独白

全くの独白

短歌と俳句と私

2016-10-29 15:21:35 | 日記
ある日どちらかを嗜んでみようと思い立った。PCのノートブックとデスクトップのように一長一短がある。俳句の方が短い上に、季語を入れなければならないが季語は季寄せから捜せば良いので、頭の中から捻り出さなければならないのは十余文字程という事になり、とっつき易そうなので俳句に決めた。
ところで短歌はみそひともじ(三十一文字)とも云われるが、俳句も短歌も構成要素は文字というより音といった方が良かろう。例えば「畢竟」は新仮名遣いでも旧仮名遣いでも五文字であり漢字にすれば僅か二文字に過ぎない。だが現場でこれを五や二と数える人はいまい。四「文字」と数える、便宜上こう数えるのであって、事実としては四「音」である。つまり音声として発して初めて四になるのである。
閑話休題、そこで俳句を嗜み始めて数十年経って近頃漸く俳句の方が捻り易い等と云う事の決して無い事に気付いた。非常に窮屈なのである。31音の使える短歌はその分自由で散文的であるに対して俳句の方はより詩的で制約も不文律も多く、そのような事物に疎い私などに良いものなど決して捻り出せないばかりか、的確な鑑賞も又簡単にはできない。勿論表面的には意味の解り易い詩もあるように表面的には意味の捉え易い俳句もある。だが本当に鑑賞したり本物を捻り出したりしようと思ったらなまなかな事ではできないのである。そういう難しさの在る上に生来人中に出るのが苦手な私などは全くの我流である。斯々るものは矢張り人中に出て宗匠や同輩と切磋琢磨し合う事でしか上達する事は無いのである。どちらかと云うと左脳の働きの方が良く、屁理屈をこねるのが好きな私に向いているのは、より散文的な短歌の方であるらしい事に今更ながら気付いたのであるが、いずれにせよ理屈っぽいばかりで閃きや想像力などとは無縁なのに、何事に就いてもこつこつと積み上げるという事もできず棚から牡丹餅の落ちて来るのを只口を開けて待って居るばかりの私のような者に文芸の女神が微笑んでくれる筈は無く短歌を志したところで大成するとは思われない。天才的で右脳が良い上にコツコツ努力する事も厭わないという才能にも恵まれているか、左脳の出来が良く正確な論理で物事をこつこつと積み重ねる努力に依ってその中に呼び寄せられた閃きをうまく引き留められる者だけが大成するのである。
だが嘆いてばかりいる訳には行かない。手元に在る種を蒔いて作物を育てるしか道はない。こうしてブログを綴るのも、自身の脳裡を覗き込み整理するのに大変役に立つのである。

