穴を掘って言った事をそこにを入れていたらしい」と云うような言葉が続くのであり、この事は、洋の東西を問わず、人心のそのようなものである事を証している。
 抑も私がこのログを綴り始めたのも、そのような心理の然らしむる処であったろう。
 さて私には些細ではあるが、長い事気に成って居乍ら、誰ともそれに就いて語り合う機会の無かった事物が幾つか有る。長いものでは半世紀が経つので、今まで同様これからも、そういう機会は訪れないかも知れない。もし死ぬ迄無いと、死に切れないかも知れない。今朝未明に、そういうもの共が不図浮かんで来て、小一時間眠れなかったので、この際この場で、穴を掘って葬ってしまう事にした。

  ⊛「お座敷小唄」に、「雪に変わりはないじゃなし」というくだりがある。
 文脈に依れば、此処はどうしても「雪に変わりはない」でなけれはならない。併しそれでは曲に乗らない。そこで言い換えるとすれば「変わりがあるじゃなし」の様にでなければならない。ところが実際には上記の通りに成って居る。これではどう考えてみても「ないのではない」のであるから「ある」、「雪には変わりがある」、「京都と富士の雪は違う」との意味にしか取れない。
 確かに、乾いた粉の様な信州の雪と、湿って重い北陸の雪が違うように、京都と富士の雪も、厳密には違って居る事ではあろう。ではあるけれども、「一見異なった雪も、融けてしまえば同じ水に過ぎない」と云いたいのかも知れない。併しそれならば、「雪には変わりがある」と「溶けて流れりゃみな同じ」とが、「けれど」のような逆接的な言葉で繫がれて居なければ、不自然である。曲に合わせる為に不自然な言い回しをしている歌は確かに多くあるが、此の歌詞の不自然さは極端に過ぎる。 
 この唄は子供の砌にラジオ等からよく流れて来て、幼い自身の解釈に足りない処があるのかも知れないと、執念く考え此の場合の「じゃ」には、普通と違う意味があるのかも知れない等とも思ってみたものである。
 併し長じた今となって漸く、此処では「雪に変わりはないじゃないの」と云いたいらしいと判った。それならば素直に、「ないじゃない」とすれば済んだのである。口語の歌詞の中に、必要でも無いのに文語「なし」を紛れ込ませるから訳の判らないものと成り下がってしまったのである。
 尤もこの作詞者は知れていないらしい。内容が内容であり、どこかの酔っぱらいが即興で作ったものかも知れない。

ところが名の有る人の書いたものの中にも、首を傾げたくなるものがある。

                                                              (続く)



 
 

嘘と思い做し

2018-04-12 15:15:19 | 日記
国の役人と地方の役人の云う事が矛盾している。
必ずしも国の役人の方が優秀であるとは言えないし、国の役人の方が常に正しいとも言えないのは無論である。
 人の世は信頼で成り立っている。
信頼無くしては、例えば踏切の信号が青でも、止まらずに通過する事も出来ない。
道から見て青なら運転者は、電車が来ないと信じて進入する。赤の時は電車の方が、車も人も進入しては来ないと信じて進行する訳である。
車と電車の双方に、相手への信頼があればこそ出来て居るのである。
 況してこの騒ぎの主は俊英であり、泥棒でも詐欺師でもない。国の役人も地方自治体の役人も、間接的に畢竟は吾人が、少なくとも一般の民間人並みではあろうと、信じて任じているのである。
嘘と断じてしまっては、気の毒である。信任した相手への嘘吐き呼ばわりは第一筋が通らない。一旦信頼して任したからには、当人が白い旗か錦の旗を掲げる迄任して置くが好かろう。
 因に自身が勝手に期待した期間に成果の挙がらない事に業を煮やして、折角任せてくれた仕事を途中で性急に取り上げてしまう上司程、忌ま忌ましいものは無い。
 記憶程あやふやなものも無く、私等は昨日食べた物すら思い出せはしない。
只さえ曖昧なそういうものが、何らかの事情で何らかの情緒に流されれば、嘘と紙一重のものに成ってしまう事は、意外にあり勝ちである。
但しそれは飽迄寸前で嘘に成り下がらずに踏みとどまっていて、当人も半ば以上真実と信じている事が多い。
過去と今とを隔てる靄と、当人の信じ込みたがる事情や情緒が、そうさせるのである。
私等も、長じてからは流石に無いが、子供の砌には結構そんな事のあった気がする。
 記憶に比べてメモと云う物に一日の長の在る事は、備忘録という訳語に思いを致す迄も無く明らかである。
「会った記憶が無い」というのは、「会わなかった記憶がある」、と同義では無い。
「決して会っては居ない、会わなかった」という記憶の無い以上、メモを基に会った記憶が有ると言っている相手に、異議を唱える事は出来まい。
敢えて繰り返すが、このメモを捏造と云ってしまっては、抑も話が始まらない。

善悪は混在する

2018-04-06 21:42:46 | 日記
先日快晴に誘われて自転車で山の方へと行って来た。天気予報でもそう言って居り、前の日が極端に暖かかったが故もあって私の予報にも出ていたのではあるが、それにしても寒かった。
 愛(自転)車モーグ(愛称)に乗り始める数年前迄、自転車には滅多にしか乗らず、母の物を借りていたので、スポーツ自転車に乗るのは子供の砌以来であった。自転車乗りの良く使って居るパッド入り指出し手袋を自転車店で見ても、興味は無かった。素手で乗り出したものの初日で懲りた。手首に痛みが出たのである。爾来モーグに乗る時パッド入り指出しは、欠かさない。
 その日もそれをして出たが、当たる風の冷たさに耐えられず、すぐに止めてフリースの物を重ねた。
これはバドワイザーのノヴェルティではあるが、なかなかの優れ物で重宝している。薄いのに温かくて丈夫である。
モーグ用に使い出した時既に、母が自転車で数年使って居た物なのである。只ダブダブで、見掛けだけが好くない。
併し実用上は頗る好い。レヴァを握る時いちいち視線を遣る事は無い。ブカブカでも嵩張らなければ握る妨げにはならないのである。
真冬に一日乗っていて、足が冷たいと感じる事があっても、手は冷たいと思った事は無い。
 此を着けて寒さ冷たさは免れたが、風も吹くので捗らない。
時間の掛かってしまうのは如何ともし難いが、足に不要の力が掛かるのは、運動に成って良いと、考える事にしている。
殊に今はまだ、奥の方へは雪があって入れない。
例年のように、出るたびに山々を見渡して、消えた辺りから高い所へ高い所へと、登って行っている段階であり、そういう点での物足りなさを風に補って貰っていると、諦める他は無い。
 念入りに防寒着の支度をして来て良かったと、安らかに昼食を摂り乍ら景色を見る。遙か彼方迄さやかに見渡せる。
家からは前日もそうであったが、年に数回、剱岳、立山などが見える。が昼頃になると、雲や霾に隠れてしまう事が多い。
この日のようにいつ迄も展望の保たれて居る事は、そう無い。風が霾等を吹き払ってくれるのであろう。
 風も雨も雪も、不都合な事物だけを齎すものでは無いのである。
 人間でも又、生まれてから死ぬ迄、悪い事ばかりをし通して逝く者はあるまい。
どんな極悪人も少なくとも誕生の瞬間位は、周囲に幸福を齎す事が出来ようというものである。