一票の格差

2016-10-22 15:08:54 | 日記
私は守旧派ではないが此の問題の論点は相違しているのではあるまいか。国政選挙と生徒会長選挙とでは、確かに票の重さが違うと思われる。併し同一の選挙での票毎の重さや価値に違いがあるとは思われない。買収しようとしてある人に一万、ある人には二万渡したとする。それが手違いで一万の人に知られてしまったらその人は腹を立てて警察に密告するかも知れない。但し一万の人は一票、二万の人は二票を持っていたとすれば一万の人にも文句はあるまい。併し明治にもそんな事はなかった。いはんや戦後に於いてをや。つまり同一の選挙では票同士も、戦後それを等しく与えられている有権者同士も平等なのである。
それなのに今騒ぎになっているのは、法廷も訴状の言葉に振り回され巻き込まれてしまっているからであろうか。これらの裁判では弁護士自身が原告になっており、論理に長けた弁護士に論理的不都合があろうとは考えられないから不合理な言葉が鵜呑みにされて罷り通って居るのかも知れない。私も弁護士に論理的誤謬があろうとは思われないし、誤謬のあるのを承知で弁護士ともあろうものが故意に不要の騒ぎを起こしているとも思われない。すると彼らの云う「一票の格差」は相対的な意味のそれなのであろうか。つまり格差のあるのは実は候補者や選挙区においてであり「一票の格差」はそれらを修辞的相対的に言表したものなのであろうか。論理計算でもしてみれば、此の言葉使いの正誤が明らかになるかもしれないが、あいにく私にはその能力が無い。
そこで表現の妥当性はさて置いて、候補者や選挙区のほうでは確かに「一票の格差」を感じているかもしれない。「私が当選するには百万票集めなければならないのにあそこの候補者は十万票でよいとは」と思う人が居れば逆に「あそこの候補者は百万人に頼られているのに私を頼ってくれるのは僅か十万人に過ぎない」と嘆く人も居よう。又、うちの選挙区からはあの選挙区の半分の議員しか国会に行けないとは、などとぼやく人々も居ることであろう。各選挙区への議員数の割り当てを、面積だけ考慮して行なう訳には行かない。それで良ければ話は簡単なのに現状がそうなっては居ないからである。人口だけで行う訳にも行かない。それで良ければ共産党等の云う様に全国区の比例代表制にすれば良いのであり、そうなって居ないからにはそれなりの訳がある筈である。
苟も国会議員と称せられるからには国を代表する者であるのは言う迄もない。同時に衆参いずれであれ自身の選挙区をも代表するものであることを免れない。そしてその選挙区の一部を都道府県と重ね合わせる今のやり方のある程度の妥当性は、有権者と議員双方から拒絶感を持たれていない事が保証しているように思われる。現状の始原は恐らく終戦直後にあり、その後何度か改められて来た。つまり熟慮に熟慮を重ねられて来た末に現状はあるのである。にも拘らず今改めて大きく取り上げられているのは一言で云えば、年月を経て当時の記憶が失われてしまっているからなのではあるまいか。即ちこの問題の論点は、相違しているどころか実は在りさえしないのではあるまいか。勿論時代が変わっているのだから改めて根本から考え直すべしというのも一理ある。それをするなら今度は面積も人口も厳密に数値化した上で、どこからも文句の出ない客観的な高等数学の俎上に載せて扱って、結論もそこに到る過程も完全に記録にとどめて置くべきである。我が国の優秀な官僚に任せておけば、良きに計らってくれよう。そうしなければ又数十年後に問題は蒸し返されて議論は堂々巡りする事であろう。非建設的な事此の上ない話である。

元始、女性は

2016-10-13 14:23:14 | 日記
私の趣味はオンガク鑑賞とオンナノ鑑賞である。通りすがりに目が合うと眉を顰めて顔を背ける女性がいる。こちらも不快になる。「もう十年もすれば頼まれても誰も見なくなるのに。鬼も十八、番茶も出端というじゃないか。折角念入りに着飾り化粧して出歩いているから見てやってるんだ。厭なら隠しておけ。魅せたい相手にだけ見て貰いたいのかも知れないが、そううまくはゆくものか。」等と思う。無表情な人もいる。美女だと微笑んでいったりする。見られ付けている様子である。
私の子供の頃男の子の遊びといえば筆頭は野球であった。暇さえあれば、頭数が揃いさえすれば野球野球であった。が私は見向きもせず女の子の後ばかり追いかけて歩いていた。からかい合ったり見つめ合ったりするのが楽しくて仕方なかった。その反動もあってか年頃に成ると却って女の子に見向きもしなくなってしまった。照れや強がりの所為でも勿論あった。その惰性で今迄来てしまったが、近頃漸く素直になれるようになって来た。あの世が近付いて来たからでもある。視覚的楽しみは人間の幸福感におおいに寄与している。
汗みずくになり時には指を失うような目に合ったりし乍らも尚、山に登るのは、単にそこに自分の足で立って辺りの風景を見回してみたいからに他ならない。そこから見渡す山々の姿は、ヘリコプターで降り立った時のものとは似て非なるものであり、立ち込める霧や降りしきる雨、吹きすさぶ風さえ下界の同じものとは異なった表情をしている。
閑話休題、あの世にはあの世の美があるかも知れない。それはこの世の美と同様のものかも知れないし全く違っているかも知れない。仮に違っていて此の世の美の方が自身は好きだ、もう一度見たいと思っても、多分叶わぬ夢であろう。此の世の美は此の世で心行くまで味わって置くに如くは無い、と近頃は思うのである。そこで美女とみれば取り敢えず遠慮無く見させて戴く事にしているのである。これをいやらしいと取るのはちょっと違う。潜在意識に迄責任は持てぬが、この嗜好は飽く迄純粋に人体の形の持つ美に向けられている。これをいやらしいと云うなら、ポメラニアンや赤子を見てつい微笑みと共に覗き込んでしまう人もいやらしいという事になる。春、桜が咲いたら茣蓙迄持って見に行く等、言語道断な行為という事に成ってしまう。
擦れ違った微笑みを湛えた美女と目が合ったりすると、なんだか一瞬心が通じたような気がして心地よいものである。余りの心地よさに不作法さを忘れつい軽く会釈してしまった時に相手も軽く頷いてくれでもすると、一日幸せに過ごせるものである。オンナノ鑑賞家にとって最悪の反応は冒頭の様なものである。あまりに見られ付けていて「どう?綺麗でしょ」といった顔で行かれてもちょっと辟易するが、ぷいと顔を背けられるよりは余程好感が持たれる。そもそも男女を問わず人間というものは美にさとく、就中人体の美には魅せられる様にできている。平塚雷鳥は「元始、女性は太陽であった」と述べたが、今でも女性は立派に太陽であって、周りから仰ぎ見られるようにできているのであるから決して遠慮する事は無いのである。

自転車歩行者専用道

2016-10-10 14:16:17 | 日記
が家の近くにある。展望も良く、よく使う。気分も爽快になる筈だが、真冬の誰もいない時期を除いては打ち沈んで帰る事が殆どである。自動車が入り込むからである。所々に出入り口があり札が立っていて「バイク自動車は進入禁止」と書かれている。のでこちらとしては「猿だから字が読めないのか!」などと一人ごつ事に成る。
確かに工事用の車両の為に広く成った所もあり、歩いたり走ったりしている者も然程居る訳ではないので車を乗り入れたくなるのは解る。折角の道、使わないのは勿体無いとも云える。だから役所に働きかけて車も入れるように成ってから入れば文句は無いのである。擦れ違い難いから一方通行にすれば自転車や歩行者にとっても割合安全である。
等とここでぼやいていても始まらないのは重々解っているが、何せ私は超貧乏会会長で、金も時間も無い。ここで愚痴って憂さ晴らしでもするしかない。
閑話休題、私が猿でない事は自身解っているがそんな私も速度違反はする。他の者の規則違反を非難する資格など実は無い。末期に到る迄法や国家や自身に誠実そのものであったソクラテスが鼻で笑っている。自身でも厭になる。違反も些細なものならしても良い等という事は決して無い。誰もが良く解って居るのに誰も実践しようとはしない。ギリシア時代から今に至るまで進歩していない。にも拘らず大層聡明に成った様に思い込み地球の支配者にでも成った様な心算でゴキブリやハエを容赦なく叩き潰している。斯様な次第で人間として生きて居るのがつくづく厭に成って暗い気持ちで帰途に就く事に成るという訳である。

矛盾

2016-10-08 15:46:26 | 日記
今年は天候のすっきりしない日が多い。なるべく爽やかな日にサイクリングに出ようと、天気予報を睨んでいたがなかなか良くならない。漸く一週間後に良い予報が出たのでその日にすべきことを遣り繰りして先に済まして手ぐすね引いていた。尤も最近の予報は精度が上がり過ぎてころころ変わる傾向にあるので疑ってもいた処、案の定前日になって雨に変わってしまった。「理不尽な。こんな事なら最初から最後まで雨の儘にして置けば良いのに。」と腹が立った。熊本の件などでも同様である。本震同様の揺れの後に本当の本震が来たかと思えば続いて大雨である。「なんと不条理な」と誰もが天を仰いだ。
だが考えてみると理不尽な不条理な状態の逆は道理に適った状態であろう。すると理不尽の理も不条理の理も道理を指す訳である。普通道理と云えば人間の精神に関して使われる言葉である。それを天や自然に関して使うのは変である。だからついそういって怒ったり嘆いたりする時に何か蟠りを感じるのであろう。道理を広く解釈して、理論の理としてみても同様である。理論も人間が捻り出したもので野菊のように路傍に勝手に咲いているようなものとは訳が違う。そんなものに天が則っていないからと、不快感を表明するのは筋違いといって良かろう。寧ろ天のありようを如実に理論化する事の出来ていない自らの不明を恥じるべきである。その上天や自然とそれらに就いての予報を出す者とを一緒くたにしてしまって非難したり嘆いたりしているのであるから、こちらの方が余程理不尽であり不条理である。要するに人間とは本来理不尽且不条理なものなのである。にも拘らず困った事に人間は又、正しい理論とその到達点としての真理や道徳的な正しさを矢鱈追究したがるものでもある。どこまで行っても不条理で矛盾した姿しか見えては来ない。だがそんな自身であると知りながらせめて「いざ棹差せよや窮理の舟に」などと歌い「厳しい冬にこそ松柏の美しい緑が目に沁みる」などと嘯く人間であって良かった。